第7話 引き潮

――皇湯こうとうてき湣礫びんれきち、泰邑たいゆうあわせてげいみやこさだむ。くだりて皇華勢こうかせいの世、高河こうが乱るること数歳すうさいにして民皆餓たみ みな うう。華勢、高賢汎砂こうけん はんさを用いて治水行わしむ。大邑亀たいゆう きは高河の口、北東にありて栄え、これをもちて皇華勢、文帝とおくりなさる。


 汎砂の名が竹簡に記されていたのは、この一文だけだった。

 皇湯が天命を承けて興したは、あるとき、夷狄いてきの王、湣礫を討伐してその王の国、泰邑を併合し、高河の河口近く、北東の位置に都としてげいを置いた。

 ちなみにが興ったのは、いまより三千年前のことだ。

 時代は下っての皇華勢の御代に、高河が毎年秋に氾濫したので、民はみんな餓えてしまった。華勢は博識で名を馳せていた汎砂を用いて治水を行わせた。はおおいに栄え、大邑と呼ばれるようになって、皇華勢は文帝と諡号しごうされた。


 華勢はが興った時代からだいたい二百年後の帝なので、いまから二千八百年前のことになる。

 すなわち、汎砂は最低でも二千八百歳ということだった。

「化け物だな」

 自分もいまでは二百三十歳、立派な化け物仲間なのだが、格が違う気がする。

 鳳王朝が五年前に倒れたあと、新しく興った王朝のもとでの書額堂しょがくどう存続のための駆け引きに明け暮れた日々にもようやく一区切りがついたのを期に、私は皇都近隣を旅して回ることにした。

 そしていま、私はげいが見える、高河の南岸に来ている。

 古い都、げいはいまの都である済祝さいしゅくから馬で五昼夜駆けた場所にある。

 高河の北の河口には広々とした砂浜が拡がり、遠目にも広大な塩田が日の光に白く輝いている。

 海が近く、本来ならば塩害が心配な土地柄だが、高河は毎年、早春に上流の雪解け水が流れ込んでくるたびに氾濫していて、洪水の運んでくる肥沃な泥のおかげで、塩害にもならず、秋の氾濫がない年なら、収穫は豊かだった。

 げいはいまでも重要な街だ。

 ただし、街の規模は大きくはない。

 皇帝直轄領として、塩田で生産された塩、肥沃な田畑が生み出す穀物をあきなう権能を取り上げられ、ただ生産する街となっているからだ。

 それでも高河の南岸にある、塩田を見晴るかせるなだらかな丘陵から対岸を見ると、げいの街をぐるりと囲む城壁の上に炊事の煙が幾筋ものぼっていた。

 街の活気が見て取れる。また塩田では塩焼きの煙が立ちのぼっている。

 げいの街全体は、こんもりと盛り上がった丘になっていて、春先に起こる洪水にも、水浸しにならない。

 水の流れを考えれば、大河の河口付近であのように盛り上がった地形になるとは考えられなかったから、げいの街は巨大な盛り土の上に建設された街だと分かる。

 また、げいの街の丘がそこにあることによって、海側にある塩田に洪水が押し寄せることを、あるていど防いでもいた。げいは、意図的にそこに作られた街なのだ。


 街には入らず、汎砂に「是非観ておくように」と言われていたので、馬首を南に巡らせて半日走らせた。

 このあたりではもっとも急峻な山、李岳きがくに、さらに半日かけて登り、どこからともなく強く香る花の香りに包まれて北を眺めて、得心する。

 ああ、汎砂の見せたかったのは、これだったのか、と。


げいがあの一帯を統一する前から盛り土の上に作られた街で、昔から塩田の塩と豊かな農作物で栄えていました。皇湯こうとうがあの場所を統治していた邑主ゆうしゅを攻め滅ぼして、自分たちの都にしたんですよ」

