第12話 豊後より何かをこめて
死亡率の高かったこの時代。死は常に身近であった。
だが近しい人の死というのはそれでも数が限られ、寂しいものである。
藤堂家の分限帳を見ると杉谷宗重は最終的に津藩を離れたという。
それからどこへ居を構えたのかは分からないが、大友興廃記に書かれた内容から佐伯、竹田、阿蘇と深いつながりがあった事は容易に推測できる。
ちょうど9巻より話の傾向と密度が変化するためだ。
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「杉谷様は今頃、何をなさっておられるでしょうか?」
そう留吉は一人ごちた。
豊後に移住した杉谷からは一年以上音信がなかった。
寛永と呼ばれた元号も、帝が御幼少ということで、女性の#明正天皇__めいしょうてんのう__#が至高の位に付いていたが、弟君の元服と共に譲位され、正保と改められた。
大飢饉の爪跡も薄れてきて町には活気がよみがえって来たが豊後からは作品も手紙も届かない。
「まあ、話としては切りの良い所で終わってはいるのですが…」
と自分を納得させるように9巻以降の大友家の運命に思いをはせる。
大友家は毛利を撃退した後、1570年に肥前の龍造寺隆信を降伏させてから1578年に日向合戦で島津に敗北すると衰退を遂げる。
まず筑後の秋月と龍造寺が離反。
大友家は3方に敵を抱えるが敗戦によって豊後国内がまとまらず討伐の兵を出せなかった。
そのため当初は従っていた筑前・豊前・筑後・肥後の領主も島津と龍造寺に征服されたり両者の下を行きかうようになった。
そして1587年に豊臣秀吉が九州討伐の援軍を出すまでひどい内乱状態が続くのである。
「まあ、そこらは友松某の書いた『九州治乱記』という本で書かれてますから、ご存じの方はご存じなのですよね」
1540年には完成していた筑後柳川の人間が書いた軍記を読み返す。
内容は筑後の立花家中心で大友興廃記とは毛色が違うが、主な合戦はあちらを読めば良い。
「……佐伯様も猪兵衛様も亡くなられた今、付き合いでの貸し出しも見込めそうにありませんからね」
留吉は諦めにも似た境地で言った。
この世界にはたくさんの通俗本と呼ばれる、その時代限りに読まれる本がある。
ずっと読み次がれる平家物語や太平記とは逆に、時代が変われば飽きられて捨てられる本だ。
それだって、その時代を生きた者の暇つぶしや疲れた心を癒すのに必要な本である。
名作だけを是とし、裾野を否定しては業界自体が衰退していく。
そのような思いで留吉は本を置いていた。
おそらく大友興廃記もそのような本として埋もれていくのだろう。
そう思わざるを得なかった。しかし
「やあ、留吉殿!御無沙汰しておりました!」
元気に豊後商人の甚吉が入って来た。
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「今、杉谷様は佐伯の#因尾__いんび__#という土地で作物を育てているそうですよ」
佐伯の内陸なので甚吉も足を運んだ事は無いそうだが、元気でやっているのだという。
「その証拠に、こちらを預かっております」
そう言われて渡されたのは『大神氏事始』『剣の巻』と書かれた2冊の本だった。
「これは…」
1冊目は最初に1巻で削除させた大神氏の細かい内容の部分を書いた本である。妊婦の腹の中で赤子がどのように体を形成したのか、とか毛穴が何万本生まれたとか、気持ちの悪い部分まで書いていたので掲載を止めさせた部分でもある。
それに少し内容を付けくわえて、一冊の本にしたもの。
2冊目の『剣の巻』は佐伯氏に伝わる名刀の話である。
『奇特は凡庸には計りがたい。予(杉谷)が眼前で見聞きしたことを記す。』
と前置きして書かれた本は、佐伯氏が所有していた4本の名刀とその由緒について書かれていた。
まず佐伯氏の祖先 緒方惟基が鉄の入った竹を両断した『手鉾刀』。
源義経が緒方三郎惟栄と菊池征伐に九州へ向かい、誅伐後の祝儀で拝領した『小屏風長刀』に『神息太刀』。
藤堂高次が「この太刀を一覧したい」と言われ寛永3(1626)年10月10日に、(佐伯)惟重が太刀を城中へ持っていって抜き、高次に渡そうとすると突然座が鳴動し床板が崩れ落ちた『巴作太刀』。
これらの重宝を真面目に書いていた。
