第12話 坂道

 汎砂はんさが私の手をいてくれている。

 その手はひやりとして冷たく、肌はなめらかだったが、骨張っている。

 ちからの入っていない私の手を柔らかく掴んでいる。

 あたりは真っ暗な闇の中だった。

 足元に登りの傾斜があって、すこし歩きづらい。

 懸命に足を動かしているけれど、身体が重く、のろのろとしか動かない。

 汎砂はそんな私の歩みを待ってくれているように、ゆるゆると手を牽いてくれていた。

 目を見開いていても閉じていても変わらない闇。

 そうであれば、いま、私はどうして私の手を引く相手が、汎砂だと思うのだろう?

 そんな疑問が湧いたとき、闇のなかから水泡みなわが浮かぶように、声がした。

「かつて大地は、地祇ちぎ河伯かはく、そういう土地にまつわる神々をまつって治めるもので、その神の目の届く範囲を人は領有していました」

 声はどこか遠くから聞こえてくるようにも、牽いてくれている手の指先から伝わってくるようにも、耳元で囁かれているようにも聞こえる。

いくさもありましたし、征服もあった。けれど、あまり広大な土地は支配できなかった。その人々の祀る地祇や河伯のちからの及ばない土地へはけなかったのです。そこに天命を承けた者が現れました。天はあまねく大地の上に拡がり、世界をくまなくおおっている。天命の者は、それゆえすべてを支配できる。土地の神を祀る人々は、彼らと戦いましたが、結局は飲み込まれていきました。ですが、祀る民は天に飲み込まれたとはいえ、地祇や河伯らはいまでもちからを持っています。天と地祇らは相対する者であり、地祇とえにしを結んだ者が天命を承けることはありません」

 坂を、登り切ったらしい。

 足元に傾斜を感じなくなった。

 汎砂は変わらず、私の手を牽いてどこかを目指している。

「私は遙か昔に地祇と縁を結びました。いまだ天命の者が現れなかったころです。首でも落とされぬ限りは死なぬ身体、永遠に歳を取らぬ肉体。人よりは地祇に寄った我らの肉体を保つためには、供物としての人の血がいる。かつては地祇を祀るうえで意味のあったこの肉体は、天のしろしめすこの大地において鬼魅きみとなり果てました」

 汎砂の話は、たぶん私のこれからにかかわりのあることのはずだったが、私にはそれよりも気になることがあった。

 ――父と母がどうなったのか。

 問いたかったが舌がこわばって言葉が出ない。

「あなたは私を介して地祇と縁を結びました。人としては一度、死んだのです。しばらくはいろいろと不自由でしょうが、ひとつきもすれば身体は動くようになります。人の身体とは違い休息は必要ありませんし、風邪を引いたりおなかを壊したりと言った不調さえなくなるので、慣れれば悪くはないものですよ」

 目の前で、不意に扉が開いた。扉の外はほの明るい。

 私の手を牽いて、前を歩いているはずの汎砂の姿は見えない。

 私の手を握ってくれていたはず者は、いなかった。

 ――ここは、どこ?

 私は、現世に目を覚ました。


 父母は帝より毒をたまわった。

 大逆の罪に問われ、しかしながら皇族であることにかんがみて、大逆の罪を犯した者の処刑法、車裂くるまざきまぬかれての死だった。

 だが、父の肉体は帝の意向によって死後、なますにするが如くさいなまれ、打ち捨てられた。

 私は皇籍こそ剥奪されなかったが、皇位継承権を失った。

 それはいい。どうでも良いことだ。

 自分のことは問題ではなかったが、両親のことを思えば怒りが湧いた。

 なぜそこまで憎まれていたのか。

 無論、父は大逆の罪など犯していない。

 毎年、下手な詩を年賀の儀式で披露するだけの……権勢欲とは無縁の父だったのに。

 ――なにゆえ。

 皇城に居場所のない私は、書額堂しょがくどうの近くの宿直部屋とのいべやを空けてもらい、寝具を入れて療養した。寝台は宿直部屋にあるものを使ったが、寝具ばかりは皇族が使うのに遜色そんしょくないよいものが与えられた。

 ――この城に私の父にこころを寄せている者がいる。

 皇位継承権を持っていたとはいえ、私は空気のような存在だったから、身分にあったものを揃えてくれる気配りは、父への処遇を哀れみ、せめてもとその息子に心を配ってくれる誰かが居ると言うことだ。

