第8話 金木犀

泰邑たいゆうの者は、季岳の地祇ちぎまつっていました。季岳の地祇は泰基たいきという男神で、毎年、水牛一頭分の血を捧げることで、塩と穀物の恵みをもたらしてくれるのです。泰基には芳夙ほうしゅくという名の奥方がいて、これは季岳にたくさん自生している金木犀の精霊です。彼女はそのほかの恵みを司っていて、野草や果物、木の実、野兎や猪、鹿はすべて泰基と芳夙との間の子でした。恵みおおく羞じらい深い彼女が求めるのは話相手で、泰邑の者はだれしも成人の儀式のときに卜占ぼくせんで『随身ずいじんの日』を決め、その日にこの酒を飲んで眠るのです。眠りのなかで、泰邑の者は芳夙にまみえ、彼女に仕え、身の回りの世話をし、その一晩、彼女に泰基のお召しがあるまで、語り合うとされていました」

 汎砂はんささかずきに手酌で酒を注ぎ、一息に干して、ほう、と息を吐いた。

 もう三杯目のせいか、口がなめらかだ。

 そういえば、先日、げいの街を観に行って季岳に登ったとき、どこからともなく甘く強い香りが漂っていた。

 あれが金木犀か。

 汎砂の吐息とともに、あのとき、山に充ちていたのと似た、甘い香りが広がる。

「山葡萄、すもも、梨からかもした酒に金木犀の花を漬け、五年、寝かせたものです。季岳の加護を得た者は、長寿を得る代わりにおよそ人の口にする食べ物は喉を通らなくなり、人の血を飲まなければならなくなりますが、芳夙の計らいか、この酒だけは飲めるし味わいも楽しめる」

 残念ながら、私はその酒も喉を通らない。

 私は汎砂によって彼と同じ鬼魅きみとなったが、泰邑を故郷としていないから、『芳夙の計らい』がないのだと思う。たぶん。

「それでは、今年もひとつき、あとを頼みます」

 汎砂は静かに立ち上がり、書額堂の奥の書庫に向かう。

 毎年……そう、金木犀の花の季節になると彼は竹簡の積まれた棚の隅に身を横たえ、ひとつきのあいだ眠りに就く。

 私の知りうる限り、二百年余、このまえの革命の折に五年ほど飛ばしたのを除けば、欠かしたことがない。

 ――体質の問題で、長い眠りが必要なのかとも思っていたのだが、そうか、故郷の地祇とその奥方に仕えるためだったのか。

 しかし……どうなのだろう?

 本来、随身の日とは一晩のことのはず。

 加えて、ひとつきの眠りの途中で起こさざるを得なくなったときの、汎砂の寝起きの悪さときたら……まるで二日酔いに苦しむ酔人すいじんのようなのだが。

 本当は、その酒は飲まないほうが身体に良いのではないか、という疑惑は、口にはしない。

 ――まあ、身体にどれだけ悪くても、死ぬわけでなし。

「汎砂は、芳夙さまに逢っているのですね」

 私は扉に手をかけた汎砂の背に声をかけた。

「分かりません。彼女はとても奥ゆかしくて、夢も見ないのです。あるいは、夢のなかでお目にかかっても、目覚めると忘れてしまっている」

 そう言い残し、汎砂は扉の向こうに消えた。

 次に会うのはひとつきのあと。

 どこからともなく甘い花の香りが漂ってきた。 


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