書額堂奇譚

宮田秩早

第1話 鍵

 その書庫に入ることが許されるのは、書額堂しょがくどう書史しょしを除けば皇族だけだった。

 父が私にその鍵を渡し「おまえは視ておくべきだろう。……ついて来なさい」と仰ったとき、私は内心、小躍りした。

 書庫に納められた書巻に興味があったわけではない。

 皇帝の兄でありながらも「天はわたしなど相手にしていらっしゃらなかったのだよ」と、高みに登れなかった我が身を嘆くこともなく、おのが境遇を屈託なく笑う父の子であった私は、皇族らしきことなどなにもさせてもらえずにいた。

 ただし、そのころの私は『皇族らしきこと』がいったいいかなることなのか、それすらよく分かっていなかったのだが。

 皇族ともなれば、なにかこう晴れがましい、誇らしい、こころ浮き立つような特別なことが出来るに違いない……その程度に思っていて、そんなことが微塵もさせてもらえない、起きない日々に退屈していたのだ。

 父はみかどを補佐するいかなる役職にも就かず、ただただ無為に、ほどほどに潤沢な荘園の実入りだけを頼りに、都の南の地で、春には燕を、夏には雲を、秋には実りを、冬には月を眺めて下手な詩を作って暮らしていた。

 母もまた、そんな父に愚痴ひとつ零すこともなく幸せそうに日々を過ごしていた。

 うちに仕える大夫たいふたちの昔話によると、若い頃、父は宮廷一の才人で美丈夫、母は中原一の美女と謳われ、その前途を嘱望されていたらしいのだが。

 いまの我が両親について言えば、美男美女であることは子供の私にもなんとなく分かるが、人を羨ましがらせるほどの前途があるようには思えない。

 可もなく不可もなく、安穏な日々が続いてゆくばかりの人生があるだけ。

 父のありさまは百官ひゃっかんあなどりにつながり、我々はとかく、宮廷では空気のような存在だった。

 形ばかり敬われて、あとは放置されていたのだ。

 私は皇帝になりたかったわけではない。

 ただ、『皇族』という特別の存在であることを、実感したかったのだ。

 だから毎年、たったいちど都を訪れる……年賀の儀式に参内し、父が天子である弟に皇族の代表として一年かけて作った下手な詩を読み上げて、天子の威光のあまねく充ちた行く年の安泰と来る年のさらなる繁栄を言祝ことほぐ……その機会に、皇族だけがなかを覗くことを許される書庫を使う、それがなにか特別に素晴らしいことのように思えたのだ。

 愚かだと思うかね?

 無論、愚かだ。

 しかし多少の愚は許されたい。

 私とても結局のところ血が尊いばかりで天に相手をされぬ非才ののひとりに過ぎず、しかも父にそう言われたときの私は、十五に過ぎなかったのだから。

 十五歳、自分が『特別の存在』だと思いたい盛りだ。

 まあ、それも言い訳だ。

 十五と言えばすでに加冠の儀は済んでいて、早熟な者はしかるべき位に就き立派に務めを果たしている。

 ひるがえって私はといえば、加冠の儀こそ十二のおりに済ませていたが、父がすすめぬのをいいことに、父の治める麦州ばくしゅうの州知事補の役職にかたちだけ就いているほかはなんの役職にも就かず、皇族ならば十六になれば無試験で入学できる大学での勉学も志さず、自分が皇族らしく敬われぬことに腐るばかりだったのだ。

 特技と言えば、有り余る時間を使って熟達した木彫りののうだけ。無論、それとても皇宮の梁に、天井に、調度のひとつひとつに施された匠の細工に比すれば、子供の遊びにすぎない。


 父に連れられて入った広間では、多くの書史が働いていた。皇宮の北東にある青峰殿せいほうでんの一角、広々としているはずの書額堂にはたくさんの机と椅子、そして竹簡ちくかんの仮置きの棚が並べられ、多くの者が働く宮城きゅうじょうのなかでも、ひときわみっしりと詰まった空間だった。

 風こそいまだ冷たいものの、春を待つ暖かな陽射しが窓に掲げられた日よけの隙間からこぼれ落ちる。

 カサカサと風に騒ぐのは秋に落ち損ねて枝に残る小楢こならの葉だと思われた。

 書額堂では皇室の政治と律令、諸国と結ぶ盟約を記録し、古びた竹簡の文字を新しい竹簡に書き写す仕事が行われている。

 また、ここの者に頼めば、この王朝のすべての歴史が参照できると言う。

 二百二十八年前、太祖鳳岳英たいそ ほうがくえいよわい二十二にして天命を承け、世に蔓延はびこる非道をただして人心をひとつにし、ついにはさきの王朝の最後の皇帝 鴛海えんかいの軍十万余を関山かんざんの麓の廉野れんやにて打ち破ってみずから王朝を開いた、その日からの記録が納められているのだ。

「私が書額堂の長、汎砂はんさと申します」

 優雅な所作で頭を下げたのは、美しい男だった。

 年齢はよく分からないが、三十前後だろうか。

 ちいさい部署とは言え、官吏の長を任せられるにはかなり若い年齢に思われた。

 黒地の官服……袍衣ほういを身に纏い、端然と私の目の前に立っていた。

 優しげな感じはしない。

 歳古としふりた深山の樹木のような佇まいの、肌の色が透き通るようにしろい男だった。髪の色は白髪に近い灰色で、髪の色よりは濃かったが、目の色もうすい。

 彼の役職なら、父や私に対しては跪拝きはいせねばならないはずだが、それをしないことが不思議と気にならない、ある種の威が身に備わっていた。

「よろしくお願いいたします」

 父が私の背を押して黙礼した。

 あなどられがちとは言え、皇兄である。その父が、礼をした。

 柔和な父ではあったが、建前というのがある。父が礼を示すのは天子である弟に対してだけで……

「では、お連れいたします。どうぞこちらへ、鳳稀梢ほうきしょう殿」

 呆然としながらも私は、父を残し、書額堂のあるじ、汎砂とともに、堂の奥まった場所へ、書庫室へ向かった。


 書額堂の書庫、その最も古い小部屋の鍵穴に、私は促されるままに父より預かった鍵を差し込み、そして、ゆっくりと回す。

 ピン、と澄んだ音がする。

 汎砂が鍵穴の上についた青銅製の取っ手を右に引き、上に引き上げ……複雑な手順で動かすたびに、カチリ、カチリと何かが噛み合っていく。

「どうぞ」

 やがて開いたその真っ暗な闇に、汎砂は私をいざなったのだった。


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