第6話 ギターを弾く女

 結局のところ、午後八時三十分を回った辺りで俺達は解散した。さかきが来てからも、何だかんだと無駄話を続けていた結果、こんな時間にまでなってしまった。


 大学からアパートへ帰る前に、俺はあららぎ駅前の本屋に立ち寄った。というのも、今日は俺が毎月購読しているバイク雑誌の発売日で、たまたま大学の購買で買いそびれたためだ。


 気が付いたのは伊東達と別れる直前で、さすがにこの時間帯になると、店が開いていて確実にお目当ての雑誌が買える本屋は、駅前の大型書店が一番近かった。まあ、それ程慌てて買わなければならないものでもなかったんだが、月一の楽しみは出来るだけ早く手に入れたい。


 途中、駅前の広場を抜けようとしたところで、ちょっとした人だかりの山を見かけた。耳を澄ますと、わずかにギターの音色が聞こえてくる。いわゆる路上ライブという奴だろう。


 平日の夜、このぐらいの時間帯だと駅周辺の飲み屋で一杯ひっかけたサラリーマンやOL、塾帰りの学生たちの姿が目立つ。あららぎ駅は、地方の駅としては結構大きなもので、辺りは真昼のように――とまではいかないが、かなり明るい雰囲気だ。


 腕時計を見ると、時計の針は午後九時二十分を指していた。まだ本屋が閉まるまでには時間がある。少し興味が湧いた俺は、人だかりの山の方へと足を向けた。


 人の輪の中心では、若い女がギターを弾いていた。歳の頃は、たぶん俺と同じぐらい。中性的な雰囲気を持った、すらりとした美人だった。女は広場のベンチに腰掛け、ジーンズを穿いた細く長い足を組み、ややうつむき加減になってギターを抱いている。胸の辺りまで伸びた長くつややかな濃い栗色の髪は、夜の街中でも美しく輝いていた。


 俺はギターのことはさっぱり分からなかったが、夜空へと向かって緩やかに流れていくその音色は、耳に心地良かった。その音色を奏でる白くて細い手の動きが、何ともなまめかしくて色っぽい。そして何より、うれいを含んだ横顔と綺麗な目に、俺の心臓は思わず高鳴った。


 女の歌声も、また良かった。女性にしてはやや低めの、それでいて透き通るような甘い声。聞く者をとりこにする声ってのは、きっとこういう声を言うのだろう。


 彼女を取り囲む人々は、老若男女様々だったが、皆一様にその歌声を一瞬でも聴き逃すまいとするかのように、ただ無言で耳を傾けていた。かく言う俺も、ギターを弾く女の姿についつい見とれてしまった。


 ギターをつま弾く間、女が一瞬顔を上げ、ちらりと俺の方を見た。女は少しの間、じっと俺を見つめていたが、その演奏や歌声に変化は無かった。やがて彼女は再び視線を落とし、ギターの音色と歌声が優しく、淡々と辺りに響き渡っていく。


 しばらくして演奏が終わり、次の曲の演奏が始まった。次の曲は弾き語りではなく、ギターの演奏だけだった。だが、先程までの演奏とは打って変わって、情熱的な早いテンポのメロディが流れていく。それはおそらく、フラメンコの曲のようだった。


 女の演奏に合わせて、誰かが手拍子を叩き始めた。自然、辺りにいた人々が次々とその手拍子に合わせて、自らの手を叩き始める。気が付けば俺も、ついつられて同じように手拍子を打っていた。


 それから都合三曲、女はギターを演奏した。最後の演奏が終わり、女が終了の合図として聴衆に向かって軽く会釈をすると、周囲にいた人々は満面の笑顔と共に女へ拍手を送り、女の前に置かれた蓋の開いたギターのハードケースの中に、思い思いに小銭やお札を入れていく。


 若い女の子達や、酔っ払ったサラリーマンのおっさんなんかは、二言三言女に語りかけ、女も曖昧な笑顔でそれに応じていた。一番後ろの方で演奏を聞いていた俺は、前にいた人達が順番に金を渡していくのをただ茫然と待ち、一番最後にギターケースの中へ五百円玉を一枚入れて、その場を立ち去ろうとした。