「剣の巻とはあるもののそれ以外にもかいておられますな」
そして剣とは無関係な事項である『旗の奇瑞』では
『元和4(1618)年6月7日緒方惟栄以来相伝する旗が雷の様に鳴動した。家臣たちが怪しんでいたところ、その3日後に惟定が亡くなった』
と、かつての主 惟定の最期を書いている。
また『鱗』という項目では
『祖母岳大神宮の子孫の家は、代々(体に)鱗があった。前の佐伯惟定の嫡男、惟重は、元和5年(1619)11月20日に脇の下に1つ出た。予(杉谷宗重)が確認した。前代の惟定には三つ出たと聞く。』
とも記した。
これは平家物語「緒環」の章に『佐伯氏始祖大神惟基は生まれつき皮膚が荒く、まるで「あかぎれ」ができてるようだったので、あかがれ大太と渾名された』とあり、5世の孫、緒方惟栄には数枚の鱗があったと伝えられている。
この伝承を補強し惟重の名を残すために書いたのだろう。
本当の話かはわからない。
だが、佐伯と言う二度と蘇らぬ一族について『自分は本当に見たのだ』と『神変の血を引く佐伯氏は常人と違って体に鱗が浮き上がった。ゆえに豊後大神の佐伯氏は惟重までで終わったのだ』と、そんな宗重の思いが伝わるような筆致で書かれていた。
――おそらく、この記述はそれほど読まれる事はあるまい。
そう思いながらも、杉谷は唯一の理解者であった惟重と、その父親の事を書かずには居られなかったのだろう。
最期の『巴作太刀』を説明をした後に
『こんな由来のある佐伯家であるが、寛永の末に祖母嶽大明神から26代にして家が絶え、名字だけ続いている。
それを悲しみ、これを記録する。』
とかつての当主の死を、佐伯氏血族の滅亡を記述している。
『佐伯氏はこれだけの由緒があったのだ。これだけ不思議で高貴な血筋だったのだ。何故滅んだ。何故誰もその素晴らしさを知らない』
そんな慟哭にも似ていた。
二年前に亡くなった人物の逸話も、死んでしまえば真偽のほどは分からない。
留吉だって佐伯惟重には数度お会いしたが、あの美男子に鱗の跡があったのかなど知る由もない。
さらにいえば杉谷がそれを見たというのも疑わしい。
しかし、それを証明するすべはない。
ならば、佐伯とは神の一族であったのだと書いてしまえばそれは正しい記録となるのかもしれない。
「………………………………………本当に、姑息ですなぁ」
数年前に漏らした言葉を留吉は笑いながら再び口にした。
余談だが、佐伯氏秘蔵の太刀は廃藩置県の後、津の神社に奉納されたらしい。
ところが戦後のどさくさで所在が分からなくなった。
金属供出で溶かされたのか、不届きモノが持ち去り外国に売ったのか?
どちらにせよ杉谷が剣の巻で書きとめなければ佐伯の重宝は誰も知らないままこの世から消え去っていたのは間違いないだろう。お手柄である。
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それから一年ごとに続巻が届くようになった。
物書きとは自尊心と自己愛の強い人間が多い。
『世の中とはこうあるべきだ』
『自分は他人とは違う何者かに成るべきものなのだ』
『自分が感じた物事を世に広めたい』という衝動と錯覚から文字で何かを伝える自己実現者である。
でないと、文章なんて面倒なものを書くなどできようはずもない。
だが、豊後に渡ってからの杉谷は変わったようだった。
新刊からは『売れたい』という気負いがなくなり、数年もすれば消えてしまいそうな人間の逸話や、名所案内の様な話が増えた。
9巻では、毛利元就を九州から撃退した後、最後まで抵抗を続けた龍造寺隆信を討伐した後は、戦の話は一切出ない。
では何を書いたかと言うと、#伝聞した話を書き連ねた__・__#。
箇条書きにして要約しよう。
・筑前原田の侍、林慶と筑紫上野守の侍、小川伊豆守という武勇の誉が高い者同士が豊後へ使者に行った際に意気投合し、夜明まで雑談して翌日国に帰る道すがら「伊豆守は兵法の達者と聞く。こんな機会はないだろうし、ちと太刀を合わせたい」と言い力比べをしようと持ちかけると伊豆は
「昔から歌道兵法という。試合に負けた者は一首ずつ読もう」
と言い50度試合い、引き分けた。
