【裏】緊張の金曜日


 金曜。

 定時退勤。

 今日は全然仕事が手に着かなかった。


 鞄の中のアレにずっと気を取られていたからだ。


 先輩の飲みの誘いを断って、まっすぐ彼女の――緑野さんのアパートに向かう。19時ちょい過ぎに到着。チャイムを鳴らしても返事は無かった。まだ帰ってないみたいだ。預かっている合い鍵で部屋に入らせてもらう。


 大学の時より広い部屋になったし物も増えた、勝手知ったる彼女の部屋。


 最近のデートは家でのんびりまったりすることが多い。僕は全然楽しいんだけど、緑野さん的にはどうなんだろう。もっとどこかに出かけたりとか、そういうデートを提案すべきなんだろうか。


「それにしても……」


 帰ってこないなあ。仕事が忙しい、みたいなことは聞いているから、仕方ないとは思うし、身体には十分気を付けて欲しいとも思う。自分の都合を付け加えるなら、今日はなるべく早く帰ってきてほしい。このまま緊張しっぱなしでいたら死んでしまうかもしれないから――




 結局、緑野さんが帰宅したのは日付が変わる寸前だった。


「緑野さん、おかえり」


 出迎えた時に笑顔が引きつってしまった。


「赤井くん、ご飯食べた?」

「いや、食べてないけど」


 ちょっと食べようかと思ったけど、緊張しすぎて何も喉を通らなかった。


「えっと、ごめんなさい。遅くなっちゃって。今、カップめんしかないけど」

「なにがあるの?」

「赤いきつね。――いいかな?」

「勿論いいよ」


 緑野さんがお湯の準備をして「もうちょっと待ってね」と言ってくる。ご飯の前に言おう、と僕はカラカラになった喉を震わせて、


「うん。あの、さ。緑野さん、話があるんだけど」


 と切り出した。







 お湯を注いだ二つの赤いきつねが置かれたテーブル。

 テーブルを挟んで向かい合って座る。

 出来上がるまでの五分という時間は短いようで長い。


「……」

「……」


 黙ってても仕方ない。

 僕から口を開かないと何も始まらないんだから。

 唾を飲み込む音がびっくりするくらい大きく聞こえた気がした。口を開こうとしたら唇が渇き過ぎてくっついていた。


「話っていうのは」


 それでも辛うじて、声は出た。


「これなんだけど」


 鞄からアレを取り出して、赤井さんに差し出した。


「指輪?」

「あ、はい。うん。指輪です」

「えーっと……」


 えーっと、ってなんだ? と思ったけど、ここで言葉を途切れさせるともう無理だろう。きっと。だから言う。


「僕と、結婚してください!」


 言った。


「これってつまり……」

「プ、プロポーズです」


 緑野さんは何故か安堵の表情。


「そっか。プロポーズかぁ。……別れ話じゃなかったんだね」

「えっ、別れ話? なんで?」


 どこで別れ話って思ったんだろう……?


「あ、うん。なんでもない。ごめん。ありがとね」

「えっとそれで、その、返事を貰いたいんだけど」

「嬉しい。ありがとう。宜しくお願いします」


 ―――!

 やった。よかった。何か言おうとしたけど声にならなかった。僕が喜んでいるのが伝わったみたいで、緑野さんは僕の顔を見てずっとニヤニヤしていた。


「食べよっか」

「うん」


 この日の赤いきつねの味はきっと一生忘れられないだろうな、と思った。

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赤井くんと緑野さん 江田・K @kouda-kei

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