第14話 定年退職後の杉谷

 津を離れた後の事を杉谷は回想していた。


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「ワシは、何のために今まで生きてきたのかのう…」


 親族の醜い争いに辟易して役目を辞した杉谷は、所属する家から出て豊後へゆく船の上で自問していた。

 元々、戦のない太平の世で武士という存在のほとんどは存在意義を失っていた。

『海の無い土地で水戦の訓練をするようなものだ』

 槍奉行の補佐をしていたときにも陰口を叩かれていたものだが、それでもやることがあるというのは精神の安定に一役かっていた。

 しかし、今の杉谷は役目を辞した半浪人。

 捨て扶持と収穫できるか不安な自作の作物だけが頼りとなる。

 

 まるで定年退職したサラリーマンのような不安と喪失感が杉谷の肩にのしかかっていた。


 今までなら日の出と共に起床し、稽古の準備を始めてとして武具の管理をしていたのだが、それもない。

 当座の蓄えは残っているがそれでも病気やけがをすれば数年で無くなるだろう。

 こうして居場所を追われた男が考え付く思考は

「ワシは生きててもよいのだろうか?」

 となるものと相場が決まっている。


 生真面目で『社会の一員の姿とはこのようなものだ』という確固たる人物像を見据えた人間ほど、職が解けた後のぶり返しは酷い。

 何の生産もせずに無為に日を送る。

 それは文筆家として名を残したいと言う自己顕示欲に溢れた杉谷にとって『何かをせねばならぬ』という名状しがたい脅迫観念となって襲いかかっていた。

 だが、身近な人間の死で弱った頭と心は全く動こうとしない。

 焦れば焦るほど頭脳は空回りし駄文とも呼べない語の断片を生みだしていく。

 もはや佐伯家と杉谷家という後ろ盾もなく、自分を真に認めてくれる人間もいない。 


 ――このまま、船から転落したという事にして、全てを終えるか


 津を離れて豊後行きの船に揺られて2日目にはそんな考えが頭を支配していた。

 別に旧主の後を追って殉死する。という殊勝な心がけでは無い。

 同じ年の同僚で自分と同じように家士として勤めながら親族同士で仲良く助け合い、死ぬまで役目を与えられたものや、趣味の芸事で皆から称賛されている者もいるのに、自分は評価されず何も成せなかった。

 その落差とみじめさに、取り返しようの無い挫折を感じたからだ。


 朝、憂鬱な気持ちで起きれば吐き気が止まらず、日中は激しい片頭痛に苦しめられ、夜寝床に入れば不安と焦燥で寝る事が出来ない。

 自分は人生の落伍者でしかない。と思いこむまでに自分で自分を追い詰めた杉谷にとって、生きる事は苦痛だった。 

 また、佐伯氏が絶えた事で今まで付き合いで本を借りていた者たちが読むのを辞めたのも杉谷の誇りをボロボロにしていた。

 自分の実力だと思っていたものの何割かは付き合いで読まれた程度のものだったのだ。


 自分の書いた本の一番の読者であった佐伯氏の男系血族は途絶え、縁もゆかりもない人間が家を継いでいる。

 もはや人生の目標は達成する前に消えた。

 佐伯様のため完結させる。という決意も時間と共にやる気が薄れ、とてつもない徒労感と絶望が頭を支配していた。


 真剣に読んでくれる方もいないのに、これ以上 頑張る必要を感じない。

 そんな事を考えながら急流で荒れる波間を見ると、背中より締め付けるような熱さと冷たさを感じる。


 船のへりに足をかけて潮の中に飛び込めば、岩礁に叩きつけられ死ねるだろうか?

 そうすれば何も苦しんだり悩む必要はなくなる。

 そんな思いで、真剣に飛びこむかどうか考えながら海を見ていると


「旦那じゃありませんか」


 ふと後ろから声をかけられた。

「どうしたんですか」

 振り返ってみれば以前臼杵行きの船で知り合った建治郎が立っていた。

 

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「いやあ、奇遇ですなぁ。まさか同じ船に乗るとは」

 と気の抜けたような声で建治郎は言う。

 甚吉が動かす船は8叟あるので、2回とも同乗するのは64分の1となる。

 奇遇と言えば奇遇だ。


 杉谷は建治郎がいなくなるのを待っていたが、話好きなこの男はなかなか場を離れようとしない。

 仕方がないので、将来への絶望を愚痴のように語り始めた。

 頑張っても報われない世の中。

 子を失い、自分も命を落として佐伯家が滅んだ理不尽さ。

 名を残そうと奮闘したが、世に顕れることもできずに朽ちていく己自身。

 老醜をさらしてまでこの世に生きる価値はあるのだろうか?

