第7話 バイクとスノボと、ダチの話

 次の日の大学の講義は、二講目からのスタートだった。講義の内容は、必須科目の一つの経済学入門。


 講堂に入り、辺りを見渡す。右列の真ん中ぐらいの席に、伊東達三人の姿が見えたので、軽く手を挙げてそちらの方向へと歩いていく。


「よう」


 伊東と北川、さかきの三人が、四人掛けの机に並んで座っていたので、今日は敢えてその隣の席にバッグを置いた。


「いやいや一吾君。の席は、もう一つ前の列に取ってあるんだから」


 俺の隣でニヤニヤと笑う伊東が、自分の席の一つ前列の席に置いていた自分の鞄に手を伸ばした。その鞄を使って、都合二席分のスペースを確保してくれていたらしい。といっても、今はまだその列の席には誰も座っていなかったが。


 俺は伊東に何と言い返してやろうかと一瞬考えたが、すぐに伊東が確保してくれていたという、一つ前列の席に移動した――ただし、二つキープしていた席のうち、通路側の一番端の席へ。


 それから程なくして、久世が姿を現した。何かいい事でもあったのか、俺達の元へやってきた久世は明るく笑いながら右手を挙げて挨拶をした後、何やらそわそわとした目で俺を見てきた。


「えっと、一吾クン……出来ればもう一つ、奥の席へ動いてもらっても良いかな?」


 俺から一番遠くに座っていた北川が小さく噴き出す音が聞こえ、左斜め後ろに座る伊東がシャーペンで俺の左肩を軽くつつく。北川と伊東の間に座っている榊は、たぶん何とも言えないような顔をしていることだろう。


 俺は自分のすぐ後ろ、伊東の隣の席を指さして言った。


「今日のお前の席は、こっちだ」


「「ええっ?」」


 久世と伊東の声が、見事にハモった。


「久世、たまには伊東の隣にも座ってやれ。こいつ、お前の隣に座れなくて、やきもちを焼いているらしい」


「はあっ?」


 伊東もさすがにこの展開は予想していなかったらしく、唖然とした表情であんぐりと口を開けている。伊東の隣では榊が苦笑いを浮かべ、その向こうの席の北川に至っては、とうとうこらえきれなくなったのか、腹を抱えるようにして大笑いしていた。


 一方の久世はと言うと、何やら困惑した表情で、俺と伊東を交互に見比べていた。


「いや、別に伊東君の隣が嫌だっていうわけじゃないんだけれども……一吾クンの列の席は丸々全部空いているんだし、伊東君達の席の列は、もうほとんど一杯で」


「つべこべ言わずに、さっさと伊東の隣に座れ。お前もいい加減、その人見知りの癖を少しずつでも直すんだ」


 俺がそう言い放つと、久世は何やら傷ついたような目で恨めしげに俺を見つつ、しぶしぶ伊東の隣に座った。伊東はその様子を見て何とも複雑そうな顔をしていたが、そこで二講目の始まりのチャイムが鳴ったので、俺は久々に一人でゆったりと席に座りながら、前を向いて講師が来るのを待った。


 ただ、いざ講義が始まると、俺は久世が隣にいない不便さを身に染みて感じることになった。というのも、俺は講義の最中についうとうとしてしまい、講師の話を途中で聞きそびれてしまうことがちょくちょくあるのだが、そんな時に久世が隣にいれば、すぐに板書を写したノートを見せてもらうことが出来たからだ。


 久世は生真面目で几帳面な性格らしく、そのノートの内容は講師の解説のメモなどと合わせて、見やすい綺麗な字でびっしりと書き込まれていたので、ほぼ一目で講義の内容を把握することが出来た。大学の購買部では、試験対策用として各講座のノートのコピーが売りに出されていたりもするのだが、久世の取ったノートであれば、さぞかし高値で売れるんじゃないだろうか?


