第13話 1648年 再開の杉谷
江戸時代、他国への移動は厳しく制限されていた。
だが、お伊勢参りだけは例外である。
入手の難しい通行手形を無条件で手に入れることができ、どの街道を通ってもよかったので、伊勢の前後に各地の観光名所に足を運ぶのが定番だった。
その参拝客を連れている甚吉はある程度の融通を効かせて留吉を佐伯まで運んだ。
10日間船に揺られて到着して着いた佐伯の港には、すっかり老けた杉谷が待っていた。
彼が棲む因尾から佐伯港までは10km程離れているのだが
「一足先に人を遣わしておきました」
と甚吉は言う。
「杉谷様…」
4年ぶりの再開に、胸からこみあげてくるものを留吉は感じた。
それは杉谷も同様だったらしい。
「留吉…」
懐かしさに涙を浮かべながら留吉に近寄った。
「おひさしゅうございます」
「もう二度と会えぬかと思っておったが、よくぞ来た」
そうして杉谷は、あれからどうしていたのか昔話を語り始めようとしたが
「それはそれとして」
と留吉から遮られた。そして、
「#いい加減、合戦の話をお書きなさい__・__#」
貸し本屋の主人の目で、有無を言わさず言った。
「お…おう」
思わぬ不意打ちに杉谷は固まる。
4年ぶりなのだ。久々の再開なのだ。
なんか、こう積もる話もあるだろう?
そんな許しを請うよな目で留吉を見るが、臼杵城の鉄扉のよりも堅固な決意を秘めた顔で大友興廃記の11巻を取り出すと、最期の部分を見せ
「ほら、このお話は薩摩へと使者を出した所で止まってます。読者も日向の合戦を待っているのですぞ!!毛利の九州撤退を書いてから6年!いいかげん大友『興廃』記の『廃』の部分を書いてください!!!」
4年分の溜りたまった鬱憤を晴らすかの如く、こみあげてくる怒りを爆発させ詰め寄った。
「いや、折角じゃし少し話でも」
「書く方が先です」
「まあ、酒でも」
「それよりも続きです。さあ、今すぐ、 直ちに、速やかに、遅滞なく、つつがなく、しめやかに、続きを書いてください」
留吉は全く妥協する気はない。なぜなら
「3年ですよ!3年!なのに渡されたのは#狩とか豊後の奇人変人の話ばかり__・__#。大友興廃記という題名とぜんぜん関係ないではないではありませぬか!!!」
今まで客から言われ続けた苦情を全て杉谷に言う。言われた本人は
「ははは、すまぬ。今後半の話を書くためにな色々話をきいておったのじゃ。3年後には話がすすむじゃろうから、もう少し待ってくれ」
とのんきに答える。
「そこまで杉谷様がご存命の保証がないではないですか!」
歯に衣着せず留吉は言う。
「それもそうじゃなぁ。では大友の軍が日向の北部 土持を攻めたときの話を今回は書くとするかのう」
留吉に迫られた杉谷は、その日のウチに12巻を大枠を決めさせられた。
そのためか12巻では1577年に日向の伊東家が島津に滅ぼされ、1578年に日向北部で独立を保っていた土持氏が島津側に荷担。
そのため大友家は土持氏を敵と認識して攻め滅ぼし、切腹させた話までが書かれている。
最後の余談も大友の軍配者 角隈石宗による運気の見方の説明や、三国時代の孔明が沙汰した8つの陣形に言及する戦以外の話が一切ない軍記物らしい話となっている。
こうして次巻はついに大友家崩壊の話、日向高城合戦を書かざるを得ない所までお膳立てされているのだ。
何らかの編集者の追い込みがあったのだと考えない方が不自然である。
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「やれやれ、酷い目にあったわい」
執筆が一段落して、杉谷は凝った肩を揉んだ。
「『軍記のくせに戦の話がない』と御客様から苦情を受ける私の苦労に比べたら楽なものでございますよ」
そう留吉は切り捨てた。そして
「それはそうとお久しゅうございます」
と再会の挨拶をした。半日ほど詰め寄って原稿を催促しておいて久しぶりもなにもないと思ったが
「しかし、杉谷様はまるで別人のようになられましたな」
と留吉は言った。
「そうかね?」
「ええ、前は何かに追われているかのような焦りとか危機感が見えておりました。それが今は見られません」
少し険しさが残った面からは柔和さと悟りのような物が見えた。
「折角じゃ、景色のよい場所で酒でも飲もう」
「景色のよい場所でございますか?」
「ああ、すぐそこに寄木の岩という景色の良い岩があってな。途中にはワシの家もあるから、そこで酒を拾って宴をしよう」
ついでに近況も報告しよう。との提案だった。
留吉は知らなかった。
田舎住みの人間の『すぐそこ』とは山一つ向こうまでの距離が含まれる事を
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騙された。
浅いながらもとめどなく流れる番匠川を眺めながら留吉はそう思った。
にぎやかな佐伯の城下を右に見ながら、川をさかのぼって行くと阿蘇凝結岩が雨水で削られて出来た奇岩奇景が広がっていた。
「ここの岩の形は、耶馬渓や日田天ケ瀬の景色にも匹敵するのじゃ」
と杉谷が言うがそれがどれほどのものか留吉はしらない。
「杉谷様は日田に行かれたのですか?」
「おおよ。この佐伯の殿さまである毛利殿は元々太閤様より日田の領主を命じられ、関が原の後に転封となったのじゃ」
そのため、御当地の家老だった財津・坂本氏など日田在住の豪族も一緒に転任してきたのだという。
「そうした方への手紙や荷物などを届ける際に、御供としてついて言った事があるのじゃ」
と杉谷は説明する。
日田には八郡老という領主が大友家の庇護の下、自治を守っていたのだが秀吉の代になって毛利高政が領主となり、彼らを家臣として登用した。
財津・羽野・坂本・石松・堤・高瀬・佐藤・世戸口の八氏である。
なお、俳優の財津一郎氏と歌手の財津和夫氏は彼の一族に当たるらしい。
「ワシは坂本様と知り合いになってな」
佐伯には坂本道烈という武将の親戚が家老として移住してきたのだという。
彼の祖先である日田氏は相撲の神と言われた『日田どん』で、彼を祀っている日田神社に参拝もした。
「それで興廃記の9巻で『日田永勝、小冠者と相撲をとる』と唐突に相撲の話が入っているのですな」
と冷たい目で留吉が見る。
余談だが、この毛利氏に仕えた坂本氏が明治時代に屋敷の一部を下宿にしたところ、一年だけ教師が転がり込んできた。
廃城となった佐伯城を愛し『豊後の国佐伯』という文の一節で
『佐伯の春、先づ城山に来り、夏先づ城山に来り、秋又早く城山に来り、冬はうそ寒き風の音を先づ城山の林にきく也。城山寂たる時、佐伯寂たり。城山鳴る時、佐伯鳴る。佐伯は城山のものなればなり』と記した。
彼は筆名を国木田独歩と言い、後に記者を経て出版と執筆を行い日本の文学史に名を残すことになり、その下宿先は独歩記念館として今も残る。
「他にもな、佐伯には竹田 岡藩の人間も多くてのう。豊後南部の話を聞くにはもってこいの土地なのじゃ」
と杉谷は笑いながら、今まで出会った人間の話をする。
「それであのような聞き書きのような話になったのですか」
と冷ややかな声で留吉が言うと
「まあ、ワシはもう話が書けなくなったからのう」
と杉谷は言った。
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