七
もう、秋であった。
千生は学校では見せないような沈んだ顔を、時々自宅では見せるようになっていた。そんな娘の表情を見て
「出来ない筈はないんだから、きっとやり方が悪いのよ」
菜摘はある時、千生をそう言って慰めた。
千生は俯いたまま、暗い顔を変えなかった。
「お姉ちゃんにやり方を訊ねてみたら?」
本来なら、今年卒業して就職し、家を出ている筈の
母親に似て、英語に興味を持っている緑里は、映像翻訳家を目指し、T北S社、グ〇ー〇ジ〇ン、〇C〇リ〇イトといった業界大手の採用試験を受けて、結果待ちだった。本人は戸田奈津子ではなく、
姉の緑里は、昔から順風満帆に人生を過ごしているように、千生は思っていた。常に目標を持ち、確実に叶えていく。何一つ、失敗したことがなさそうだと羨ましかった。そんな緑里に対し、千生はコンプレックスを抱いていた。それが行動の原動力にもなり、空回りの理由にもなっていた。
「うーん。そうね…」という千生に、これはきっと訊かないな、と菜摘は直感した。効率のよさよりも、自分が得心のゆく方法で成功することに千生はこだわっている。それが巧く行くこともあれば、行かないこともある。割と依怙地な性分であった。
「もう少し自分で頑張ってみる?」
としか、菜摘には言えなかった。
アイドルになることは千生の大きな夢だった。それを捨て去るからには、同等かそれ以上の新たな目標を、千生は必要とした。得られなければ我慢がならなかった。そのためには何より学力の向上が必須だったが、目下、それは叶っていない。本来、将来の夢を得るための高校生活であって、「それ以外」は不要な筈だった。「それ以外」とは、友人たちと遊ぶことや、部活や、アルバイトや、そして彼氏と付き合うことだった。
なるほど、では「不要なこと」を斬り捨てて、学力の向上に努めればよいのだろうか? 毎日放課後すぐから塾に通い、帰宅しても深夜まで予習復習に費やせば、学力は向上し、志望大学に合格できるだろうか?
千生にはそう思えなかった。
千生の判断が正しかったか、今となっては分らない。徹底してそれだけのことをしていれば、
このまま、成績が振るわない以外は楽しい日々に身を任せ、適当に受験勉強をして、偏差値にあったそれなりの大学に入るという選択肢もあった。いや、このままでは必然的にそうなってしまうだろう。
それでもいい、とは、千生には到底思えなかった。そんな人生のために、自分はアイドルという夢を諦めたのか?
実は千生は去る六月、中間考査が終ったことからくる解放感で、新結成されるアイドルグループのメンバーオーディションにネット応募し、書類審査で落選していた。勢いに任せた行動で、さして深い意味はなかった。
そして五ヶ月後、二学期の中間考査が終った今、新結成されたグループが早くも派生グループを作り、そのメンバー募集を始めたことを知った。千生は、このグルーブは自分の中間考査が終る度にオーディションを始めるのかと変な因縁を感じた。どうせ因縁ついでならと、またネット応募し、そして落選した。両回とも、応募する時も落選したときも、大した感慨はなかった。
年が明け、二か月経って学年最後の期末考査が始まった。例によって、試験期間中の早朝には、近くのファミレスにブレザー姿の一団が見られた。メンバーの中には赤点が
試験の最終日、千生は午後から啓介と半日過ごすことにした。二人は、高宮
二人は室内に入ってコートを脱ぎ、ハンガーにかけると腰を下ろした。
「テスト、どうだった?」
「訊かないで」軽い鼻息と共に千生は笑いながら即答した。
「どうするか、いよいよ覚悟を決めないといけないみたい。このままの生活を続けるのか、受験勉強に絞るのか。それとも…」
「それとも?」
突然深刻な話を聞かされて、啓介は面喰らってしまった。このままの生活って…
「歌いましょう? せっかくカラオケに来たんだから」千生はリモコンを操作して、リクエストした。やがて前奏が流れてきた。
「ママがよく歌ってたの。何度も何度も…。だから覚えちゃった」
出逢った頃は こんな日が
来るとは思わずにいた
Making good things better
いいえすんだこと 時を重ねただけ
疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの
「センセ、いきなりそれ歌う?」啓介はすこし引き気味に声をかけた。千生は意に介さずに、
「上手でしょ? 啓介も何か歌って」
千生は、相手が啓介のときだけは、何の遠慮もしなくて済んだ。したいように振る舞った。いつもは啓介もそのことを楽しんでいた。千生が自分に対してわがもの顔に振る舞うことが嬉しかった。
「参ったな…。ね、何を言いかけたの? あ、何か頼もうよ。喉乾いちゃった」