 一方、例えばこれが伊東のノートになると、内容はそれなりにきっちりと書かれているのだが、ノートに書かれている文字は何やらミミズがのたくったような感じで、一度「このまま釣り針の先にノートの切れ端をぶら下げたら、魚が釣れるんじゃないか」などと冗談を言ったら、軽くプチ切れされたことがあったほどだ。


 やがて講義が終わり、三講目が始まるまでの間にみんなで昼飯を食うことにした。久世が手洗いで席を外している間、俺は伊東の脇腹を肘で小突いて言った。


「おい、久世の隣の席の感想はどうよ?」


「うーん……何かあいつ、男にしておくのが勿体もったいないよなぁ」


 しみじみと呟いた伊東に、榊が食いついた。


「ちょっと、それってどういう意味?」


「いやあいつ、めっちゃいい匂いがするんよ。隣に座ってたら、何だか変な気分になってくるっていうか」


 そうだろうそうだろう。少しは俺の日頃の苦労が身に染みたか、このヤロー。


「だから、一吾君があいつと禁断の関係になるっていうのも、あながち分からなくも……ぐえっ!」


 伊東の口がまたつまらんことをさえずり始めたので、俺はすかさず右の手刀で伊東の喉に軽い地獄突きを食らわせてやった。伊東、お前ちょっと黙れ。


「でもまあ確かに、久世は見かけ通りっていうか、男にしちゃあ女子力めちゃくちゃ高いよなぁ。あいつが使ってる文具やら小物やらを見ても、かなりお洒落なものばっかりだし」


「へえ、そうなのか?」


 俺が尋ねると、榊は軽く頷いた。


「だってさ、あいつの持ち物って、ぱっと見は地味そうだけれども、実は結構通好みなブランド物がちらほらあるんよ? 俺も一時期、ちょっとは小じゃれた感じになりたいって思って、ファッション雑誌とかを見まくった時期があったんだけれども、あいつの持ち物って完全なメンズ向けじゃなくて、どっちかっていうとユニセックスなブランド物が多いんだよなぁ」


 俺はブランド物のことはさっぱり分からなかったが、存外にお洒落の話に詳しい榊がそう言うのならば、きっとそうなのだろう。


「あと、これは久世の趣味なのかも知れないけれど、彼、たぶん香水を使ってるよ」


 へっ? 男で、香水?


「久世から漂ってくるいい匂いって、たぶんボディソープやシャンプーの匂いだけじゃないと思う。あんまりそんな雰囲気は見せないけれども、彼、お洒落にはかなり気を使っているんじゃないかな」


 そんな話をしているうちに、久世が手洗いから帰ってきた。


「ごめん、お待たせー……って、ちょっと一吾クン!」


 俺がすんすんと鼻を鳴らして久世の周りで匂いを嗅ぐと、久世が露骨に嫌な顔をした。


「いきなり何? 冗談でもそういう真似、止めてくれないかな」


「いやなに、さっきまでみんなで、お前が香水を使っているんじゃないかって話をしていたもんでな」


 まあ確かに、久世から漂ってくるいい匂いは、石鹸やシャンプーの匂いだけでは無いような気がした。そして、それに気が付く榊も、結構女子力は高い方なのかも知れない。


 俺の言葉に、眉をひそめた久世が口を尖らせて言う。


「そりゃまあ、ちょっとは、ね。変に汗臭かったりしたら、やっぱり嫌じゃない?」


「俺はんなこと、一度も気にしたことねーけどなぁ」


 頭を掻きながら呟いた俺の方を見て、久世は呆れたように被りを振った。


「やれやれ……他のみんなもそうだけど、女の子に嫌われたくなかったら、ちょっとぐらいは自分の身だしなみに気を使った方が良いと思うよ?」


 それから五人で学食へと足を運び、それぞれメニューを選んで席に着く。俺のトレーの上には、大盛りのご飯と豚汁、牛焼肉、卵焼き、ほうれん草のおひたし。伊東や北川、榊もまた、それぞれ似たり寄ったりのメニューを選んでいる。


 ちなみに、久世のトレーの上には――何だ、これ? ひき肉だの刻んだピーマンだの玉ねぎだのを炒めたものが目玉焼きと一緒にライスへ添えられた、何とも洒落た料理の皿が一つ、ちんまりと乗っていた。それにしてもこいつ、相変わらず男の割には食が細いな。