 書額堂に戻り、今回の旅で見たことを報告していると、汎砂はそう言った。

「皇華勢の御代みよに私が成した治水は、高河の南側に排水用の水路を作って、秋に洪水が起きそうになるとすぐさま水門を開けて南側に水を出してしまうというものでした。当時は街のふもと……高河の北側に田畑が集中していたので、それで充分だったのです。当時の船では、高河を渡るのは容易ではありませんでした。あの大河に橋を架けるのはいまでも無理です。皇湯が攻め滅ぼした人々も、年に一度、秋、時季外れの長雨さえなければ一番高河の水量のすくない季節に、季岳で祖霊をまつるためにしか渡りませんでした。いまでは南側にもたくさん人が住み、田畑を作っていますから、放水できなくなって水路はもう役に立たない。使われなくなったあと、灌漑用に転用した一部を除いて、すぐに水門も水路も跡形もなくなったと聞いています。いまの高河の洪水対策は、もっと河の上流に留水地を作って、大雨が降ったときにはそこに水を流し込み、その水をその土地の灌漑に使うという方法ですね。国がおおきくなったからこそ出来る方法です。の時代、国は高河の上流を版図に収めてませんでしたから、その方法は使えなかった」

 汎砂の語る風景と、自分の見てきた風景を重ね合わせる。

 あの土地の、三千年の歳月とゆうの興隆が目に浮かぶようだ。

「ひとつ気になったんですが、どうして汎砂はげいの街の盛り土が皇湯こうとう以前からあったと知っているんです? 竹書にはそこまで書いていないのに」

 私のその疑問を聞くと、汎砂は、ふわりと悪戯っぽい笑みを唇に浮かべた。

「皇湯以前にあのあたりを治めていたのは汎氏でした。『汎』は我々の使っていた言葉の音にいちばん似ているの文字を当てはめただけで、我々の使っていた文字ではないのですが。竹書に書かれたあの街の最後の主の名は、湣礫びんれきと記されていますが、これは『つぶてのように価値なくみだれた王』という、皇王朝が付けた蔑称のようなものです。礫というのは、湣礫の本当の名……これもまた似た音を持つ文字を当てはめただけですが……から連想したものでしょう。実際の最後の邑主ゆうしゅの名は、汎砂と言ったんですよ」

 私は目を丸くする。

「皇湯が天より命を承けるまでは、各地の邑主はその土地や山岳、河川の神の加護を承けてなるものでした。私が邑主だったころは、あの街は泰邑たいゆうと呼ばれていましたが、邑主は季岳を祀り、その加護を承けて、季岳から見渡せる土地を治めていたのです。季岳の加護によって邑主はたいてい長命でした。その代わり、その祀りには動物や人間の血が必要で……その風習を嫌悪した皇湯は、私をてきびん……未開のみだれた王として誅伐ちゅうばつしたのです。とはいえそれは名目で、肥沃な農地と塩田の魅力に抗えなかったのでしょうが」