啓介はメニューを見ながら、内線電話を手に取った。今日はどうも雰囲気が重い。まさか別れ話でも切り出されたら、どうしようと恐れていた。
「本当に志望校に入りたいなら、生活を改めるしかないと思うの。…もちろん、本当に入りたいと思ってる。…そのために、区切りを付けたいと思う」千生は言いながらも、これはちょっと綺麗事に過ぎると思っていた。生活を改めて受験勉強に専念することから、あわよくば逃げたいという面もある。いや、面もある、ではなくて、逃げたいだけではないのか…
「どんな区切り?」
「最後にもう一つだけ、オーディションを受ける――」
前年に応募して玉砕したアイドルグループの姉妹グループが、三年ぶりのオーディションを開催すると発表していた。
オーディションを受ける心構えとして、喝采を受けるという願望は出来るだけ抑えて、他人にパワーを与えたいという気持ちを大切にしたいと千生は思った。他人から受け取るだけでなく、何かを与える人になりたい、そう千生は願うようになっていた。
「なんとなく、千生はこのまま終ってしまうような人じゃない気がしてた。やっぱり凄いよ、千生は」啓介は受話器を戻して千生に顔を向け言った。
「
「それはないよ。絶対に」
啓介は首を振った。
「恋愛禁止のところか…。オーディションに受かったら、俺のことは切らないとね。成功したいならそうすべきなんだ。そのときは喜んで、千生を見送るよ」と少し淋しそうに笑う啓介は、何故か根拠もなく、今度の千生は合格しそうな気がしているのだった。
「そんな、先走らないで。合格はしたいけど、出来るなんてとても思ってない…。メロンソーダお願い」
啓介は再び内線電話を取ると、メロンソーダとコーラを頼んだ。
「今の学校生活は、やっぱりつまらない?」
「そんなことない。とっても楽しいよ」
――でも、物足りないんだ。
啓介は思った。
夕方まで、カラオケボックスに二人でいた。
「明日の塾は休まないか?」と明里が声をかけたのは、三月に入った或る夜、バイト帰りの千生を捕まえてのことだった。
「パパがそんなこと言うの? いいの?」
「いいんだよ、たまには二人でロイヤルホストに行こう」
「大丈夫? 破産しない?」
「経費で落とすよ。営業の接待とかにして」
「ステキ」
同じファミリーレストランでも、いつも友人たちと行くファミレスとは、格が違う店だった。
こうして、翌日の夕方、二人はロイヤルホストにいた。窓から外の夜道が見え、信号やネオンの光が射していた。食事は終えて、二人でデザートを待っていた。
「最近ずっと、ママやお姉ちゃんが心配してる。千生が何か、ひどく困ってるんじゃないかって。たぶん勉強のことじゃないかって」
「心配かけてごめんなさい」
「謝ることはないよ。…勉強が難しくなって、思うように成績が上がらないことは聞いてる。実際中学の義務教育とは違うからね。難しいのは分るよ」
「私、このまま勉強しても、もう希望の大学には行けないと思うの…。どこかの大学には入れるし、大学では頑張って就活して、卒業したら就職もする。OLは出来ると思う。…でも…」
「諦めるのは、ちょっと早すぎるんじゃないかな。まだ一年生だよ。受験まであと二年弱、頑張ってみれば何とかなるんじゃない?」
「私、パパやママや、お姉ちゃんみたいに優秀じゃないよ。分かってるんだ。…もう駄目だっていう気持が先に立って、頑張れないんだ、私…。」
「千生らしくもないね。ずいぶん弱気なことじゃないですか」明里はできるだけ冗談にしてしまおうと微笑みながら言った。
「大学だけじゃない、このまま塾に通って勉強しても、希望の道に進めないのが分るんだ。このままだと平凡な人生しかないのが見えてるよ。…私、そういうの
「だから?」
「だからもう一度だけ、オーディションを受けたい。今度で最後。それで駄目ならもう諦める。自分に鞭打って受験勉強する」
明里は何となく、この千生の答えを予測していたような気がした。やっぱり諦めきれていなかったのか…。
「アイドルになりたいの? そんなになりたいの? その道には何があるの? 平凡な人生にない、何があるの? パパに聞かせてくれないかな」
「アイドルになったら、みんなに夢を見せてあげられる。楽しい気分になってもらって、
明里は色々と千生に言いたいことがあった、問い質したいこともあった。非凡な存在になることは、それほどに価値を見出すようなことなのか。非凡であることはそんなに偉いものなのか。若い頃はそう思いがちなものではないのか。…
しかし何も反論めいたことは言わなかったし、問い返すこともしなかった。千生は若いのだ。若い者が、若い者にありがちな考えを信じているだけなのだ。それを潰して何になるだろうか?
