坊犬物語

あきのななぐさ

日常

 いつもの事だと言えばそうだけど、今日は特にそう感じた。そう、近づいてくるこの足音は、悪い予感を連れてきた。


 いつもなら、お昼ご飯を食べてから遊びに行くだけ。でも、今日はご主人が『お昼は帰ってから作るから、ちょっと待っててね』と言って送り出していたはずだから、おとなしく家で待っていなければならないはず。


「カール! 『幸せ』、探しに行くで!」


 だが、ご主人の言葉は学校に置き忘れてきたのだろう。『忘れ物が多い』とは聞いていたけど、まさか学校にまで置いてくるとは思わなかった。


「すぐ行くからな!」


 捨て台詞をはいた後、鉄也は家の中に入っていく。


 この子はご主人の旦那によく似た性格で、思い立ったらすぐ行動。興味がわいたら一直線なその性格。それがいいのか悪いのかわからないけど、度々それに付き合わされる俺の身にもなってほしい。


 まあ、それは今に始まった事じゃないけど……。


 今日も学校で何か『興味深い事』があったのだろう。嵐のように去っていったその目には、有無を言わせない意思が込められていた。


「なぁ、カール。お前、『幸せ』ってわかるかぁ?」


 家に入り、すっかりいつもの散歩姿――ただ、手ぶらだったが――になって出てきた鉄也は、得意満面の顔でそう聞いてきた。でも、俺にはそれ幸せが何かはわからない。家の中にいた子犬の時、ご主人は色々なものを教えてくれたから、他の犬よりも物知りだとは自負している。だから、他の犬よりも、ご主人に大切にされている事を知っている。


 それに、ご主人は俺の事が好きなのだ。もちろん、俺もご主人が大好きだ。ただ、『どうすれば伝わるのか』がわからない。


「その顔はわかってへんなぁ? しゃーないなぁ。教えたるわ。『幸せ』ってのはなぁ! 感じるんや! わかるかぁ!? いっつも『そこにある』けど、『気が付かない』らしいわ! 先生が、そうゆうてた」


――なるほど、なるほど、さっぱりわからん。でも、まぁ、今日は散歩が増えていい気分。


「だからな、探すんや! 探すってゆうたら、やっぱり犬やんな! 頼むで! カール!」


――しらんがな、そんなもん。っていうか、全部俺に丸投げなん!?


 ただ、すでに歩き出している以上、その歩みは止められない。いや、本気を出せば止められる。けど、偶然できたこの散歩時間は捨てがたい。それに、俺はご主人に『待て』とは言われていない。だから、俺は俺でこれを存分に楽しんでおこう。


 ここを曲がってすぐそこは、俺のお気に入りの電柱だ。


「あー、そっちやないって! こっちや、こっち! 探すってゆうたやろ⁉ 今日はいつもとちゃうとこやで!」


――おいおい、それって違うんじゃないのか? ちゃんと先生の話聞いてたか? そういえば、鍵をちゃんと閉めたんだろうな?


 まあ、すでにいつもの散歩ではなくなってしまったけど、とりあえずこの未知の道を楽しむことにしよう。行動範囲が広がるのは、ちょっとワクワクするからな。


「ちょっ、カール! さっきから、おしっこばっかりやん! ちゃんと探せや! 得意やろ!?」


――しらんがな。


 そもそも、いつ得意になったのかこっちが聞きたい。そもそも、『幸せ』っていったい何かわからないんだぞ? 色々とご主人には教えてもらっているけど、まだまだ分からない事だらけだな……。


――ただ、それは今はどうでもいい。俺の好奇心を抑えなければ、ご主人との約束が果たせなくなる。


 厳しいがやさしいご主人に頼まれている以上、俺にはこの子の事を守る役目があるのだから。


「ほら、いくで! たぶん、こっちや! って、またぁ!? 一回でしとけよ!」


――そんな事を言われても、こっちは知らない道で、色々としないといけないんだけど⁉ 迷子になったらあかんやろ?


 そうして、色々と忙しい俺を引っ張って、この子は山の方に歩いていく。ただ、心なしか、その足取りは少し遅くなっていた。


――そう、そっちは『あまり行っちゃいけない』って感じがするんだ……。

 

「うーん、マサト君が『山で宝物見つけた時!』ってゆうてたし……。やっぱり、こっちやんな! それより、ほんま、カールはおしっこばっかりやな! 役たたんな! ぜんぜんやわ!」


――しらんがな。どんだけ俺に求めるん?


