第11話 1644年 佐伯氏の終焉
寛永21(1644)年2月9日
佐伯家当主 佐伯惟重は卒した。
理由は不明。
分家である東宇和島の緒方氏系図では、惟重は峰山大雄の法名を授けられ、伊勢国の四天王寺に葬られたという。
また彼の長男 惟寿が7日前の2月2日に亡くなっている。それ以上の記録はない。
後年、杉谷は佐伯惟重については大友興廃記で取り上げて記録を少し残しているが、惟寿については一切書いていない。
あまりよろしくない事情があったのか、まだ代替わりをしていなかったので書かなかったのか。
何か含むところがあったのかもしれない。
ひとつだけはっきりしている事は、800年以上続いた佐伯家直系の血族は、この日を以て断絶したという事である。
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「佐伯様の御家は藤堂様の御親戚が継がれましたか」
佐伯家は名門だったので家名を惜しんだ藤堂高次によって、惟重の妹と藤堂家との間に生まれた子供が養子に送られ名を継いだ。
血はつながってないが、藤堂家が続く限り佐伯の家は絶えることはないだろう。
平安の世から伝わる家宝は佐伯家が相続し、系図も何事もなかったかのように一本横に継ぎ足され、続いていく。
喜ばしい事である。
だが、あの人離れした神の容貌の佐伯家は二度と戻ってこない事を意味する。
――あれは藤堂家の佐伯様じゃ
断絶した大友家や大内家の事を考えれば、名が残っただけでも喜ばしいことなのだが、杉谷は素直に喜べなかった。
血よりも名を重視する武士としては喜ばしい事なのに、である。
――名を残すというのは一体何のためにしなければならないのだ?
葬儀の間、杉谷は考えていた。
緒方惟栄様のように有名を残し、見知らぬ者も参拝に来る、神となって現世に残ることこそが武士の求める終着点なのか?
だとすれば生きている内に富貴を極めることよりも、配流され死んだ後に神とされた天神様のような生き方でも良いのだろうか?
答えのない問いに杉谷は虚空を見つめ
「ワシ等は、一体何のために生きなければならぬのでしょうか?」
と言った。
その問いに答える者は誰もいなかった。
この後、大神系佐伯氏は藤堂家の歴史から姿を消す。
佐伯家は存続するが、それは佐伯家と言うより藤堂家の血縁となるであろう。
この交代劇の内面も記録がないのでわからないが、今まで仏教説話や儒教の教えを所々に挟んでいた杉谷が、これ以降「戸を一枚挟んだ先も見えないのに、あの世の事がわかるはずがない。仏教の言うことはどれも正しくない(10巻・三鼎の話)」とか「~であるべきなのに現実ではそうではない。正義がおぼつかない」など、仏教の説く教えと現実とのズレについて言及が増えている事を考えるとあまり愉快な話ではない事が推測される。
この世は苦しみに満ちている。そんな苦諦が説く四苦八苦の一つ、哀別離苦(愛するものと分かれる苦しみ)は知っていたし、その対処法としてこの世は無常であることを常に念頭に置いていた。
死者が蘇った事例はないという説話も知識としてはあった。
しかし、知っているのと実際に体験してみるのは別である。
冷静に受け入れ、納得しても迫りくる悲しみと喪失感。
それこそが人が逃れ得ぬ苦なのだ。
朝起床しようとしても体が動かない。
日中頭にもやがかかったように思考がおぼろげとなる。
生きている死人。
杉谷の心には深い傷跡が残された。
それでも大友興廃記という指針があるから何とか毎日のお勤めは継続できた。
しかし、その支えさえもへし折る事態が起こった。
宗重が仕えている杉谷猪兵衛もこのころ死没したのである。
さらに、藤堂家が全ての家臣に奉禄の1割を借り上げるというお達しが来た。
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「何故に石高の一割も返さねばならぬのだ!」
