　それより二、三日の後、歳の頃十五、六程と見ゆる女房が門前に入（い）り倦（あぐ）ねているのを見留（みと）めた。宮中に仕（つか）える人とも思われず訝（いぶか）しくなって、招じ入れて誰何（すいか）すると「妾（わらわ）は亰（みやこ）の裡（うち）に真日長（まけなが）く住（すま）うものにて」と申しある。些（いささ）か見込み外れの心地がして、外見（そとみ）とて貴人（あてびと）に事（つか）える女房とも見えず如何（いかが）わしく思われて「御宿所は何方（どちら）でしょうか」「御名（みな）は何と申されるのですか」などと訊（き）けば「名は『けしやうぶみ』と申します。然るべき御身分で妾（わらわ）を御存知ない御方は御出（おじ）ありますまい」と言うではないか。

　「否早（いやはや）何ともお珍奇（めづら）しい御名（みな）でいらっしゃる。何方（どなた）がお付け申されたのでしょう」と問うたところ、この女房はこのように言うのであった。

　「『けしやうぶみ』とは、疇昔（そのかみ）、仁徳聖帝の領（しろしめ）す御時（おおんとき）に、傍（そば）近くお仕えする侍女（まかたち）が畏（おそ）れ多くも帝（みかど）をお慕い申し上げて、その色を露（あら）わにすることなく人知れず私（ひそ）かに心寄せていると、忍ぶ想いが忍摺（しのぶずり）の摺衣（すりごろも）の乱れ模様の如くに心の奥に荒れ狂うて如何（いかん）ともし難（がた）くなってしまった故事（ふること）に由緒（いわれ）を持ちます。帝（みかど）はかかること纔（ひたた）にも思い寄らで御坐（おわ）しますので、彼女は想い煩（わずら）う余り、何とかしてそれとなく想いをお伝え申し上げようと考え至って、今よりもなお己（おの）が顔貌（かおかたち）の艶立（えんだ）ちて姝（うるわ）しうなれば御叡情（おきもち）をお掛け下さるやも知れぬと、曩時（のうじ）おおよそ為されておらなんだ化粧（けそう）を肇（はじ）めたのです。白粉（おしろい）と紅（べに）で色粧（いろめか）し、黛（まゆずみ）を清らに引いて面（おもて）を作り、それまでとは見違えるような尤態（あですがた）となってお仕えするようになると、畏（かしこ）くも帝（みかど）はこの侍女（まかたち）に御心（みこころ）惹かれてこれをご寵愛遊ばされ、程なく后立（きさきだ）ちと相成（あいな）りました。爾来（しかつしより）して、人を想う言（こと）の葉を懸想詞（けそうことば）と言い、これを文（ふみ）に書いて遣（や）るをば懸想文（けそうぶみ）と申すのです」と。

　私が「未だお嫩（わか）い身空（みそら）で何故（なにゆえ）そこまで往（い）にし方（え）のことなど御存知なのですか」と心撼（こころうごか）されていると、女房は「我が名でございますもの、知らで善（よ）かろう筈（はず）のございましょうや」と言って還らんとするので、そう言えばと私は往日（さきつひ）の結文（むすびぶみ）のことを思い起こし「先だって大内（おおうち）の皇嘉門（こうかもん）の前にてこれを捃摭（ひろ）うてより、落とし主の誰人（たれひと）なるか気に掛かり、夙夜（ひねもす）忘られずおります」と言うと「そのようなこともございましたか。さすれば宜しき折にでもその落とし主を此方（こなた）にお連れ申し上げなん。そのお心積もりで御坐（おわ）しませよ」と言うので、私は嬉しうなって季諾（きだく）なれかしと念を押すと、女房は嫣然（にっこり）とそれに肯（うべな）うて還って行ったのであった。