ともかくも、千生いつきの高校生活はかくして始まった。2015年のことである。

 スカウトを期待した都心の行脚あんぎゃ、芸能事務所に所属するための応募、オーディション、養成所でのレッスンと、仕事を得るための果てしない応募、オーディションの日々、それから方向転換しての受験勉強の日々。――

 千生の中学時代は、大変なことのみ多い上に報われることが少なく、およそ学生時代の楽しみというものからは遠かった。そして、アイドル、高校受験と、目標は違えど、何かに向って驀進していた日々だった。しかし、両方に挫折した。

 千生はその三年間にいささか疲れを覚えていた。そして、妙な安らぎと、気の抜けた思いの入り混じった感情の中にいた。

 芸能界は諦めて、「堅気かたぎ」の人間としてこれから生きていく。ごく普通に、あたりまえに、平凡に。――

 確かに、そう千生は決めたのだった。

 千生は中学時代の再現は避けたかった。目立たず、敵を作らず、集団の中位の存在として、ひっそりと暮したかった。誰にでも心を開いているように装い、しかし肝心のことは心に秘め、虎視眈々と、現実世界の夢を追う。小学校時代の再来のようだが、更に巧く、ことを運ぶのだ。

 千生は図書室にあった心理学のハウツー本を数冊借りて読んでみた。少し努力は必要かもしれないが、実践するのは充分可能だと感じた。人間関係に応用してみよう。


 千生の過去の芸能活動は、例の派手ないじめ事件もあって中学の同級生たちの間では、ほぼ知れ渡っていたが、同じ高校に進んだ人間は少なく、入学後にそのことを口にする者はなかった。千生には望ましいことだった。これで、孤立する原因がひとつは取り除かれたのだと安心していた。部室に向う途中、不意に背後から見知らぬ男子生徒に声をかけられるまでは。――

 「ね、中学の頃、芸能活動してたよね?」

 千生は心臓に針を刺し込まれたような錯覚に、身構えた。

 また元の木阿弥になってしまうのかと失望を覚え、体を強張らせて無視して歩き続ける千生に「オーディションで一緒だったけど、覚えてないかな?」と彼が言葉を続けたことで、彼女は立ち止った。

 その声からは好奇心に満ちた皮肉を交えた問いかけではなく、妙な親しみを感じた。千生は振り返った。

 ハンサムとは言えないが好感を持たれそうな、よく通る声を持った、すこし体格の良い少年だった。

 「どのオーディション?」

 「君が出演した舞台。僕は落ちちゃったんだ」

 「そう…。でも、私が合格したのはあれ一つだけなんだ。公演が終って間もなく、事務所からくびにされちゃった…」

 「そうだったんだ。…僕もその頃、芸能界を諦めたよ」

 「何年くらい芸能界にいたの?」

 「六年、かな。最初子役の劇団に入って、仕出しでドラマに出るようになって、何か目立ったのかな、芸能事務所に呼ばれて移籍して、忙しい時期もあったんだよ。…声変わりしてから、調子がおかしくなったんだ。巧く演出にこたえられなくなって、もうオファーなんかされなくなっちゃった。オーディションを受けては落選する毎日になってね。…希望者はたくさんいるし、代わりの人間には全然困らない。もう、ここに自分の居場所はないんだなって思った…」

 「居場所…」千生はこの少年となら、他の誰とも共有できないことを、分り合えるように思った。

 「私には最初から芸能界に居場所はなかった気がする。呆れるくらい書類を送って、それでたまにオーディションに進んで、仕事は一度だった…。六年活躍できたって、凄いよ」

 「ありがとう」

 少年の心からの笑顔を受けて、千生はこのまますっと話していたいという衝動に一瞬、駆られた。しかし、残念だが堅気の学生生活を送るためには、部活動を抛り出す訳には行かなかった。