自分は非凡な存在ではない。中小零細まで含めれば、社長の肩書を持つ者など星の数ほどこの国にはいる。妻の菜摘は、現在大学院の博士課程に通う菜摘は、もうじき学位を取ってどこかの大学で教える身になるかもしれない。そうなれば非凡だろうか? 多分世間はそう思うだろう。そしてじきに学術書を出版したり、或は一般向けの入門書でも書いて売れたりするかもしれない。しかしそれ以前に、講師の口があるかどうか分らないから、そのまま博士号を持つ人で終るかもしれない。それでも、非凡な主婦ではあるのだろうか。…
そうだ、若い頃の自分たち二人はどうだったろうか? 今の千生くらいの頃の自分たちは。非凡な存在に憧れていただろうか?
「パパにはどんな夢があったの?」
千生が不意に問う。
「いつだったか、緑里と二人で、どうしてうちにはお爺ちゃんお婆ちゃんの家がないのって訊いたことがあったね。…そのときは、パパとママどちらのお爺ちゃんお婆ちゃんも死んでしまったんだよ、それにどちらもひとりっ子で兄弟はいないんだよって言ったね」
「うん」
「里帰りできない代わりに、毎年旅行に行ったけど、埋め合わせは出来ていたかな? やっぱり、お爺ちゃんやお婆ちゃんが欲しかった?」
「どうかな…。最初からいなかったから、別に淋しいことはなかったよ。里帰りのことも、話に聞くだけでよく分らないし、旅行と何が違うのか比べようがないもん」
「…本当は生きてるよ。…パパの方も、ママの方も。…兄弟もいる…」
「うん。何となく知ってた。ときどき変な電話があったり、郵便が来たりしてたし…。戦争でもないのに、全滅してるなんておかしいもん。親戚のひとりもどっちにもいないとか有り得ないし」
「そうか。分るよな、やっぱり…」
こんなあからさまな嘘に、今まで騙されたふりをし続けてくれた娘たちに、この夫婦は感謝すべきであった。
「パパが千生の齢の頃は、放課後、高校の図書館にママと二人で
「私と同じだったのね。パパもママも…」
小学生の頃、逃げ場を求めていた自分を千生は思い出した。父母も自分と同じように、現実から逃避したいと願っていたのだ。その事実だけで、父母の故郷で何があったのか、そんなことはもうどうでもよかった。
「いつか詳しく話してね。今じゃなくていいから」
「今はいいのかい?」
千生は
「パパ、私、高校や大学で勉強するよりアイドルの方が楽だなんて思ってる訳じゃないよ。信じて」
「大丈夫だよ。パパだって、勤め人より会社を経営する方が楽だと思って会社を飛び出した訳じゃないんだから」
明里も、売れっ子の芸能人の殺人的なスケジュールに関しては、聞きかじった程度の知識は持っていた。千生が売れっ子のアイドルになれるかどうかは、また別の問題ではあるが。それにしても、親子とはやることまでもが、かくも似通ってしまうものだろうか。
「本当に、今は何をどうすればいいのか、正しいことなんてないよね。昔は単純だったんだ、いい大学に行って、いい会社に入るのがいいなんて何とかのひとつ覚えのように言われてた。親も、学校も、テレビもね。…今ではその昔の超一流企業が次々没落して、昔はバカにされていた公務員が意味もなく叩かれるくらい羨ましがられているんだからね。全く、先のことなんか分りゃしない。…芸能界に入って活躍するってのは、案外いい選択かも知れないな…いや、成功するとかしないとかじゃない、人はしたいことをすべきなんだよ。五年前の震災でいやになるほど感じたんだ。…阪神淡路の時も怖かった。けど、東日本大震災の時はもっと怖かった。自分の大切なものが、大切な人が、不意に、一瞬のうちに全部なくなってしまう。自分も死んでしまう。それまでの生活、一生が消えてしまう。そんなことがいつ起ってもおかしくない。もう明日、いや、この瞬間でも、今いるこの土台ごと引っ繰り返って、どうなるかもしれない。それだったら、人はやりたいことがあれば