「久世、お前のそれ、一体何て料理だ?」


「これ? これはガパオライスだよ」


 ガパ――何だか舌噛みそうな名前の料理だな、おい。


 とりあえず、俺達は銘銘めいめいに自分の食事を平らげていく――伊東が一番先に食い終わり、続いて俺、北川の順に食事を終え、今は久世と榊がまだ飯を食っていた。


 隣でちまちまと口を動かす久世の横顔を、試しに俺はじっと見てみた――ううっ、あんまりこういう真似はしたくないんだがなぁ。


「……ちょっと、何? ご飯、食べづらいんだけれど?」


 スプーンを口に運ぶ手を止め、何とも怪訝そうな表情の久世を尻目に、俺は一つため息をついた。


「やっぱり、違うよなぁ」


「違うって、何が?」


「いやなに、こっちの話だ」


 実のところ、俺は昨夜出会ったAKの顔をぼんやりと思い出し、久世と見比べていた。というのも、AKがかすかに漂わせていた匂いも、ところどころの何気ない仕草も、何となく久世に似ているような気がしていたからだ。


 だが、実際には髪の色も長さも全く違うし、眉や目の形も違う。ついでに言えば、瞳の色も久世の方が濃い感じがする。肩幅なんかも微妙に違う。ただ、鼻や口元、背丈なんかは似た感じなんだがなぁ。


「こっちの話も何も、そんなにじろじろと見つめられると、恥ずかしいんだけれど」


 ――いや、本当に俺が悪かった。頼むから、ほんのりと頬を染めてこっちを見るのはやめてくれ。色々ときついから。


 昼時は学食も混むので、全員が昼飯を食い終わったところですぐに席を立ち、そのままなし崩し的に購買部へと立ち寄った。伊東と北川はコンビニへ、残りの三人は書籍部へと足を運ぶ。


 榊は「ちょっと探している本があるから」といって、少し離れた参考書のコーナーの辺りを眺めていた。俺は雑誌コーナーで、昨日買いそびれたバイク雑誌を探す。


「一吾クン、バイクが好きなの?」


 棚からお目当ての雑誌を手に取ったところで、背後から久世が声を掛けてきた。全く、金魚のフンじゃあるまいし、ちょっとは別行動ができないもんかね。


「高校を卒業してすぐに、合宿で普通自動二輪の免許は取った。あとはバイクを買うだけなんだがなぁ」


 そうなのである。ずっと前から貯金をしていたので、バイクの免許自体はすぐに取れたのだが、肝心のバイク本体を買う金が俺にはない。たまに気が向くとロト6などを買ってみるのだが、まあもちろんのこと、そうそう当たるはずもない。


「バイクかぁ。ボクにはちょっと、扱えそうにもないなぁ」


 そう言ってため息をついた久世の頭からつま先までを、俺は一通り眺めてみる。


「そうか? その気になりゃ、小柄な女の子でも乗れる乗り物だぜ?」


 実際、俺よりも背が高くて足が長い久世ならば、華奢な体格のことはともかく、少々足つきが高いバイクでも難なく乗りこなせそうな気がした。


 一方の俺はというと、高校時代にダチから「お前が乗れるバイクはアメリカンだけだろ」などとからかわれ、そいつの頭をひっぱたいてやったことがある。なお、その理由はアメリカンには、比較的足つきが低いバイクが多いからだ――余計なお世話だよ、畜生。


 個人的にはレーサーレプリカかツアラー辺りが欲しいんだが、新車はもちろんのこと、比較的綺麗な中古車でも、今はなかなか手が出せそうにない。


 今度の夏休み辺り、まとまったバイトでもして金を稼ぐかなぁ。いや、それにしたってバイクを買うよりも先に、車の免許を取る方がいいのか?


「もしもキミがバイクを買ったら、ボクも一緒に乗せてくれるかい?」


「……野郎同士でタンデムしたって、嬉しくもなんともねーよ」


 俺はその光景を想像して、思わずげんなりしたが、久世は何とも言えなさそうな表情で曖昧に笑っていた。いやだから、そういう奇妙な態度を取るんじゃねぇ。


 少し離れたところでは、何組かの女の子達がこちら――というか久世を見て、何やら黄色い声を上げてざわついている。ほら見ろ、また何か変な誤解を招いている予感がするぞ?


