第12話 坂道
その手はひやりとして冷たく、肌はなめらかだったが、骨張っている。
ちからの入っていない私の手を柔らかく掴んでいる。
あたりは真っ暗な闇の中だった。
足元に登りの傾斜があって、すこし歩きづらい。
懸命に足を動かしているけれど、身体が重く、のろのろとしか動かない。
汎砂はそんな私の歩みを待ってくれているように、ゆるゆると手を牽いてくれていた。
目を見開いていても閉じていても変わらない闇。
そうであれば、いま、私はどうして私の手を引く相手が、汎砂だと思うのだろう?
そんな疑問が湧いたとき、闇のなかから
「かつて大地は、
声はどこか遠くから聞こえてくるようにも、牽いてくれている手の指先から伝わってくるようにも、耳元で囁かれているようにも聞こえる。
「
坂を、登り切ったらしい。
足元に傾斜を感じなくなった。
汎砂は変わらず、私の手を牽いてどこかを目指している。
「私は遙か昔に地祇と縁を結びました。いまだ天命の者が現れなかったころです。首でも落とされぬ限りは死なぬ身体、永遠に歳を取らぬ肉体。人よりは地祇に寄った我らの肉体を保つためには、供物としての人の血がいる。かつては地祇を祀るうえで意味のあったこの肉体は、天のしろしめすこの大地において
汎砂の話は、たぶん私のこれからにかかわりのあることのはずだったが、私にはそれよりも気になることがあった。
――父と母がどうなったのか。
問いたかったが舌が
「あなたは私を介して地祇と縁を結びました。人としては一度、死んだのです。しばらくはいろいろと不自由でしょうが、ひとつきもすれば身体は動くようになります。人の身体とは違い休息は必要ありませんし、風邪を引いたりおなかを壊したりと言った不調さえなくなるので、慣れれば悪くはないものですよ」
目の前で、不意に扉が開いた。扉の外はほの明るい。
私の手を牽いて、前を歩いているはずの汎砂の姿は見えない。
私の手を握ってくれていたはず者は、いなかった。
――ここは、どこ?
私は、現世に目を覚ました。
父母は帝より毒を
大逆の罪に問われ、しかしながら皇族であることに
だが、父の肉体は帝の意向によって死後、
私は皇籍こそ剥奪されなかったが、皇位継承権を失った。
それはいい。どうでも良いことだ。
自分のことは問題ではなかったが、両親のことを思えば怒りが湧いた。
なぜそこまで憎まれていたのか。
無論、父は大逆の罪など犯していない。
毎年、下手な詩を年賀の儀式で披露するだけの……権勢欲とは無縁の父だったのに。
――なにゆえ。
皇城に居場所のない私は、
――この城に私の父にこころを寄せている者がいる。
皇位継承権を持っていたとはいえ、私は空気のような存在だったから、身分にあったものを揃えてくれる気配りは、父への処遇を哀れみ、せめてもとその息子に心を配ってくれる誰かが居ると言うことだ。
たとえそれが無実の罪であろうと、ほかならぬ帝がそう信じているのである。
我らに情けをかけることは、暗に帝を批判していることも同じ。
けれども我らは
父は書簡を書き、それは相手に届けられたし、何人かは返書をくれもした。
父の書簡を届けたこと、父に返事をしたことが帝に漏れ聞こえれば、最悪、大逆の罪に連座させられることもありうる。父はそれらの返書を丁寧に焼いたけれども、その書を
――たとえ帝に刃向かうこととなっても、父にこころを寄せ、ちからになろうとする者が、いる。
そう、それこそが父が帝に憎まれた理由だ。
そして、父が、愛する妻すら伴って、黙って毒杯を仰いだ理由――
父はその身をもって、自身にこころを寄せてくれる者たちに、玉座に
私は生まれて初めて『皇族』がいかなる存在であるかを、理解した。
目を覚まして、数日は本当に身体が動かなかった。
意識はあり、頭もすっきりとしていたが、薄い霧のかかったような目で物を見、終始ガヤガヤと耳鳴りのする耳で音を聞くことしかできない。舌はなめらかには動かず、ときおり汎砂が飲ませてくれる甘い飲み物を
父と別れたあの夜明けから、三日、眠り続けていたらしい。
身体につらいところはどこもない。ただ、動かない。
半身を起こすに十日、立ち上がるのにひとつき。
身体を動かすために、宿直部屋と書額堂を往復する日々。
ようやく自分の身体を取り戻した実感を得たころ、帝の近侍が書額堂に一通の書簡を持ってきた。
汎砂が受け取り、封を施された紐を切って竹書を開く。
書額堂の書史たちはみな、自分の仕事に専念していたが、そのじつ、書簡は気になるようで、ちらちらと視線を感じる。
私は汎砂の隣に立ち、汎砂の手元にあるその書簡を読んだ。
『
書には指示も注釈もなにもなく、ただ、そうしたためてあった。
――歴史を記す竹簡に、そう書けと、帝が仰っている。
私の顔色が変わったのを見留めたのだろう、汎砂が微かに笑む。
「昔、北方の
汎砂はそう言うと、口を
――帝の命に
「しばらく、ここを出ることは許されますか?」
「いましばらくは大丈夫です。もし帝にあなたの所在を尋ねられたら、身体の具合が思わしくなく、城下で療養させていますと申し上げておきましょう」
そして、私はその夜、旅に出た。
深夜、
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