千生も怖かった。テレビのニュースで繰り返し見せられた、押し寄せる洪水、押し流される家並み。水素爆発する福島原発の
起きている事実が怖かった。いつ自分たちの身に降りかかるかもしれないと想像することも怖かった。
「一応、訊いておくよ。今度のオーディションがもし巧くいかなかったら、受験勉強に専念するんだね?」
「うん。約束する」
「そういうことだから、今度のオーディションが終るまでは千生を
ロイヤルホストから戻った明里は、待っていた菜摘に千生の決心を聞かせた。
「ね、明里はどうして私を勝手に教育ママみたいに言うの? 娘相手に言質を取ったってどういうことなの? 自分一人が親みたいなこと言わないで。抛ってなんておかない。応援するよ。親が自分の子供を信じなかったら、誰が信じてくれるの」
「菜摘…。ありがとう…」
「あなたが礼を言うことじゃないでしょ。そういうとこだぞ、明里」
「千生の奴ね、初めて『他人を幸せな気分にしたい』って言ったんだ。これまでは自分が喝采を浴びることばかり考えていた千生がね」
二〇一六年、現在十六歳、今年十七歳になる少女の、目下最大の悩みは、
千生にとって鬼門である一次書類選考を、どうやったらクリアできるだろうかと、明里は我がことのように頭を悩ませた。
昨年、二つのオーディションを受け、書類審査で門前払いを
しかし、菜摘は予想の斜め上を行くことを口にした。
「うーん…。困ったね、それは…。いっそ、書類審査がなくて、二次のオーディションから始まるんだったらいいのに、高校野球のシードみたいにね」
――シードか…。そんなもの、ある訳がないじゃないか…
しかし、明里が募集サイトや関連情報をネットでよく調べてみると、あったのである。そのものズバリ、シードが。一次書類選考の免除が特典になるセミナーが。
セミナーの出席者全員が免除という訳ではなく、一会場につき数名ということだったが、ともかくその場で上手に自己アピールできれば、脈はある。開催は四月、応募締め切りは三月だった。一般募集よりも、四か月も早かった。
締め切りまであまり間がないので、明里は慌てて関係するサイトをいくつかカラーでプリントアウトした。そして自室にいた緑里に声をかけ、自分が発見したことにして千生に教えてやってくれと伝えた。
緑里は素直に父親の言いつけを聞き、千生の部屋のドアをノックした。入室して、机に向って何やら作業中の千生を見ると、千生はラップトップを開いて既にセミナーの申込に入力を始めていた。
緑里の方を振り返った千生は、手にしたカラー印刷の紙の束に目をやって、驚いた。
「お姉ちゃん…」
「パパよ」
緑里は顔を横に振った。
「内緒だって言われたけど、パパが調べてくれたのよ」
千生の目に涙が滲んだ。
”You'll see so many things.”
ロンドン訛りの英語で緑里が言った。
「『刑事ジョンブック目撃者』の台詞よ。戸田奈津子は 『驚くことばかりだぞ』って字幕にしたの。知ってるかもしれないけど、芸能界ってそういうところ。再デビュー、叶うことを祈ってるよ」
千生から一次書類選考の免除を知らされた明里は、これでもう娘の合格は決ったと確信した。最終選考は四次面接まであり、九月にかけてオーディションがまだまだ続くことは調査済みだったが、明里は
きっと千生は自分の道を掴める。――
明里は瞑目して安堵の息をもらした。
菜摘はそんな明里を優しく見つめていた。
長く青い滑走路 柴田書羽 @toshi47
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