猪兵衛の叔父が声を荒げる。
借りると言ってはいるが、返済は無いだろう。領地召し上げである。
それに対し、別の親族が言うには
「参勤交代のしわよせじゃろう。そうでなくともご主君は神君への忠義の心厚く、江戸城の普請や寺社の造営をされておる。外面が良いのも考え物じゃな」
一年間、江戸に滞在して何もせず財産を使いつぶす参勤交代は大名家の財政をひっ迫させた。
これは幕府に逆らう力を奪うための支出を強要する制度だったのだが、今までは譜代大名には適用されなかった。
また仕える期間は短かったものの「死んだら宗門は別故、別の極楽へいくだろう」と家康から言われたら、その日のうちに宗旨を変える程に徳川家に忠実だった藤堂高虎は参勤交代を免除されていた。
それが1635年から全ての大名に義務づけられた。
その経済的負担の限界がこの頃になって顕在したという訳だ。
「収入は変わらぬのに出費は増える。お隣の紀州様の領地など傘張りの内職をされている方や、土地を医者などに貸しておられるかたもいるそうだ」
「世も末ですねぇ」
そんな事を話しつつ
「考えなしに銭を費やして苦しむのは我らのような家臣だとおわかりにならないとは、何とも情けないことです」
と、腰巾着が追従する。
だが、上意下達の江戸時代に当主の悪口など許される訳がない。
結局はただの愚痴、遠吠えである。
減った分の収入を如何に工面すべきかが話し合われた。
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杉谷猪兵衛家の禄は200石。
これは令和の金銭価値に直せば約6000万円の収入にあたるが、これで自分に仕える部下を養わなければならなかった。
召し上げ分は20石。約600万円。二人分の収入に当たる。
普通なら家臣たちの扶持を1割削れば良いのだろうが見栄と体面を重視する武士は貧乏でも出費は中々減らせない。
『自分たちの生活を維持するためには2人の人員を削ればよい』という考えに至るのが人間の醜さだ。
たちまち『必要でない者』の選定が始まった。
そのうち一人は普段から「こんな仕事辞めたい」とか「いつでも辞めていいのだぞ。自分は他にも仕官先はあるのだから」と放言していた男に白羽の矢がたった。
辞めたい仕事なら辞めればよい。
本人の希望どうり職を解けば負担が減ると思ったのも、この判断の遠因だ。
しかし、このような人間は実際に解雇される段になると絶対に辞めようとしない。
見苦しく怒ったりわめいたり、奉行所に訴えるなどと言い出した。
現代社会でも『希望通りに辞めてくれ』という人間ほどしつこく残ろうとすると言われるが、時代が違ってもそれは同じらしい。
ただ、労働法の無い時代。このような口だけ男はきっちり放逐された。
あとは残る一人だが、これが中々決まらない。
下手に何かを言えば、それをきっかけに話が動く。
そのとばっちりがどこに飛ぶか全く予測ができないせいだ。
自分の嫌いな者が追放されるなら良いが親族や恩人が犠牲となった場合、その者の代わりに追放される事を申し出ないと体面に関わる。
時間が過ぎるだけで誰も声を出さない無言の会議が始まった。
やがてしびれを切らした親類たちは小さな粗から足を引っ張ろうとし始める
「お主は普段から働きが悪い。杉谷の家士として残るには相応しくない」
と誰かが言えば
「自分は先日も十分な功績を挙げた。それなら表だって働いていない者や老人こそ切り捨てるべきではないか」
「いやいや、若者には再士官という道がある。だが、年長者は家の顔であり、父を敬わぬのは儒教の教えに反する。追放しては体面が悪い」
「そもそも、この家でまともに働いているのは自分だけで、他の者はいてもいなくても同じようなものではないか」
と、肉親同士で罵り合いがはじまった。
『これが武士か……』
宗重は親類たちの言い争いに落胆していた。
