マイラとユニの渚鹿
ごもじもじ/呉文子
マイラとユニの渚鹿
遠い遠い南の海には、「渚鹿」が住んでいるといいます。美しい大きな角と青緑に輝くたてがみをしています。月夜の晩には島から島へと泳いで渡って、澄んだ声で鳴くのだそうです。
しかし、その美しい角とたてがみのため、毛皮や角を高く買う人が多く、猟師に狩られてしまっていました。そのため、渚鹿はどんどん減って、いずれいなくなってしまうのではないかと言われていました。
マイラという女の子が北の外れの街にいました。だから、マイラは渚鹿を見たことがありません。でも、マイラは絵本や図鑑で渚鹿のことをよく知っていました。そのうちに、渚鹿はどのぐらい大きいのか、どんな声で鳴くのか、そしてどのぐらい美しいのか、自分の目と耳で確かめてみたいと思うようになりました。
ある日マイラは南の海へ行ってみようと思い立ちました。マイラの街から南の海まで、貯めていたおこづかいを使い、マイラはバスに乗り、汽車に乗り、とおく、とおくまで行きました。そのさなかにも、面白いものーー知らない街。ふしぎな形の山々。のんびり草をはむ牛や馬。大きな生き物のようにふるえて、煙をはく工場などーーが、見えては後ろに過ぎていきました。珍しい、おいしいご飯を食べることもありました。旅の間ずっとマイラはわくわくし通しでした。
長い時間をかけて、マイラは夜の南の海へとたどり着きました。マイラは月明かりを頼りに、岩の多いごつごつとした海岸を歩いていきました。すると遠くに、大きな生き物が、岩の間で何かを食べています。渚鹿だ、とマイラは思いました。そして、そのもっと向こうで、誰かが渚鹿に向けて銃を構えていることに気づきました。
マイラは大声で「やめて!」と叫んで駆け寄りました。人影はびっくりしたのか銃を下ろしました。マイラの声が届いたのか、渚鹿は逃げていってしまいました。近づくと、銃を持っていたのは、マイラと同じぐらいの歳の女の子でした。女の子はひゅっとまゆを吊り上げ、「どうして、こんなひどいことするの」と、マイラに言いました。
「ひどいこと……?ひどいことをしているのはあなたじゃない!渚鹿がかわいそう!」
「かわいそう?あなたのせいで、私たちの家族は、今日と明日、もしかすると明後日もご飯が食べられないのに!」
マイラは言葉につまりました。女の子は重ねて言います。
「渚鹿の角も皮もお金になる。そのお金は学校に行くためのお金でもある。私は、弟も妹も学校に行かせてやりたいし、渚鹿の肉ではない、もっとおいしいものを食べさせてあげたいのに。あなたはどうして、私の邪魔をするの!」
マイラはもう本当に、何も言うことができません。その時です。
逃げていた渚鹿が、高い、笛の音のような声で鳴きました。一声、二声。
すると、海から大きな大きな渚鹿が、波をかき分けて、ざざーっと上がってきました。マイラの家よりずっと大きい。青緑のたてがみは月の光を受けて、びかびか輝いています。大きな角はまるで大きな木のよう。いつもは海の中にいるせいでしょうか、身体には、たくさんの鈍い色の貝、あざやかな珊瑚や水草がまつわりついていました。月明かりで照らされたその大きな姿に、マイラも女の子もあっけにとられてしまいました。
大きな渚鹿もまた、頭を上げて、鳴きました。さっきの渚鹿よりもずっと深く、重く、どこまでも響く声でした。声がしてしばらくしたかと思うと、海の中から、一匹、また一匹と、渚鹿が上がってきました。渚鹿たちは、互いの身体を嗅いだり、鼻面をこすりつけたり、お互いに、挨拶をしているように見えました。あっという間に、渚鹿は、岩礁いっぱいに集まってきました。女の子のまつ毛まで見えるくらい、満月の夜よりずっと明るく夜を照らしています。
集まった渚鹿には、いろいろなものがいました。子どもをつれたもの、片角の折れたもの、たてがみがぼろぼろのもの。しかし、時折鼻を鳴らす音が響くぐらいで、けんかや騒ぎも起こらず、とても静かでした。子どもを連れたものは、他の親の渚鹿と互いの体に顔をこすりつけ合うなどしていました。
「本で読んだのと全然違う。渚鹿は群れない、って書いてあったもの」マイラはうわずった声で言いました。
「私も初めて見た。あんな大きな渚鹿」女の子もマイラに言いました。
そして、女の子は、止めてくれてありがとう、とマイラに初めて笑いかけてくれました。
「私の名前はユニ」
マイラは、どうしてもユニに聞きたいことがありました。
「ユニは、狩りが好き?」
「そんなことない」と、ユニはぽつりぽつりと言いました。「昔は、私たちの村では、渚鹿は、大切な神様の鹿だった」「でも私たちの村は貧しい。お金がないと生きていけない。神様の鹿は、そのままでは私たちを助けてくれない」
大きな渚鹿が、また鳴きました。岩礁にいた渚鹿たちは、耳を立てて、それを聞いていました。今度は、短く、鋭く、叫び声のように、何度も。やがて、一匹、また一匹と、渚鹿は群れを離れて、月に照らされた海に潜っていきました。
「みんながここにくるようになったら」マイラは続けた。「みんなで一緒に見られたら、何か変わるかもしれない。ここにくるまでの旅だって素敵だった。たくさんの人が、ここまで旅をして、本物の渚鹿を見にくるようになればいいかもしれない。村にお店を立てたり、お客さんに渚鹿のことを教えてあげたり。そんな場所になったら、ユニはもう、渚鹿を撃たなくても済むかもしれない」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」ユニはさみしそうに微笑みました。「そんなに何もかもが上手くいくかどうか、誰にもわからない」
「私も、いつかあなたの街に行ってみたい」ユニは遠く、水平線の向こうを見つめて言いました。
「行って、お話ししたい。渚鹿と私たちの話を」
「他の獲物を探さないと。弟も妹も、お腹を空かせて待っているから」
ユニはマイラに自分の手を重ねて、またね、と言い、マイラに背を向けて、歩いていきました。
マイラもまた、渚鹿の消えた海を眺めました。私にもなにかできることが、とマイラは思いました。渚鹿のことや、ユニのことを、誰かに伝えたい。そのために何ができるだろうか。マイラは岩礁を一歩一歩、踏みしめながら、帰りの道を探して歩きはじめました。
マイラとユニの渚鹿 ごもじもじ/呉文子 @meganeura
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