「待って」


 俺の背中越しに、柔らかい女の声が聞こえてきた。俺が振り返ると、女は何か懐かしいものでも見るかのような目で笑った。


「ねえ、私の演奏、どうだった? 気に入って貰えたかな?」


 じっとこちらを見る彼女の視線に気まずくなり、俺は思わず視線を外した。


「あ、ああ……良い演奏だったと思うぜ。それに歌も」


「そう、ありがとう。ちなみに、キミが聞いてくれた曲の中で、どれが一番好みだった?」


 女は相変わらず、真っすぐにこちらを見て笑っている――いやその、そんなにじっと見つめられるってのは、どうにも苦手なんだが。


「えっと、そうだな……あのフラメンコの曲みたいなのが、個人的には一番良かった」


「あれはね、ラスゲアードっていう弾き方。本当はフラメンコギターを使ってやる弾き方なんだけれどね」


「フラメンコギター?」


「そう。私が今手にしているのはフォークギター。これはスチールの弦を使っているんだけれど、フラメンコギターの弦はガット弦なの。だから音の質も伸びも、全然違う。まあ、どっちのギターも一般的にはアコースティックギターって呼ばれているけれどもね」


「へ、へぇ」


 ややしどろもどろになる俺の反応を見て、女は軽く握った右手の甲を口元に当て、クスクスと笑う。一つ一つの仕草が、いちいち絵になる女だと思った。


「ところでキミ、ギターに興味はある?」


「へっ?」


「他の人達はみんな、私の演奏をじっと聞いてくれていたけれども、キミだけはずっと、私の手の動きを見ていたから。ギター、弾いてみたいのかなって」


 あ、いや、ついアンタの手を見ていたのは、全然違う理由からだったんだが――って、さすがにその理由を本人に言う訳にはいかないけれども。


「ちょっと弾いてみる? 何だったらギターの弾き方、教えてあげよっか?」


 手にしていたギターを俺の方へと差し出した女が、悪戯っぽい笑みを浮かべた。俺は少し考えて、答えた。


「いや、いいよ。わりぃが遠慮しとく」


「どうして?」


 不思議そうに軽く首を傾げた女に、俺は言葉を続けた。


「アンタにとって大事なギターなんだろ、それ。ど素人の俺が、気軽に触っていいもんじゃないような気がするんだ。それに」


「それに、何?」


 女の視線に気恥ずかしくなった俺は、思わず自分の頬を掻いた。


「実は今日もう一人、俺にギターを教えてやるって言ってくれた奴がいたんだ。でも、俺はギターに興味がなかったから、そいつの申し出を断っちまった。それなのに今、アンタの誘いをホイホイ受けちまったら、そいつに義理が立たねぇよ」


 久世の誘いは断ったくせに、この女の誘いを受けるってのは、いくら何でもさすがに恰好悪すぎるだろ。まあ、北川辺りには「アホ、こんなチャンスみすみす見逃すな」とか言われそうだが。


 それにしても――ああ、何でこんな時に久世の事なんか思い出しちまったんだろうなぁ、俺。


 女は一瞬きょとんとした顔になったが、やがて何やら優しげな笑みを浮かべて言った。


「キミ、随分と義理堅いんだね。その人はキミにとって、一体どんな人なの?」


「あー、何ていうか、まだ最近知り合ったばっかりの奴なんだけれども……一言で言えば、何か危なっかしくて放っておけないダチ、かな」


「ふうん……そうなんだ」


「悪い奴じゃないんだけれど、ちょっと人付き合いに難があるっていうか、そのくせ妙にべたべたしてくるのが面倒臭いヤツって言うか……って、ああっ!」


 久世の話をしている途中で、唐突に思い出した。本屋!


