第2話 屋上

 鬼の居ぬ間にと街に降り、月に誘われて梓清楼しせいろうの屋上に昇った。

 私は皇位の継承権を棄てるかわりに手に入れた妖術で翼をはやし、ひと飛びにいらかのうえに腰を下ろす。

 梓清楼は皇都で一番の富者、塩商いの柳加僕りゅうかぼくの屋敷だ。

 汎砂はんさに初めて出会った十五のおりより、すでに十年の歳月が流れたが、私の身に降る時は十九で止まってしまっている。

 いまのところは同じ年頃の者らよりすこし若く見える程度だが、いずれはだれの目にも明らかになるのだろうと思う。

 両親を失った十九の歳を境に、私は人ではなくなった。

 書額堂しょがくどうあるじ、汎砂によって。

 その汎砂はといえば、毎年、秋になるとひとつきほど眠りに就いた。

 いつもは彼の監督なしには街にも降りられないが、このときばかりは自由になる。

 秋の大気を冷たく貫く月明かりを浴びて、私は生き返る心地がした。

 もはや鼓動をたぬ心臓に血が通い、手足の指の先に温もりが甦るかのようだ。

「……汎砂はむやみに厳しいから、思うように血が吸えぬ」

 人であったころとは形の変わった上顎の犬歯を舌でひと舐めし、呟く。

 多少、尖った程度だが、餓えが募ると獣の牙のように伸びてくる。

 この牙で血を吸われると、相手は地祇ちぎえにしを結ばれ、汎砂や私と同じこの身体になってしまう。

 なので、そうならぬように血を吸われた者の首をらねばならなかった。

 地祇の縁者は増やしてはならない、と汎砂は言う。

 殺さぬように血を吸うには相手に同意してもらわねばならぬ。

 まあ、むりだ。

 ひもじくてかなわぬから、どこか傷をつけて私に舐めさせてくれと訴えて「わかりました」と言ってくれる者はいない。

 畢竟ひっきょう、殺さねば血は得られぬ。

 女でも男でもいい、だれかを抱くか抱かれるかして精を喰えば、相手は数日、寝込む程度で殺さずに済むが、血と違ってうすくて、どうにも充たされなかった。

 それに、相手に変に執着されるのも面倒だ。

 ――民はあわれまねばならぬ。それは分かる。

 私とて民に一滴の恤れみも抱かぬわけではないが、さりとて自分と同じ価値のある命とも思えない。ひとりやふたり、殺したとて民はこれほどにもたくさんいるのだ、なにほどにさわりがあろう……

 日の暮れたとはいえ、都の大通りにはあかあかと篝火かがりびが灯され、街はいまだ眠りにつく気配はない。人恋しさに灯りに誘われてみれば、大通りのひといきれ、餓えた我が身はいっそう切ない。

 しかし餓えに負けて人を襲えば、のちのち汎砂の容赦ない打擲ちょうちゃくが待っている。

 大抵のことには傷つかず、死なぬ身ではあったが、汎砂の鞭は覿面てきめんに身にこたえた。

「たいして興味もなかった皇位、棄てたことは惜しくはないが、まさか皇族の身で飲食に事欠く身の上になるとは思ってもみなかった」

 慣れてくればあまり血を吸わずとも身を保つことはできると汎砂は言うが、いまのところその言葉がまことであることを証明するきざしはない。

 道を行き交う人の波、その温もりを思えば空腹が募る。目をそらすように空を見上げれば、月の昇りゆくその下には皇宮の東の一角、青峰殿せいほうでんの東側にある鐘楼しょうろうの影が見える。

 青峰殿の建物群は鐘楼より北寄り、皇宮の北東、鬼門に位置しており、天子に降りかかる厄災を防いでいるという。

「……その実態は、書額堂とその奥の小部屋にある黴臭い竹簡の山があるばかり」

 だが、厄災を防ぐというのは、あながち間違いでもない、そうも思う。

 新しき天子に歴史の講釈をする汎砂を見ていると。

 そして不意に、気がついた。

「私はきっと、民をひとつのかたまりのように見ているのだろうな」

 皇城の高みで城下を眺めやれば、人の顔は見えない。

 いま、城の窓辺から梓清楼のほうを眺める者がいても、その甍の上で物欲しげに寝転がっている私の姿など目に入るまい。

 為政者の目には、民のひとりひとりの顔は見えてこない。

 その喜びも、哀しみも。

 故郷の屋敷にいてもそうだった。

 しもの者たちはみな、自分たち主人の姿を目に留めるや、叩頭するばかりで、私は彼らを黒い頭としか思っていなかった。

 『たくさんいる』のだからひとりやふたり、殺したとてなにが悪いかと思ってしまう。

 しかし我が身を振り返れば、命を失った者が自分の父や母なら、身を切られるように悲しい。逆賊にあやめられたなら地の果てまでも追いかけようし、罪なくてたまわった死なら、なにをおいても無垢のあかしを立てて汚名をすすぐ。

 それは当然だと思う。両親を殺されたあのときを思えば痛いほど。

 だが、いま、この大通りに行き交う彼らが理不尽に命を奪われれば、その死を悲しむ者がいて、殺人者を憎むだろう……だからこそ彼らをあわわれまねばならない、ということがやはり自分の骨身に染みてこない。

 身分という檻を取り払えば、私と彼らは、おなじであるはずなのに。

 みずから心構えして、彼らと視線を合わせねば、自分と同じように彼らが喜び、哀しむ者だとは分からない……

 その心が分からぬものは、形から入るしかない。それゆえの汎砂の鞭だ。

 痛くて敵わないから、こらえる。

 その意味は分からなくても、罰は嫌なので、しない。

「……いましばらく空腹は、我慢するしかない、か」

 愚かな弟子を持った汎砂の気苦労の切れ端が分かった気がする。分かりたくもなかったが。

「妓楼で女と遊ぶのは……」

 ――いや、いまはいけない。空腹が過ぎる。

 精を喰うだけのつもりが、加減を損ねて血を吸ってしまう。

 なんどこれで失敗して妓楼の女を殺してしまったか。

 眠りに就いている汎砂が目覚めるのは、おそらく満月の明日の夜か。

 目を覚ましたなら、なにか腹の足しになるようなものを呉れるだろう。

 梓清楼の甍のうえ、着物の袖を枕に寝転がり、私は十四夜の月光を満身に浴びて、ふかく、ふかく吐息した。

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