 私も汎砂のもとですこしは勉強したから分かる。それは王道ではなく、覇道だ。

 天命を承けた太祖のやることではないと思う。

 しかし、きっと汎砂の言うことは間違ってはいないのだろう。

 ふと『天命とはなんなのだろう』そんなことが胸のうちに湧き……消える。

 天命を承けたがゆえに帝となるのか、帝となった者が天命を承けたと言われるのか。天命を承けることの適わなくなったこの身には、分からないことだ。

「では、汎砂にとって華勢は国を滅ぼした湯の子孫……なぜ、治水に力を貸したのです?」

 私の問いに、汎砂はふう、と息をついた。

 幽かに……そう、よくよく注意していなければそれと分からないほど幽かに、不快の感情がまなじりに宿る。

 特段に優しいわけではないが、いつも穏やかで、腹を立てることも滅多にない汎砂には珍しい表情だった。

 汎砂は顔を上げて書額堂の書記室、たくさんの机が並べられ、いまも多くの書史が立ち働くその場所を目に収める。

「皇華勢の御代、げいの街には泰邑の生き残りの人々が千名ほど暮らしていました。奴隷として使役され、どんどん数を減らしながら塗炭とたんの苦しみに喘いでいた。来年の豊凶を占うために腹を割かれ、ひでりや長雨を起こす天を安んじるために供犠として首をられ、高河が氾濫するたびに、十人、二十人と人柱のために生き埋めにされてもいた。我々の季岳の祀りのための供犠など、季岳に捧げるための年に一頭の水牛と、私の食事のための年に一人か二人の奴隷、これだけで済んでいたのに。まったく、どちらが未開の王なのか、いま思い出しても腹立たしいのですが……。もはや族の盛衰は決している。我らは引き潮の時にあり、地祇のちからをもってしてもを攻め滅ぼすことはできないと分かっていました。私は泰邑の生き残りを救うため、ひたすら時季を待っていました。の者たちが『泰邑の湣礫』のことを忘れ、支配者たちのあいだに争いの火種が芽生えて、私がつけいる余地が生まれるまで。ようやくのことで時季を得て、治水の功績をもって、私はもと泰邑の奴隷たちにの文字を教えてやって欲しいと華勢に願いました。文字を覚えた彼らによって、この国の過去、現在、未来を記録したいと。華勢は私の願いを受け入れました。文字は呪力の源で、本来ならば異族になど教えられない。けれどかの国では、文字を使うのはおもに亀卜きぼくを司る卜官ぼくかんで、その宣託は帝の意思でもくつがえし難い。華勢は卜官の権勢が皇統を圧倒するのを、忌々しく思っていたのです。卜官の占いによる宣託の言葉に、史官の歴史を記す竹書の言葉で対抗する。帝の権威を守るために、私がその役を担おうと、華勢に囁いたのです。しばらくして、書額堂の原型となる役所もできました」

 書額堂で働く者のなかで、鬼魅きみの類いは汎砂と私だけだった。ほかの者はもちろん歳を取る。なんの縁故もなくあたらしく官吏として配属される者もいるが、たいていは縁故だった。もちろん長い歳月で混血も進み、泰邑で使われていたという古い言葉と文字を知っている者は、汎砂を除けばもういない。

 だから彼らだってそんなに意識はしていないだろうが、遡れば、彼らは汎砂のゆうの民の末裔……

 軍威ぐんいに対抗できぬ、おのが部族の引き潮のときを悟った汎砂が、それでも、と手を尽くして守った人々。

 げいの街の、あの盛り土に守られた土地のように、ときに洪水のように襲い来る時代のうねりのなかでなお残った場所。

「……書額堂は、あなたの国なんですね。土地は書額堂、この部屋ひとつですけれども、民があり、そして歴史がある……」

 私の素朴な感慨に、汎砂は静かに微笑む。

「それはそうと、季岳から見たげいはどうでした?」

 含みのある表情でそう問う。

「それはもう!」

 私は語った。もちろん、汎砂はその光景を、何百年ものあいだ飽きることなく見てきたはずだから、私が語るまでもない。けれど、まるで見たことのないものを見聞きするかのように耳を傾ける汎砂のその楽しげなさまを、私は彼に会って初めて目の当たりにしたものだ。

 高河の南は黄金の稲穂の海原、かつて汎砂の作った水路のあとが、すこしくぼんで波のような複雑な文様を描いている。

 引き潮でさらに大きくなった砂浜は、塩をまとって白く輝く尾だ。

 そしてげいの街はまさにくじらの頭だった。

 高河にざんぶと身を乗り出し、尾を力強くっていましも上流へ泳ぎだそうとしている一頭のくじら

 そして私は思う。

 その姿を見て、私はまっさきに、あなたのことを思い出したのですよ。

 歴史の大きなうねりをものともせずに未来を視ている、あなたの背を。 


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