第11話 からりと
食べ残した夕食のかぼちゃを従僕に片付けさせて、帝の使者に面会した父は、なにごとか
令尹は父から厚い書き付けを受け取ると、それを押し戴いてはらはらと涙を零した。
――まるで、
帝の使者に急き立てられるように馬車に乗ったあと、父はずっと厳しい顔をしていて、母もまた涙こそ見せなかったが、父の手を握り、押し黙っていた。
旅のあいだ、使者は終始、
都へは馬車で十日走り、最後は船で二日の旅だ。
いつもは両親がなにくれとなく明るい話をし、過ぎゆく街を見学し、ときにはひろびろとした大河や峻厳な峡谷、地元の人々から霊験あらたかだと言われている霊山、見晴るかすかぎりの麦畑などを
今回は一日違わず十二日。
この旅のあいだ、いろんなことを両親と話した気がするが、よく思い出せない。
「
それを問うてはいけないのは、父のようすで察しがついた。
目に映る風景、宿の食事、以前の旅ではここからこう回ってどこそこの寺に参ったとか、山を見たとか……他愛もないことを話し、父も母も、何気ないふうに応えていたが、どうにも会話が続かなかった、そんな記憶がある。
この旅のうちに、年が改まった。
船着き場から馬車に乗り換え、都の大門が閉まる日暮れ間際に皇都に入る。
帝の病状のことがあるのか、皇都に新年を祝う華やいだ気配はなく、人通りは多かったが、街全体はひっそりとしている。
馬車のまま大通りをまっすぐ走らせ、日の暮れ落ちた頃に城に落ち着いた。いつも年賀の儀式で滞在する部屋と変わらない、皇族のための
明日には皇帝より直々のお召しがあるという。
部屋に着くなり父は休むことなく書をしたため、たくさんの人々に何事かを願い、父の書を受け取った者の幾人かが深夜、返事をよこしてきた。
父はそれを受け取ると、丁寧に読み、火鉢に
何人か兵士がついていたが、護衛と言うよりは監視のようで、ことここに至って馬鹿な私も確信した。
なにごとかに巻き込まれたのだ、と。
青峰殿、
十五のときに訪れたその部屋は、深夜ゆえに働いている者の姿はなく、ただ椅子と机、そして書棚がつらなり竹簡が積み上げられるばかりの広々と物寂しい部屋だった。
月明かりの窓に、庭の樹影が垣間見える。
ほとんどは竹、なかにひとつ、
「お待たせいたしました」
扉が開いた音もしなかったのに、どこから部屋に入ってきたのか書額堂の奥の部屋へ続く扉のまえに
四年前、初めて会ったときとその印象は変わらない。
黒地の官服を身に
透き通るように
四年分歳を取ったように見えないのは、あり得ることではあったが、ここまで印象が変わらないのはやはり不思議だった。
「こちらこそ急かして申し訳がない。なにぶんにも、どうやらわたしには時がないようだったので」
汎砂は首を横に振った。
気にすることはない、という意味にも、まだ慌てる必要はない、という意味にも取れる。
「冬の夜は長ごうございますが、焦っておいでのようですから挨拶は省略いたしましょう。書簡にてお問い合わせの件に回答いたしますれば、たしかに
「知っています。ですがもうこれしか方法がないのです」
沈黙が降りた。
父も母も、そして汎砂もが沈痛な面持ちをして次の言葉を探しているようで、ただ私だけがなにが起こるのかわけも分からずに呆然と三人を見つめていた。
「それでは、貴方は」
沈黙を破ったのは汎砂だった。
父が静かに首を振る。
「わたしはもう無理です。弟はわたしが大逆の罪を犯したと信じている。あるいは弟がみずから
母が汎砂に頭を下げた。
「父上、なにを仰っているのです? 母上もどうしたというのですか!」
ふたりとも私の問いかけには答えなかった。
もちろん、答えようもない。
形ばかり分かっているつもりになって、十九にもなって私はなにひとつ理解していなかったのだ。
父と帝の間に横たわる剣先の鋭さも、父と私の立場の危うさも、皇族とはなにかということも、なにもかも。
そんな愚か者に、なにを語ればよいと言うのだろう。
「分かりました。ご
汎砂が父に
「さらばだ、
母の手が愛おしげに私の手の甲を何度も撫でる。
分からなかった。
悔しかった。
もとより分かっていたとて私にはどうしようもなかった。
だから父は私になにも言わなかった。
言えば私がおかしなことをしでかすかもしれない、そんな懸念も父は持っていただろう。
父は、正しい。
私は十九にもなって分別のない子供に過ぎなかった。
私はただただ、父に守られるばかりだった自分に腹を立てていた。
「良い、息子では、ありませんでした。けれども、ここで捨て置かれるのは、あまりでございます。父上……どうか、私も一緒に」
我が身の情けなさに、涙も出なかった。
張り裂けるほどに胸が苦しく、声を詰まらせる。
「なにを言うか、稀梢。おまえはわたしには過ぎた息子であったよ」
母の手に、父の手が重ねられて、私はふたりの温もりをこの手に記憶した。
静かに立ち去る二人の背を、なおも未練がましく追おうとして、汎砂に留められる。
東の空が薄青い。
「どうやら時がないようです。夜が明ければ貴方にも帝のお召しがあるでしょうが、召されてからでは遅い。ご両親の願いを無駄には出来ません。詳しいことは次にお目覚めになったあとでご説明いたします。――失礼」
私は背後から抱きすくめられた。
喉元に汎砂の左手が伸び、襟を乱される。
背筋が泡立つほど冷たい手だった。
うなじに一撃、氷を背に突き入れられるような痛みを感じて悶えたけれど、汎砂はその静かな佇まいからは考えられないほどちからが強く、彼の腕からは逃れられなかった。
なにかが失われてゆく。
なにかが?
私の身体から、命が抜けてゆく。
目を開けているはずなのに、物がよく見えない。
なにをしたのだと、汎砂に問いたいのに、口が開かない。
汎砂、あなたはいったいなにものなのだ。
――身体に、ちからが入らない。
いかほど、時が経ったろうか。
そんなに長いはずはなかったが、ずいぶん長い間、私は汎砂の腕の中にいた心地がしていた。
東の空に一閃、朝日が差すのが見えたような気がしたが、私が目を開けていられたのもそこまでだった。
ぐったりとした私の身体を支えながら、汎砂は私を椅子に腰掛けさせてくれたようだった。けれども、自分の意思で座り続けることすらできない。
椅子から滑り落ちるように
からりと、耳元でこの王朝の歴史を綴る竹簡の山が崩れる音がした。
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