第3話
目を開くと見知らぬ天井が写った。いつの間にか布団の中にいる。
そのままぼんやりしていると、ゆっくり記憶が浮き上がってきた。
(あぁそうだ。俺は)
陰陽師になる事を選んだのだ。
「おはよう紫苑」
かけられた声にぽかんとしてしまった。
「ん?あぁ紫苑ってのは君の名だよ。翠が音を考えて、俺が字を当てたんだ」
鍋を置きながら笑う凪。
蓋が開けられた途端、ふわりと湯気が漂い、同時に甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
椀に移されたそれの中身は、とろりとした粥だった。
少し古めな木製の茶碗へ凪は、玉杓子を使って粥をよそうと匙と共に俺の方へ置いた。
粥の頂点にほぐされた梅干し。口の中に唾が湧いてくる。
目の前に置かれた物を、見ないように顔を少し逸らす。
「食べないのかい?」
その声に体が跳ねた。凪が俺の手を取り、茶碗へ触れさせた。
「わ……あったかい」
手のひらからじんわり伝わる熱。心の奥から何かが込み上げる。
何だろう?感じている熱と同じくらい温かくて、くすぐったい。
でも勝手に食べたらきっと殴られる。
固まっている俺を見ていた凪は、匙を手に取った。
粥を掬うと息を吹きかけ俺の口元へと差し出す。
「はい、あーん」
にこにこ笑っている凪と、匙の上の粥に何度も視線を彷徨わせる。
「君に何があったかとかは聞かない。けど、ここでは好きに食べて好きな時に眠って、好きに過ごして良いんだよ」
口に入れ、飲み込んだそれは優しい味がした。
思わず俯くと、手がぽんぽんと頭を撫でる。目の前が潤み始めた。何度も何度も頭を撫でる手。
耐えきれず俺はわんわん泣いた。
やっとの事で粥を食べ終えると凪は、春の陽だまりのような笑みを浮かべた。
「改めてこれからもよろしくな」
「はい!」
初めての笑みを浮かべ俺は紫苑になった。
それからの日々は目まぐるしいものだった。
まず山で暮らしていける力を付ける為の修行が始まった。
一日の中で、何回かに分けて粥を食べ薬を飲み、日を浴びる。
最初は胃が受け付けなかった。が、徐々に粥以外も食べれるようになり、体に肉もついてきた。
ようやく次の修行に移れるようになった頃、季節は初夏を迎えていた。
その日、言われたのは木刀を使った素振りだった。
何百、何千回と繰り返す度、豆が潰れ手のひらが固く分厚くなっていく。
栗が実り始めた頃俺は、師匠と受け身が取れるように鍛錬していた。
ひたすら転がされ泥と土まみれになった。
その時、羽音と共に白い鳥が飛んできた。
腕を差し出し、鳥を迎え入れる師匠は今まで見た事がないほど険しい顔をしている。
声をかけようと口を開いた瞬間
「紫苑」
「はい!」
「今日はここまでだ。家に帰って体を洗って、先に寝なさい」
有無を言わせない口調に頷くしかなかった。
半年の間に見慣れた天井を、何の気もなしにじっと見つめる。
頭に浮かぶのは先程の師匠の姿。
(あんな顔初めて見た。あの鳥は何なんだろう)
何か良くない報せなんだろうか。とろとろ眠りに浸されてきた。
いつの間にか眠っていたらしい。微睡みの中に、戸が開く音が滑り込んできた。
「……んぅ」
目を開けると、部屋の中に差し込む月明かり。遠く虫が鳴いていた。
薄明かりが差す場所以外は全てが、黒に染まっている。
(師匠……?帰ってきたのかな?)
そっと音を立てないように、廊下を歩き音のした部屋を覗き込んだ。
「っ!」
咄嗟に悲鳴を上げかけた口を塞ぐ。そこにいたのは、人でも動物でもない何かだ。
嫌な水音を立て、這いずり回る闇よりも濃い色の泥の塊。
(どうしてここに、こんなに邪気の強いものが) 逃げなければと思うのに、体が動かない。
目の前で泥が、ぱきぱきと音を立てながら人によく似た形になっていく。
それは俺の方を向いた。目と同じ位置にぽっかり空いた穴。
その奥に紫の炎が、熾火のように燃えていた。
ゆっくり振り上げられる腕の先には、刃よりも鋭い爪。
(ああ、これに裂かれて俺は死ぬんだ)
諦めが全身を浸していく。瞬間、赤い色が辺りに散った。
月夜の焔 出雲渉 @kyo21
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