「ところで、一吾クンはバイクのどんなところが好きなの?」


 レジで会計を済ませて、雑誌をバッグに入れているところで、久世が不思議そうに俺へと尋ねてきた。榊はまだ、参考書のコーナーで何やら考え込んでいる。レジに並んだ時、レジ打ちのおばちゃ――もとい、お姉様も、久世を見てぽーっとしていたのが何とも印象的だった。


「そうだなぁ……月並みな言葉になるけど、自分が風になれるところかな」


「風に、なれる?」


「ああ。クルマも嫌いじゃないんだが、クルマは四角い箱の中に座っての運転になるだろ? その点、バイクは身体がむき出しだから、全身で流れていく風を感じられるし、バイクにまたがった足元を見れば、もの凄い勢いで道が流れていく。面白いぜ?」


 バイクの免許を取ってすぐ、地元のダチに運転させてもらったスーパーカブの感覚は、今でもはっきりと覚えている。


 全身で感じるあのスピード感は、クルマでは絶対に味わうことが出来ないものだ。そりゃまあ、夏は暑いし冬は寒いし、走っている最中に雨や雪に降られると、ずぶ濡れにもなる。不便な乗り物だって言われちゃ、それまでなんだが。


「でも、もし走っている最中にこけたりしたら、大怪我をするよ?」


「うちのおふくろと全く同じことを言うんだなぁ、お前。人間、何をしていたって大怪我をすることはあるんだ。いちいち怪我を怖がってちゃ、バイクなんざ乗れねぇよ」


「ふうん」


「お前が趣味だって言ってたスノボだって、一歩間違えれば大怪我するだろ? それに、スピード感や身体で風を感じる感覚で言えば、スノボとバイクって結構似てると思うぜ?」


 俺がそう言うと、久世は何やら納得したように頷いた。


「……うん。そう言われてみれば、確かにそうかも」


 それから伊東達と別れ、俺達は次の講義がある教室へと向かう。次の講義は一般教養の科目で、久世と履修が被っていた。


「俺はスキーだのスノボだのってのはからっきしダメなんだが、お前、スノボやって長いのか?」


 大学の構内を歩きながら、俺は久世に尋ねた。相変わらず、すれ違う人々の何割かは、必ずといっていいほど久世に注目している。最初の頃こそ実は気が気じゃなかったんだが、ここ最近ではもう慣れっこになってきた。ホント、慣れってのは恐ろしい。


「そうだね。小学生の高学年ぐらいから、ちょくちょく親にスキー場へ連れて行ってもらっていたよ。ボクの家の近くに、スキー場はいくつもあったからね」


「近くに……って、お前んち、確か京都市内だっただろ?」


「そうだよ。でも、同じ京都市左京区の中にもスキー場があるし、すぐ隣の滋賀県までちょっと足を延ばせば、ゲレンデはいくらでもあったから」


 へえ、何か意外だな。俺はてっきり京都って言えば、寺や神社ばっかりの観光名所ってイメージしかなかったんだが。


「京都へは高校の修学旅行でしか行ったことがないから、その辺りの地理はさっぱりだ」


「バイクが好きな一吾クンなら、スノボもきっとハマるよ。ボクも関東こっち方面の地理はよく分からないけれども、もし日帰りで行ける場所があったら、一緒に行こうよ」


 久世からの思わぬ提案に、俺は腕組みをして渋面を作った。


「うーん……スノボ、ねぇ。ウィンタースポーツはブレーキがなくて止まれないってのが、何とも苦手なんだよなぁ。すぐにすっ転んで、大怪我をしそうで怖い」


 そんな俺の言葉を聞いて、久世がぷっと噴き出した。


「一吾クン、さっきキミが自分で言っていた言葉は一体どこにいったのさ? それこそ、いちいち怪我を怖がってちゃスノボなんて出来ないよ」


「うるせぇ、いちいち人の揚げ足を取るな」


 俺は半ば吐き捨てるようにしてそう言ったが、ふと思い返してみると、久世は今までに付き合いのあったどのダチともタイプが違っていた。


 今まで俺が付き合ってきたダチは、どっちかっていうともっと男臭くて、もっとごつごつとした感じのヤツばかりだった。


 それに比べると久世は、どこかフワフワとした感じで、物腰の柔らかい会話をすることが多いヤツだ。会話が下ネタの方向に流れると、露骨に嫌な顔をするのは潔癖症が過ぎるように思うが、初めて出会った時の第一印象――スカした感じのイケメンからは程遠いことが分かったので、俺もコイツとの付き合いが随分とこなれてきたのが自分でも意外だった。


 あとは、まあ――時々見せる女みたいな仕草さえなければ、もうちょっと普通に付き合いが出来そうなんだがなぁ。そんなことを考えながら、俺達は次の講義の教室へと入っていった。

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