 そうして、どんどん山の方へと歩いていく。ただ、これ以上このまま進むと、俺がご主人に怒られる。


「どうしたん? カール? いきなり止まって――。おしっこで、疲れたんか? もうちょっとやん! って、それ! その顔! その姿勢! 動かん気やな!」


――いや、そもそも目的地があるのか、それ? ただ、力比べなら、まだ負けない。


「くそ! カールのアホッ! 動けって!」


 こういう時には蹴りがくる。それがわかるから、少し後ろに飛んで、それをかわす。


「くそ! よけんな!」


 ちょっとずつ、ちょっとずつ後退して、俺達は元の道に戻っていく。その事を、まだこの子はわかっていない。


――いまだ!


「あっ!? カール!? おい! 急に走んなや!」


 体勢が崩れた時に走り出すと、この子は転ばないようその事に集中する。そうしてこのまま引っ張っていけば、たぶんあきらめてくれるだろう。


 山の方に行くにつれて、道は薄暗くなっていた。そのことで、この子も少し気分が落ち着いてきていただろうから。


 そうして走り続けると、風がゴールを運んできてくれた。


「おい! カール! ちょっと、待てって――」

「鉄也!」


 仁王立ちしたご主人と目が合い、一気にばつが悪そうに俯く鉄也。でも、何か思うところがあったのだろう。顔を上げて、堂々と宣言する。


「『幸せ』の探検やん! カールと一緒に! でも、見つからへんかったわ……」


 ご主人の顔は最初に比べるとややほぐれているものの、いまだその表情は硬い。だが、俺は知っている。この子が自分で考えて自分で行動したことを、おそらくご主人は完全には否定しない。


「だったら、どこに行くとか書いとき。三年生になった時の約束わすれたん? それに、今日はお昼ごはん帰ってから作るってゆうたよね? お母さんのこと、待たれへんの? 第一、知らないところに黙って行かない。カールだって、知らないところに連れていかれたら、不安になるやん」


――ご主人、ご主人。俺は不安にはならないよ。でも、良くも悪くも、この子は一直線なのを、ご主人も知っている事だろ?


「大丈夫! カールはおしっこばっかりやったし! 不安なんか、ならへんで!」


――いや、そうだけど、そうやない!


 かがんだご主人のその顔に、満面の笑顔で応える鉄也。

 ただ、それについては何も言うことなく、ご主人は俺の頭をなでてきた。


「カール、ありがと。ごくろうさん」


――いや、それほどでもない。


「でも、カールも怖かったかもしれへんな? ブサイクな顔して動かへんし、めっちゃ逃げてたし」


――いや、そうではない。


「カールはわかってんねんで。『鉄也が危ない目に合わんように』って考えたんちゃう?」

「えー!? そうなんかなぁ?」


――うん、うん。そうだ、そうだ。ご主人、ご主人。


 やはり、ご主人は俺が何も言わなくてもわかってくれる。伝え方はわからないが、ご主人は俺の事をわかってくれる。


「ほら、こんなにしっぽ振ってるから、お母さんが正しいわ」

「カールはお母さんの前ではええ子やねん――」

「なに? やきもち?」

「ちゃうし!」


 そんな会話をしながら、俺達は家に帰っていく。俺も散歩を楽しんでいる。だが、安心したことで、その事を思い出したのだろう。鉄也はご主人の手を引っ張ると、真剣な顔で尋ねていた。


「お母さん、おなかすいたわ」

「そうやねぇ、お母さんも。でも、鉄也を探し回ったから、お昼作れへんかったわ。だから――。今日は『赤いきつね』です!」

「やったー! 久しぶりや! お母さんのご飯も好きやけど、キツネも好きやで!」

「お父さんは『たぬき』派やけどね。お母さんは、『キツネ』が好きかな?」


――んっ!? ご主人!? 俺は、『犬』なんだが!?


「あー、おなかすいたぁ! カール! 家まで競争な!」


――いや、今はそんな気分ではないのだが……。


「転ばんようにね」


――いや、ご主人。『キツネ』よりも『犬』の方がぁぁぁ――。


 こうして俺は、今度は笑顔の鉄也に引っ張られて走ることになっていた。遠ざかるご主人の笑顔をあとにして。


〈了〉

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