死んだ猪兵衛は粗野で単純な男だった。
武を尊重し、文をさげすみ、見栄っ張りで上の言う事により価値観がころころ変わる。
宗重も佐伯様や田村様に認められるまで、色々と悪口を言われたものである。
だが味方を捨てる事は無かった。
杉谷と言う家を纏め、親類と言う群れの統率を誰よりも重視し、家の名誉を誰よりも喜んだ。
田村から宗重が褒められて喜んだのも『杉谷家』という群れ全体の名誉だと思ったからであり、興廃記で名が残る事に価値を見出したのもそれが原因だ。
『自分の生活の為に親類の誰かを切り捨てましょう』などといえば拳骨が飛んだだろう。
「もしも猪兵衛様がおられたら、このような場を許さなかったじゃろうな」
いなくなって初めて宗重はその心意気の貴重さに気がついた。
そんな彼が守ろうとした杉谷という家は憎しみをこめて互いを罵り合っている。
「第一、貴様の祖父は日向で戦死もせずに生き残った臆病者ではないか!ワシの祖父は立派に死んだのに恥ずかしいと思わぬのか!」
「勝手に功を焦って無駄死にした愚か者にどれほどの価値があるというのか!それを言うならワシの父は皆の代わりに高麗で討死し、遺骸さえも戻っては来ておらぬのだぞ!」
ついには祖先の功績を持ちだして言い争いをする始末。
――こんなものか
宗重は冷めた目で仲間だと思っていたもの達を見下す。
――こんなもののために、佐伯様や猪兵衛様はワシを応援してくれておったのか
今までの楽しかった日々が汚されていくようだった。
「もういい!」
殴り合いの喧嘩にまで発展した場で、杉谷は一喝した。
「このような一族の名を後世にまで残そうとしたワシが愚かじゃった!ワシはもう士分を辞める。そこらの道中で野たれ死ぬわい!」
その言葉に、切り捨てられずに済んだという安堵が一堂に浮かんで武士の体面というものを思い出し、どのようにすればよいか目まぐるしく頭を働かせるのが見て取れた。
宗重自身は年寄りで利用価値は無い。
だが軍記物という変な物を書いているため無下に扱えば、その悪名はずっとついてまわるかもしれない。
だが、自分達の収入確保のため引き留めるわけにはいかない。
そんな打算とプライドの均衡を保つため、宗重には2石の捨て扶持を与えられ、佐伯の親族の小作として隠棲する事となった。
これが親類じゅうが相談した、杉谷家の体面の価値だった。
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「佐伯様。乗りかかった船です。約束通り、最後まで書くことだけを、この老いぼれの御奉公として捧げます」
四天王寺の一角に建てられた墓に一礼し、宗重は長年住んでいた津を発った。
彼は物語の完成だけが至上の目標となっていた。
話が書けるなら、あのような醜い心根の者たちと慣れ合って生きるより山中の隠者と成る事を選んだのである。
豊後行きの船に乗り、寄せては返す波を見ていると今まで起こった全てが夢のように思える。
「結局、神の血を引く方と言っても死ぬ時は死ぬのだなぁ」
当たり前のことではあるが、ここまであっさりとお別れの時が来るとは思いもしなかった。
そもそも佐伯の祖先 姥岳大明神も、のどに針を刺されたために亡くなられたのだ。
人間と交わった者が死ぬのは当然であるし、伝説は所詮作り話にすぎないと冷めた目で見ていた杉谷だったが、それでも近しい方の死は魂が抜かれたかのような悲しさがあった。
執筆にも身が入らず、世界の全てから色が消えた。
「杉谷殿は佐伯様に御仕えしていたようだ」
という陰口を言う者もいたが、そうだったのかもしれない。
誰が勤めても代わり映えのしない庶務に比べて、佐伯様が認めてくれた大友興廃記は己一人にしか遂行できない大事業だったのだ。その事業を一番理解し、喜んでくれた存在がいなくなったのである。
それは生きる意味の喪失に他ならなかった。