 たとえそれが無実の罪であろうと、ほかならぬ帝がそう信じているのである。

 我らに情けをかけることは、暗に帝を批判していることも同じ。

 けれども我らは麦州ばくしゅうからここへ来る道中、決して罪人の扱いをうけなかったし、最後の夜も皇族として賓殿ひんでんに滞在した。

 父は書簡を書き、それは相手に届けられたし、何人かは返書をくれもした。

 父の書簡を届けたこと、父に返事をしたことが帝に漏れ聞こえれば、最悪、大逆の罪に連座させられることもありうる。父はそれらの返書を丁寧に焼いたけれども、その書を如何様いかように利用しても構わない……父に命を預けた者がいたということだ。

 ――たとえ帝に刃向かうこととなっても、父にこころを寄せ、ちからになろうとする者が、いる。

 そう、それこそが父が帝に憎まれた理由だ。

 そして、父が、愛する妻すら伴って、黙って毒杯を仰いだ理由――

 父はその身をもって、自身にこころを寄せてくれる者たちに、玉座にふくせとさとしたのだ。

 私は生まれて初めて『皇族』がいかなる存在であるかを、理解した。


 目を覚まして、数日は本当に身体が動かなかった。

 意識はあり、頭もすっきりとしていたが、薄い霧のかかったような目で物を見、終始ガヤガヤと耳鳴りのする耳で音を聞くことしかできない。舌はなめらかには動かず、ときおり汎砂が飲ませてくれる甘い飲み物を嚥下えんかするので精一杯だった。

 父と別れたあの夜明けから、三日、眠り続けていたらしい。

 身体につらいところはどこもない。ただ、動かない。

 半身を起こすに十日、立ち上がるのにひとつき。

 身体を動かすために、宿直部屋と書額堂を往復する日々。

 ようやく自分の身体を取り戻した実感を得たころ、帝の近侍が書額堂に一通の書簡を持ってきた。

 汎砂が受け取り、封を施された紐を切って竹書を開く。

 書額堂の書史たちはみな、自分の仕事に専念していたが、そのじつ、書簡は気になるようで、ちらちらと視線を感じる。

 私は汎砂の隣に立ち、汎砂の手元にあるその書簡を読んだ。

明華めいか三十年一月、鳳犀湖ほうさいこ、大逆の罪によりちゅうせらる』

 書には指示も注釈もなにもなく、ただ、そうしたためてあった。

 ――歴史を記す竹簡に、そう書けと、帝が仰っている。

 私の顔色が変わったのを見留めたのだろう、汎砂が微かに笑む。

「昔、北方の国の王、苑墨えんぼくが、家臣である観卯かんうしいされました。癸の史官は『観卯、しょう、苑墨を弑す』と記しました。すでに王位を簒奪さんだつしていた観卯は史官に『観卯、天命に依りて苑墨を誅す』と書き改めるように命じました。史官はそれを拒絶し、観卯によって斬首されました。次の史官もまた『観卯、上、苑墨を弑す』と記しました。観卯は彼もまた、斬首しました。次の史官はまだずいぶん若い史官で、死に装束に身を包み、『観卯、上、苑墨を弑す』と記した竹簡を観卯に捧げました。観卯は史官の若さを哀れみ、彼に問いました。『おまえたちは我に仕える身でありながら、なにゆえ、我が意を拒むのか。ことにおまえはまだ若い。身を惜しむ気持ちはないのか』と。若い史官は叩頭し『史官は王の行いを天に報告するために筆を執っております。私は一身を惜しみません。ただ祖父と、父の死に恥じぬよう、天に伝えるのみです』そう答えました。観卯は彼を処刑せず、書き直しも命じなかった、ということです」

 汎砂はそう言うと、口をつぐみ、目を閉じた。

 ――帝の命にしたがわぬというなら、覚悟を決めろということだ。

「しばらく、ここを出ることは許されますか?」

「いましばらくは大丈夫です。もし帝にあなたの所在を尋ねられたら、身体の具合が思わしくなく、城下で療養させていますと申し上げておきましょう」


 そして、私はその夜、旅に出た。

 麦州海南県ばくしゅうかいなんけんの我が家へ。

 深夜、灯火ともしびもすくなく寝静まった城下町の裏通りの坂道を下りながら、私は以前よりもずっと闇を見通すことができるようになった目を細め、一足先に黄泉路よみじを下っていった父と母のうしろ姿を探していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る