 俺は慌てて腕時計を見た。午後十時二分。本屋があるビルのテナントの辺りに目を向けると、そこは既に薄暗い照明に変わってしまっていた。


「どうしたの?」


「俺、本当はそこの本屋に用事があったんだよ……ついうっかりしちまったよ、畜生」


 せっかくアパートとは逆の方向の駅前まで来たってのに、何てこった。


「えっと、それは、その……ごめんね、私がキミを引き留めたのが悪かったのかな」


 気まずそうに肩をすぼめた女に、俺は被りを振った。


「それとこれとは関係ねぇよ。そもそも、俺が昼の間に買っておけば良かったんだから」


「でも、ついさっきまでは本屋さん、開いていたんだし」


 そう言った女は少しの間考え込んだ後、ギターケースの蓋を閉じると座っていたベンチのスペースを少し開け、右手で軽くベンチを叩いた。


「お詫びに……って言ったら、キミは怒るかな? 本屋さんに行きそびれちゃった可哀想なキミに、もう少しだけサービス。ほら、ここに座って」


 え、いや、いきなり隣に座れって言われても、なぁ。


「私だけ座っていて、キミを立たせたままっていうのは、何だか気が引けるから。さあ、早く」


 仕方なく、俺は女の右隣に座った。さっきまで女が座っていた場所はまだほんのりと温かく、その感触が妙にこそばゆかった。


 女が再びギターを手にして、ややうつむき加減の姿勢で弦をつま弾き、歌い始めた。その曲はどうやらスローバラードらしく、ゆったりとしたギターの音色と共に、低く通る女の歌声が辺りに流れていく。


「えっ……ちょっ、アンタ、その歌」


 思わずぎょっとした俺の表情を尻目に、女は歌を歌い続けた。随分と数が減った帰宅途中のサラリーマン達のうちの数人が、物珍し気にちらりとこちらを見ながら通り過ぎていく。


 曲にすれば一番を歌い終えたところで、女の演奏がぴたりと止んだ。


「はい、今回のサービスはここまで。短くてごめんね」


 演奏を終えた女は顔を上げ、こちらを見て笑った。


「アンタ、さっきの歌声……」


 俺は一度唾を飲み込み、何とか言葉を続けた。


「まるっきり、だったじゃないか」


 そう。さっきまでギターを弾きながら歌っていた女の歌声は、本当に男の声のようだった。


「期待通りのリアクション、ありがとう。これ、私の特技の一つなの」


 そう言って、女は軽く舌を出して笑った――って、あれっ? この仕草、どっかで見たことがあるような?


「ネットの世界じゃ多声類たせいるいとか、両声類りょうせいるいとか言うんだっけ? 私、自分の声の質を何種類かに変えることが出来るの」


「……」


「まあ、この芸を披露する機会は滅多にないんだけれどもね……たまにこうやって外でギターを弾いていて、いつもよりお客さんの集まりが悪い時とかぐらいかな?」


「何種類か、って……すげぇなオイ、一体どれぐらいの種類の声が出せるんだ?」


 俺が尋ねると、女はクスッと笑った。


「そうだね……まずは一つめ」


 そう言った女の声は、やや高めの少女のようだった。


「次、二つめ」


 さっき歌っていた時の、やや低めの男の声。いわゆるイケメンボイスってやつ?


「で、これが三つめ」


 明るい女性の声。若い感じ。


「これが四つめ」


 やや年配の、中年女性のような声。落ち着いた雰囲気。


「五つめは、こんな感じかな」


 小学生ぐらいの男の子の声。こちらもやや高めだが、最初の少女のものとは明らかに違う。


「とまあ、ざっとこんな具合だよ」


 そう言った女の声は、最初のやや低めの女性の声に戻っていた。どうやらそれが、彼女の地声らしい。都合、全部で六種類の声質。


 俺は唖然とした表情のまま、呟くように言った。


「いやホント、マジで凄ぇわ……アンタ、ギターやるのもいいけれど、それより先に声優とかやった方がいいんじゃねぇの?」


「あはは。キミがそう言うなら、少しぐらいは考えてみるのもいいかな」


 女はそう言って立ち上がると、足元のギターケースを自らが座っていたベンチの上に置き、中に入っていたお金を集めてから、手にしていたギターを収めた。


 その時、ふわりとかすかに風が吹き、女の甘い匂いが俺の鼻先をくすぐった。


「……えっ?」


「何、どうしたの?」


「あ、いや……別に、何でもない」


 肩越しに軽く振り返った女に、俺は曖昧な返事で答えた――はて。この匂いも、最近どこかで嗅いだことがあるような?