「そういえば、田村様は最後までワシを責めなかったな」
と、あの元気の良い老人を思い出した。
目が霞み、朝起きると頭痛が止まらず、手足のしびれを感じるようにもなった。
体は確実に衰え、思考する力も低下したように感じた朝。
――もはや自分はこの世から必要とされていない。
仕事という重荷から解放され、人生の目的を失った杉谷にとって、書くこと以外できることはなかった。
だが人間、心が弱くなると物語の世界に逃避しようとする人間と、何も考えられなくなる人間がいる。
杉谷は後者だった。
今まで断片的な情報を繋ぎ合わせて創作した合戦描写が全く思いつかなくなった。
わからない部分は適当に物語を作り、少しでも読者に受けがよい話を書こうと思いついた創作心がぴくりとも働かない。
田村が杉谷の家を訪れたのはそんな折だった。
「そんなわけで、私はこれ以上話を書くことはできませぬ」
と絞るような声で言った。
軟弱者と叱られるのは覚悟の上だ。それでも書けないものは書けない。
そう言おうと顔を上げる。すると
「……人間は、いや男は年を取るとだいたいそうなるものじゃ」
そこには怒りも失望もなく、ただ己の若いころを懐かしむような顔があった。
今までできていた事ができなくなる。
肉体の異常な衰えを感じて、己は死ぬのではないかと不安になる。
それらの体の不調が近しい人の死という衝撃で強く感じられるようになるのだと言う。
「今は大変かもしれぬが、悲しみは時が癒すじゃろう。無理をせず今は休め」
と言われた。
無理矢理にでも書けと言われるつもりだった杉谷にとってその反応は意外だったが田村は
「骨が折れた者を戦わせるのは愚か者だ。今のそなたは心の骨が折れておる」
と言って労わりの目を向けてきた。
「ワシは大友の義統様に最後まで仕えるつもりでいた」
田村の主君にして大友宗麟の息子、大友義統は1600年に石垣原で西軍に味方し黒田如水に敗れた。
まだ若かった田村は守備を任され、別府立石城で自軍の敗北を知った。
「あの後、義統様は罪人として常陸に幽閉される事が決まった。そして5人だけ随行する事を許された」
いくら位が高くてもまだ20代で若い田村は、その人員からもれた。
その後は反乱防止のために手紙を送ることも許されず、幽閉場所に立ち寄る事も禁止された。
「結局、義統様が身罷かられたと聞いたのは5年後の事じゃった」
従うべき方に従われず、死ぬべき時に死ねなかったまま40年近い歳月を生きた田村は昨日のことのようにその悔しさを語る。
「親しい方の死を悲しむ気持ちはよく分かる。ゆえに無理はせず今は休め」
というのも自分の経験から来た言葉なのだろう。しかし
「ただ、興廃記だけはいつか完成させてくれ。わしはその終わりを見届けるのは難しいじゃろうが、惟重や惟定殿の名を後世に残せるのはそなただけじゃ」
そういうと、手を握って
「ワシのような文才のない人間では大友様の盛衰を語り継ぐ事は出来んかった。だが、お主が…宗重殿が書いてくれたおかげで大友様の偉業は語り継がれ、田村と言う家もその末席に名を残す事が出来た。その事に礼を言わせてくれ」
そう言うと田村は深々と頭を下げて、家をでた。
見送りをしないといけない。
その義務感だけで船着き場までは同行し、なんとか人間を演じる事ができたのは覚えている。
その後、杉谷は豊後に行く船の上にいた。
己が書いた文を褒めてくれたくれた人がいる。話の完結を待ち望む読者がいる。
その事だけをうすぼんやりと考えながら、二度目の船に揺られて杉谷は生まれ故郷の佐伯へと向かっていった。
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田村が京都で亡くなったと聞いたのはそれから1年後のことだった。
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