 そんな思いついた事を語ると、建治郎は

 

「旦那はよほど恵まれていたんですなぁ」

 と言う。

 なにをふざけたことを言うのか、と杉谷は思ったが

「その年になるまで親しい方との死別がほとんどなかったということでしょう?」

 羨ましそうな目で建治郎は言う。

「うちは父親が高麗で死に、母親も病気で亡くなりましたからね。それで面倒を見てくれた親戚も石垣原(1600年に関ケ原と連動して起こった合戦)で討ち死にしてからは一人でずっと生きてきましたよ」

 武家とは共同体である。

 身内がいつ死ぬかわからないので、身よりのない物は一族で面倒をみたり養子の世話をしたりする。

 しかし、

「お武家さんにとっちゃあ家を残すってのは大事な事かもしれませんが、あっしみたいな者に取っちゃあ人間なんて生き残るだけでもうけもん。ガキが生まれて家を継がせるなんてのは運が良かったおまけみたいなもんじゃないんですかねえ」

 土地も与えられず、自分の身一つで生きなければならない商人は生涯独身が多い。

 40でのれんわけしてもらえた男が所帯をもてたら万々歳といったところなのだという。

 そう言われると自分の境遇はそこまで不遇なのかと思えてきた。

 我が子が死んだ事を悲しんだゴータミーが釈迦に諭されて『愛する者を失う苦しみは万人が持つものだ』という無常観に気付かされた気がした。

 そんな不幸の先達者である建治郎はさらに言う。 

「それに、名を残すとか、立派な生き方をするってのは、それほど大事な事なんですかねぇ」

「そりゃあ、大事だろう。武士が死を恐れずに戦うのは家の名を世に挙げる事だもの」

「それは贅沢な話で御座いますよ。大多数の人間なんて獣と同じで死んだら残るのは皮と骨くらいなもんでさぁ」

 ――山で死んだ猪の名前なんて誰も覚えちゃいませんや。

 武士の家にかける思いをすべて否定して切って捨てた。

「だいいち、死んだ後の事なんてわかる奴はいませんよ。あの世もなけりゃ、来世もわかりません。みんな生きている人間が死んだ人間にこれだけの事をしてやったんだという自己満足なんじゃぁないですかねぇ。それに」

 建治郎は自分の目の前で死んでいった者たちの名を数えるように、指折り数えて

「死人の名を全て覚えていりゃキリがないじゃないですか」

「人の名とはそんなものかね?」

「飢え死にしたり病で亡くなった知り合いが500人を超えると、そんなもんでさぁ」

 人間なんていつ死ぬか分かったものじゃない。そのたびに悲しんでたら命がいくつあっても足りない。

 

 武士よりも死に触れた建治郎の言葉に、杉谷は急に己の悲しみが卑小なものに感じられた。

 自分など足元にも及ばないほどの悲しみにいても飄々と生きている男を見ると、自分の悲しみなどなんと小さい事か。


 杉谷は海に身を投げる事を一旦止めることにした。

 

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 だが、他人の不幸で自分の傷が癒えるのは一時の事だ。

 他人事はすぐに離れるが、自分の苦しみはずっとついてまわるからである。

 佐伯に着いた宗重は朝起きるたびに将来の不安で吐き気を催し、夜はどれだけ疲れてても寝付けない生活が続いた。

「おお、アンタが新しく来た杉谷様んところのシ(人)か…大丈夫か?ちゃんとメシ食ってるか?」

 と近所の住人が挨拶にくるたびにそう尋ねられるほど顔色が悪いのが自分でもわかる。


 力仕事である農作業は苦痛ではない。

 武芸で槍を振るのも鍬をふるのもそこまで大差はないからだ。


 だが、秋の収穫を待って作物を育てる不安感は大きかった。


 飢饉や干魃がくればどれだけ収穫があるかわからない。それでも年貢は取られる。

 国から扶持をもらっていたころと比べると恐ろしいほど不安定な生活だ。

 これほどまでに恐ろしい生活をしながらも村人たちは笑いながら暮らしている。

 これで家族でも一緒にいれば杉谷も笑えたかもしれないが、彼は独居であり孤独だった。

 かといって元々武士だった杉谷はうまく頭を下げることもできない。どうしても偉そうだと反発がでる。

 農業は集団作業であり、協力が必要なのだが上手く村人の中に溶け込めない。

 人虎伝(=山月記のモデル)の李徴がごとき高慢さ故に孤独となっていった。


「何かを書く気力もわかぬ。生きていたいという欲望も生じぬ。ワシは何のためにいきとるのじゃろうな」


 何も成さなくても時はすぎる。

 だが何かを為しても死んでしまえばそこで終わり。

 そう考えると何をしてもやる気が起こらず、空虚に日々を過ごしていた。


 せめて、佐伯と誓った大友興廃記だけでも書こうとするが、筆を手に取っただけで重い岩石を背負ったかのように腕が止まる。あれだけ楽しかった文を書いても

『誰も読まない書を書いて何の意味があるのか。苦労に見合った報いが無いではないか』

 という思いが圧し掛かり、頭の中が真っ白になる。

 何をしても気分は塞ぎ、灰色の世界を生きているかのようだった。


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 杉谷のように、なまじ学があると下手にでて話しかけるというのが苦手となる。おまけに元々は武士だったのだ。

 話かけてもらうことはあっても、こちらから話しかけるというのは変にプライドがあってできないらしい。


「あー。旦那みたいな偏屈者は集団に馴染むのは難しそうですものねぇ…」

 と留吉は納得した。

「何か言ったか?」

「いえ、なにも」

 孤独は人の苦しみを増加させる。

 だが目の前の杉谷は津に居た時よりも心穏やかで、多くの村人とも気安く話せているように見えた。

 何が杉谷をここまで回復させたのだろうか?

 不思議に思って留吉が問うと


「実はな、豊後からとある方たちが、この老いぼれを尋ねてきたのじゃ」

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