第7話 引き潮
――
汎砂の名が竹簡に記されていたのは、この一文だけだった。
皇湯が天命を承けて興した
ちなみに
時代は下って
華勢は
すなわち、汎砂は最低でも二千八百歳ということだった。
「化け物だな」
自分もいまでは二百三十歳、立派な化け物仲間なのだが、格が違う気がする。
鳳王朝が五年前に倒れたあと、新しく興った王朝のもとでの
そしていま、私は
古い都、
高河の北の河口には広々とした砂浜が拡がり、遠目にも広大な塩田が日の光に白く輝いている。
海が近く、本来ならば塩害が心配な土地柄だが、高河は毎年、早春に上流の雪解け水が流れ込んでくるたびに氾濫していて、洪水の運んでくる肥沃な泥のおかげで、塩害にもならず、秋の氾濫がない年なら、収穫は豊かだった。
ただし、街の規模は大きくはない。
皇帝直轄領として、塩田で生産された塩、肥沃な田畑が生み出す穀物を
それでも高河の南岸にある、塩田を見晴るかせるなだらかな丘陵から対岸を見ると、
街の活気が見て取れる。また塩田では塩焼きの煙が立ちのぼっている。
水の流れを考えれば、大河の河口付近であのように盛り上がった地形になるとは考えられなかったから、
また、
街には入らず、汎砂に「是非観ておくように」と言われていたので、馬首を南に巡らせて半日走らせた。
このあたりではもっとも急峻な山、
ああ、汎砂の見せたかったのは、これだったのか、と。
「
書額堂に戻り、今回の旅で見たことを報告していると、汎砂はそう言った。
「皇華勢の
汎砂の語る風景と、自分の見てきた風景を重ね合わせる。
あの土地の、三千年の歳月と
「ひとつ気になったんですが、どうして汎砂は
私のその疑問を聞くと、汎砂は、ふわりと悪戯っぽい笑みを唇に浮かべた。
「皇湯以前にあのあたりを治めていたのは汎氏でした。『汎』は我々の使っていた言葉の音にいちばん似ている
私は目を丸くする。
「皇湯が天より命を承けるまでは、各地の邑主はその土地や山岳、河川の神の加護を承けてなるものでした。私が邑主だったころは、あの街は
私も汎砂のもとですこしは勉強したから分かる。それは王道ではなく、覇道だ。
天命を承けた太祖のやることではないと思う。
しかし、きっと汎砂の言うことは間違ってはいないのだろう。
ふと『天命とはなんなのだろう』そんなことが胸のうちに湧き……消える。
天命を承けたがゆえに帝となるのか、帝となった者が天命を承けたと言われるのか。天命を承けることの適わなくなったこの身には、分からないことだ。
「では、汎砂にとって華勢は国を滅ぼした湯の子孫……なぜ、治水に力を貸したのです?」
私の問いに、汎砂はふう、と息をついた。
幽かに……そう、よくよく注意していなければそれと分からないほど幽かに、不快の感情がまなじりに宿る。
特段に優しいわけではないが、いつも穏やかで、腹を立てることも滅多にない汎砂には珍しい表情だった。
汎砂は顔を上げて書額堂の書記室、たくさんの机が並べられ、いまも多くの書史が立ち働くその場所を目に収める。
「皇華勢の御代、
書額堂で働く者のなかで、
だから彼らだってそんなに意識はしていないだろうが、遡れば、彼らは汎砂の
「……書額堂は、あなたの国なんですね。土地は書額堂、この部屋ひとつですけれども、民があり、そして歴史がある……」
私の素朴な感慨に、汎砂は静かに微笑む。
「それはそうと、季岳から見た
含みのある表情でそう問う。
「それはもう!」
私は語った。もちろん、汎砂はその光景を、何百年ものあいだ飽きることなく見てきたはずだから、私が語るまでもない。けれど、まるで見たことのないものを見聞きするかのように耳を傾ける汎砂のその楽しげなさまを、私は彼に会って初めて目の当たりにしたものだ。
高河の南は黄金の稲穂の海原、かつて汎砂の作った水路の
引き潮でさらに大きくなった砂浜は、塩をまとって白く輝く尾だ。
そして
高河にざんぶと身を乗り出し、尾を力強く
そして私は思う。
その姿を見て、私はまっさきに、あなたのことを思い出したのですよ。
歴史の大きなうねりをものともせずに未来を視ている、あなたの背を。
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