第8話 荻原球太の回想

 白球は歓声溢れるレフトスタンドで大きく弾んだ。

 俺からホームランを打った鳳院学園の四番バッターは、感情の起伏など一ミリもなく、さも本塁打を打つことが当たり前かのようにゆっくりとベースを回っていく。


 バックスクリーンには、「1」の文字が映し出される。

 すました四番バッターの名前は――北条というやつらしい。


 俺は、一気に世界が遠くなっていくのを感じた。


 ***


「と、いうわけだ」

「いや、どういうわけだよ・・・」


 公園。キャッチボール中に突然肩を抑え、苦しみだした荻原は渋い顔をしながらも、事の顛末を語ったつもりになっていた。


 右肩を抑えている理由は一ミリもわかっていない。


「なんだ中波、人の話も理解できなくなってしまったのか」

「うるせえ」


 いつものように冗談を飛ばす荻原だったが、その口調にはやはり痛みを堪える様見て取れた。


「もう野球ができねえって、どういうことだよ」


 荻原の言葉の真意を俺は聞かねばならなかった。野球を捨てた俺が、聞かずにはいられなかった。

 荻原は少し遠くで遊ぶ子供たちを見据えながら言う。


「そのまんまだよ。俺の野球人生は終わっちまった」


 区切るようにしながら、続ける。


「肩、壊したんだよ。分かるだろ?」


 痛みを堪えるように、憐れむように、荻原は自分の右肩を見つめた。荻原の右肩は張るところの張った美しい筋肉だった。どうみても再起不能の肩には見えなかった。


「壊したって・・・」

「肘の靭帯をやったのさ、肩の軟骨ももうカスカスだったみてえだけど」

「肘・・・靭帯・・・?」


 聞きなれていない言葉が荻原の口からこぼれてくる。こいつがそんな言葉をつかえること自体、俺にとっては異様な光景だった。


「ちょっと投げすぎちゃってな、北条に打たれて躍起になって無茶苦茶なフォームで投げてたみたいだ」

「・・・球数は?」

「んー、細かい数字は覚えてねえけど、200は軽く超えてたな」

「は!? 200!?」

「いっても連チャンの試合だったからなあ。トリプルヘッダーだって考えたら一試合70球弱だろ」

「馬鹿げてるし、それにしたってお前・・・」

「あ、一応監督の名誉のために言っとくけど、俺が投げたくて投げたんだ。だから、結果には後悔してねえ。なんなら胸張って野球から離れるつもりだったぜ」


 苦し紛れに笑う荻原を見て、俺は少し安心した。理由はよくわからなかったが。


「じゃあ、なんで泣いてんだよ」

「は? そんなの決まってんだろ」


 ――中波が野球辞めるって聞いたからだよ


 荻原は、なんの躊躇いもなくそう言い切った。大人顔負けの身長の中学三年生が、何を理由に泣いているんだと思ってしまった。


 俺ごときが野球を辞めて、何が悲しいのだ。なぜ、俺でもないお前が悲しむのだ。


「せっかく中波の野球人生を追いかけようと思ったのによ、もう辞めちまったって聞いたときはおったまげたぜ」

「おったまげるなんて言葉そうそう使わねえよ・・・」

「なあ、なんで辞めちまったんだよ、野球」


 俺が聞いていた質問を無垢な顔で聞き返された。


 別に大きな理由はない。


 俺では届かない壁を知ってしまったから、俺は野球を辞めたのだ。


 登れない山だと悟ったから、山から下りたのだ。


 自分には無理だと、諦めただけだった。


「別に、他にやりてえことができただけだ」


 俺の言葉に、荻原の眉がまどどこぞやでみたかのように、ピクリと動いた気がした。


「そうかあ」


 荻原はそう呟いてから、ゆっくりと立ち上がった。


「変な姿見せて悪かったな、中波。話せてよかったわ」

「・・・おう」


 俺は心のどこかに罪悪感を感じながら、荻原から目を逸らした。荻原はそそくさと変える準備を進めていたが、やはり時折肩が痛むようで苦悶の表情と無垢な表情を交互に繰り返していた。


 俺と荻原はそのまま公園で別れた。最後の最後まで荻原は苦しそうな顔をしていたが、別れの間際だけ、


「またな、中波。アデュー」


 なんて、ふざけた顔で言いながら去っていった。


 人気の減った公園で、俺は一人空を見上げた。夕焼けの黒ずんだグラデーションが夕方から夜に変ることを告げていた。少しずつ、世界は暗闇を増していく。


 俺は。


 俺は、野球を辞めたのだ。

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ベースボール・タクティクス そこらへんの社会人 @cider_mituo

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