赤井くんと緑野さん

江田・K

【表】金曜日の出来事


 ……終わったと思ったら終わってなかった。


 仕事でよくある話だと思う。

 でも難航していたプロジェクトにようやくメドがついたその矢先、トラブル発生するのは本当に勘弁してもらいたい。本当にお願いします。


 トラブル対応をマッハで終わらせて、どうにかこうにか終電何本か前の電車に駆け込んで、ゆらゆら揺られること42分。降りた駅からさらに徒歩13分。


 日付が変わる前にはなんとか家に帰れそう。


 闇夜を照らす街灯の頼りない明かりがアパートの姿をぼんやりと浮き上がらせている。私の部屋はそう、あの角――ってアレ? 電気ついてる!?


 出る時消し忘れちゃったのかな?

 違うそうじゃない。

 私は気付いた。

 気付いてしまった。

 今日は金曜だということに。


「やっちゃったなぁ……」


 赤井くんが来る日だった。


 本日が金曜日だということを完全に失念しておりました誠に申し訳ございません今後はこのようなことのないよう改善に努めてまいります。


 なんて謝罪の言葉が脳内を駆け巡る。いや相手は取引先じゃない。彼氏だ。テンプレに沿った謝罪じゃ駄目だろう。落ち着け私。深呼吸しよ深呼吸。


 赤井くんとの付き合いは大学からでかれこれ十年になろうかというくらい。二年の時に彼の部屋で告白されてはじまった。付き合い始めの頃はあちこちデートに行ったものだけれど、就職してからは回数が激減して、週末のデートはもっぱら家デートになった。家デートって言っても一緒にサブスクで映画見てご飯作って食べて、とか。たまに夜は外食にいくくらい。


 最初の頃はあった緊張感もなく、まったりとした今の私たちの関係はぬるま湯のような心地よさで、気楽である一方、どこかマンネリ気味でもある。喧嘩もないけどドキドキもない。そんな感じ。


 そんな感じだったんだけど、今はちょっと、いやかなりドキドキしている。トラブル対応で仕方ないとはいえ、家に帰るのがめちゃくちゃに遅くなってしまった。それも連絡ひとつ入れずに。週末デートの日だというのに。


「怒ってるかなあ」


 自分の家の玄関ドアを開けるのを躊躇するなんてことがあるんだな、と思った。

 そろりとドアを開けて、小さい声で「た、ただいま」と言った。


「緑野さん、おかえり」


 狭い部屋の奥から赤井くんが顔を覗かせた。

 笑顔だ。

 よかった怒ってなさそう。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 あ、でもちょっと笑顔がぎこちないかも。


「赤井くん、ご飯食べた?」


 挨拶代わりに尋ねてみる。

 さすがにもう食べてるよね。

 こんな時間だもんね。


「いや、食べてないけど」


 うわ。待っててくれたの?

 マジかー……。ほんと申し訳ない。


「えっと、ごめんなさい。遅くなっちゃって。今、カップめんしかないけど」

「なにがあるの?」

「赤いきつね」


 確か二個あったはずだ。戸棚を探る。うん、あった。


「いいかな?」

「勿論いいよ」

「りょ。お湯沸かすね」


 電気ケトルに水を入れてオン。湯沸かしの間に服を着替えてくる。部屋着のスウェット。赤井くんはスーツ姿のままだった。ネクタイはさすがに外していたけれど。


「もうちょっと待ってね」

「うん。あの、さ」


 なんだろう。帰って来た時から赤井くんの様子がなんか変だ。難しい顔してる。気まずい沈黙。やっぱり怒ってるんだろうか。


「緑野さん、話があるんだけど」


 赤井くんが背筋を伸ばし、思いつめた顔で切り出してきた。


「え? なに?」


 私は軽く笑い返そうとして上手くできなかった。

 真剣な目。茶化せる雰囲気ではなかった。


 なんだろう?

 えっ? もしかして…………、別れ話……とか?


 ぞわ、と背筋を嫌なものが駆け抜けた。


 いやそんなばかなでも最近全然ちゃんとデートとかしてないしそれどころか今日なんか完全に忘れてたしそーゆー不満が積もり積もって赤井くんの背中を押したのかもしれないもしそうならどうしようもないっていうか責任の所在by私じゃない。


 ――その時だった。


「お湯、沸いたよ」


 電気ケトル、ナイスタイミング。一息つけるのホントありがたい。






 お湯を注いだ二つの赤いきつねが置かれたテーブル。

 私と赤井くんはそのテーブルを挟んで向かい合って座っていた。

 なんか昔もこんなことあったな、と現実逃避気味に考え……てる場合じゃない。えーと、どうしようどうしよう。どうしたらいいんだっけ。


「……」

「……」


 気まずい沈黙。

 一分、一秒が長くて重い。


 話がある、って言ったのは赤井くんだから赤井くんが口を開くのを待つべきだよね。うん。あのときもそうだったし。



 ――あのとき。

 思い出してたのは、昔の、大学の頃のこと。

 赤井くんの部屋で、あの時テーブルに乗ってたのは緑のたぬきだったっけ。

 こんな風にテーブルを挟んで。



「話っていうのは」


 と、赤井くんが重い沈黙を破った。


「これなんだけど」


 小さな箱を取り出して、蓋を開けて、私に差し出してきた。

 箱の中には、


「指輪?」


 私は思わず腰を浮かせて身を乗り出していた。


「あ、はい。うん。指輪です」

「えーっと……」

「僕と、結婚してください!」

「これってつまり……」

「プ、プロポーズです」


 プロポーズ、ね……。私は指輪を受け取ろうとして上手くできず、へなへなとその場にへたり込んだ。


「そっか。プロポーズかぁ」


 ほっとしたのとびっくりしたのがいっしょくたになって、なんて言ったらいいのかよくわからない気持ちになっていた。

 

「別れ話じゃなかったんだね」

「えっ、別れ話? なんで?」


 おお、めっちゃびっくりしている。なんだ、私の勘違いアンド早とちりだったか。


「あ、うん。なんでもない。ごめん。ありがとね」

「えっとそれで、その、返事を貰いたいんだけど」


 ああ。

 そうか。

 昔のことを思い出したのはそういうことか。

 私はようやく気が付いた。


 昔、赤井くんの部屋で、彼が告白してきたときもこんな感じだった。緑のたぬきが置かれたテーブルを挟んで、彼は長い沈黙の後で「付き合ってください!」と言ったのだ。びっくりする私に赤井くんは今と同じ調子で返事を求めたのだった。


 私はあの時と同じ返事をする。


「嬉しい。ありがとう。宜しくお願いします」


 私がそう言うと、赤井くんはあの時と変わらない笑い方で笑ってくれた。言葉にしてようやく嬉しいという気持ちを実感した。指輪と赤井くんを交互に眺め、口元がむにむにとニヤついてしまう。

 

「食べよっか」

「うん」


 ちょうど五分。

 長かったと感じた沈黙も、実際にはこれくらいの時間経過でしかなかったわけだ。

 ふと思い出すことがあって、私はくすり、と笑った。


「どうしたの?」

「赤井くんが告ってくれた時は、緑のたぬき、麺が伸びちゃってたよね。話を切り出すのに時間がかかり過ぎて」

「そういうのは忘れてよ……」

「思い出しちゃった。成長したね、赤井くん」

「緑野さんはそういうとこ、変わらないよね」

「えへへ、ありがとう」


 私たちの関係も変わらないでいられるといいなあ、と思った。

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