「さて、今夜の演奏はこれで終わり。今日はもう帰るね」


 ギターケースとバッグを肩から下げた女が、鮮やかに笑った。俺は尋ねた。


「アンタ、いつもここでギターを弾いているのか?」


「えっとね……実は、ここでギターを弾いたのは今日が初めてなの。今までは、全然別の場所で弾いていたから」


「ふうん……俺もまだ、この街に来てからそんなにはたっちゃいないけれど、あんまり遅くまで出歩かない方がいい。ここはまだ明るい方だが、それでも変なヤツに絡まれると厄介だぜ?」


 何しろこれだけの美人なんだ。ただ黙って突っ立っているだけでも、ナンパ目的の男の五人や六人は、すぐに集まってくるに違いない。


「だったら、私がここでギターを弾く時、キミが私の用心棒になってくれる?」


 女がやや上目遣いに、再び悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。俺は思わず自分の鼻を右手の人差し指で搔き、ついと目を反らした。


「い、いや、さすがにそんな訳にはいかねーだろ」


「キミ、背筋がピシッとしているし、細身だけれども体格だって良さそうだから……ひょっとして、何か武道とかしていたんじゃない?」


 ――っと、なかなかに鋭いな、こいつ。


「えっと、まあ……ガキの頃からちょっと前まで、空手をやってたけれども」


「ふうん」


 俺の目の前に立った女は、俺よりも拳一つ分ほど背が高いようだった。今日この女に出会って初めて感じた、ほんの少しの腹立たしさ――って、いやいや、何でそんなことを感じているんだ、俺?


「せっかくのキミからの忠告だから、今度からここに来る時間帯は、もう少し早めにしようかな。でも、キミも時々ここに来てくれたら嬉しいかも」


「……まあ、機会があれば、な」


 じっとこちらを見つめ続けている女の目が、俺には何とも気まずかった。なまじ綺麗な目をしているだけに、どうにも苦手なんだよなぁ、こういうの。


「私がここに来るのは、雨が降っていなければ、しばらくの間は今日と同じ曜日の夜だけ。時間帯は……そうだね、これからは夜の七時から九時ぐらいまでかな? また歌を聞きに来てね、えっと」


新行内しんぎょうち一吾いちごだ」


「一吾クン、かぁ。何か果物のイチゴみたいで、可愛らしい名前」


 可愛らしい、って、あのなぁ――あ、いや、ちょっと待て。


 だが、俺が自らの疑問について考えるよりも先に、女が口を開いた。


「私は……AK」


「えーけー?」


 何かロシアの銃器だか、どこぞの元県知事みたいな名前だな、おい。


「それ、もちろん本名じゃねぇよな?」


「まあね。一応、私の芸名みたいなものかな……私の本名、知りたい?」


「……」


「あはは、そんなに真剣に考えこまないで。またそのうち、教えてあげる。それじゃあね」


 AKと名乗った女は、意味ありげに笑って軽く右手を振ると、しなやかな足取りでその場を去っていった。AKにとっては大きめのギターケースが何とも重そうに見えたが、華奢きゃしゃな体格の彼女が軽々と持ち運んでいる辺り、実際にはそれほど重いものではないのかも知れない。


 俺はしばらくの間、駅前の喧騒の中に消えていくAKの後姿を黙って見送っていたが、やがて彼女が歩いていった方向とは逆の方向へと歩き出した。


 彼女については、実はいくつかひっかかるところがあったのだが、それを今考えるのはとりあえずやめておくことにした。あと、明日こそは忘れずに本屋へ立ち寄ることにしよう。

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