・原大隅守という7・80人が動かせない新造船を、片手で27間(50m)押して海に入れ「鬼か神か」と言われた力持ちが、上方から勧進相撲に来た雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが一番勝負を所望し、少し脅かそうと鹿の角をつまんで砕くけば、原は大竹を一節ずつつまんで潰し、両端をくっつけて土俵とした。辻風たちは「諸国を修行したがこのような力は見たことがない」と驚いて負けを認めた。
・日田には平安時代に相撲の神と言われた日田鬼大夫永勝(永季)がいた。
合戦の話は1割。残りの9割はこんな調子である。
10巻では
・(豊後の家老)臼杵鑑速が死亡した時、時期もわきまえずに寺に来て「山椒を少し給われ」と言った『無邊』という旅人を、寺の者が少しいじめようと大茶碗いっぱいに山椒を入れて出すと、一粒も残さずに食し、三尺余りの刀を取り出し肩に載せて2・3回歌って座中を廻ると煙りのように消え失せた。
・武勇に秀でた豊後の内野主殿介という男が、兵法修行に豊後まで来た「天下無双鉄砕」と太刀袋に打った男と戦って勝利した。
・愚か者と評判だった藍澤兵部丞が鶴をとんちでカラスの値段で買った。
・岩屋重氏という者が自分を助けてくれた猿を撃ち殺したため、宗麟の不興をかって「重氏は物の情を知らない無道の者だ。猿のことは天地父母四恩の外の恩だ。これを害する不心得者を誅伐する」と処罰された
など、#およそ軍記物とは思えない豊後のよもやま話__・__#を掲載した。
「これでは『大友興廃記』というより『豊後の聞書(ききがき)』ではないか」
初めは新刊を喜んだ留吉も2冊目で頭を抱えるようになった。
後半には申し訳程度に九州の北半分を平定した大友宗麟が、甥で四国の領主であった一条兼定を援護するために四国の西園寺氏を退治する話を書いている。
そこで大分東部の水軍である佐伯紀伊介惟教、鶴原掃部入道宗叱と船奉行深柄(深栖か?)大蔵、若林越後入道道閑の4人へ宗麟が与えた書状も掲載し、新たな領地拡大を期待させる展開となっている。
だが、その後すぐに豊後の大商人 中屋宗悦や朽網の七不思議(怪談では無く奇景)を紹介し戦の話から逸れている。
これはこれで旅行好きの者は楽しく読むだろうが、武将同士の争いや九州の戦乱について知りたい者には不満が出た。
「内容の半分が武士や戦とは無関係。これでは詐欺ではないか」
「はやく日向崩れ(1578年の高城合戦の事)を書くように言っておけ」
と、読者から言われるようになった。
留吉も同じような不満があるのに、客から一方的に怒られるのは理不尽だと思った。
だが内心とは裏腹に「次こそは進みますから。今少し辛抱を」となだめるので精いっぱいだった。
商売人は大変なのである。
そんな願望とは裏腹に、翌年に出された11巻では土佐の大名 長宗我部元親の圧迫で一条兼定は豊後に一度逃亡し、(伊予の)城主、法華津播磨守則延の援助で密かに伊予の御生に渡り抵抗するも長宗我部元親が兼定の側近、入江左近に暗殺を命じ、その際の傷が元で死亡する顛末だけを紹介している。
その後は同時期に豊後に来た能や猿楽の演者に狩野英徳の滞在記、宗麟が狩りをした時の記録である。
狩りに付いては
●17日、彦岳の麓、柴山の狩で鹿203頭捕らえた。
●18日、釜戸崎の狩、小田の渡りで鹿垣を立て480頭【内30は足軽の生捕】捕らえ、津井の浦に仮屋を立て食事をした。
という当時の記録が細かく書かれている。
なお、この時期に狩りに出たと言うのは当時の宣教師の記録と一致している。
後世の大友家研究者にとってはありがたい記録なのだが、留吉たちの怒りは頂点に達した。
「佐伯とか云う田舎で猪が何匹捕れたとか、知るかぁ!!!!!」
いくら杉谷が一番読んでもらいたかった佐伯様が亡くなられたと言っても、これはあんまりだ。
他の読者は続きを待っているのだ。
その読者を捨てていくのは仁義にも取るではないか。
「甚吉様。杉谷様の住処をお教えください」
ある日、留吉は断固たる決意の元、甚吉に尋ねた。
「どうされるのですか?」
と、問うてきた甚吉に留吉は
「直接会って戦の話を書かせます。あの方の性根を叩きなおしたいのです」
地獄の閻魔の様な形相で留吉は言った。
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