 「ごめんなさい、私、これから部活なの」

 少年は少し切実な眼を見せて千生に言った。

 「また、話できるかな? 僕は四組の竹下啓介」

 「いいよ。…私は高宮、高宮千生。二組よ」

 そして二人は別れた。


 千生が向っていた部室というのは、校舎の外れにある、かるた部だった。小学校の時に百人一首を暗記していた自分にはもってこいの部活動ではないかと思ったのである。中学時代は芸能活動に邁進まいしんして、部活動には入部しなかった。ために、あまり同級生と親しくなれなかったということがある。堅気の学生生活を送ると決めた以上は、どこかの部活動に入って友人を増やし、出来るだけ楽しく過ごしたかった。

 部室は、汗の染みた畳の匂いが強く、かつて通った養成所を思い起こさせた。かるた部が生易しい部活でないことは覚悟していたが、想像していた以上に体育会系だった。かるた競技は、百人一首や決まり字を暗記しているくらいではどうにもならない。とは言え、千生は身体を動かすことが嫌いではなかったし、意外に瞬発力もあった。華奢に見えても、なかなかスタミナはあるのだ。養成所で歌やダンスを一年間叩きこまれたことは、無駄ではなかった。それ以上に、芸能活動を通じて、自分にはこれまで自身知らなかったような、こうと決めたことには手抜きが出来ない、負けず嫌いな面があることにも気づかされていた。

 千生は新たに分った自分の性分を発揮して、ふだを取るための努力を惜しまなかった。集中力と瞬発力、それ以前の入念な準備、それらの大切さを、かるた部の活動を通して改めて千生は学んだ。公式な試合の日には和服を着ることができるのも嬉しかった。

 ハードな部活が終ると適度に空腹になり、アルバイトや学習塾の時間になるまで、他の部員と買い喰いして帰ることも、いかにも千生が夢みた学生生活であった。いずれも、中学時代は経験できなかったことである。


 堅気の高校生らしいこととなれば、次はアルバイトである。千生はあちこちに置いてある無料の求人雑誌を何冊か持ってきて、検討してみた。サリーが店員の制服になっているというインド料理店と、チャイナドレスが制服になっている中華料理店の求人が、千生の目をいた。普通なら着ることのない民族衣装をまとうチャンスに魅力を感じたということもあるし、インド料理も中華料理もどちらも好きで、賄いにかれたということもある。

 こういう、コスプレに目がないあたり、やはり千生は根っからアイドル稼業が好きなのであろうし、まだ幾分、未練が残っているのかもしれない。どちらにするか大いに迷ったが、好きだったミーナに憧れてインド料理店のアルバイトに応募することを決めた。それで駄目なら中華の方をまた受ければいい。

 千生がアルバイトを始めようと思った動機は、アルバイトに対する興味もあれば、自分自身で金を稼ぐということへの期待もあったが、何よりの理由は、中学時代の芸能活動で金銭的な負担をかけた穴埋めに、せめて幾らかでも自分の大学進学費用の足しにしたいということが大きかった。千生にはこういうきちんとしたところがあった。進学費用の足し、という点は伏せて、両親に許可を求めると、呆気ないほど簡単に「高校生活に支障のないように」と菜摘なつみから釘を刺されただけで了承された。

 電話を入れて面接に行くと、「うちはサリーを着て接客するんだけど、そこは大丈夫?」と念を押されただけで、即決になった。店としても、千生のような美少女が来てくれたら文句はないであろう。平日の夜、週に二日が固定で、時々土日祝日のどれかにシフトが入った。簡単なヒンディー語を幾つか使って客に挨拶をし、お冷を運んでオーダーを取り、料理を持って行ったり、皿を下げたりする。ときどきメニューの説明も求められるが、すぐに覚えた。まかないはカレーの他に、タンドール料理やサモサなどが振る舞われ、毎回満腹になって帰宅した。食べ盛りの高校生には有難いアルバイトだった。

 千生は風の噂に、一時は検討していた、チャイナドレスで接客する中華料理屋の方には、同じとしの絶世の美少女がアルバイトに入ったことを知った。希望がかぶらなくてよかったと、少しだけ安堵した。


 アルバイトに入っていない平日週三日の晩は、クラスの友人たちと学習塾に通っていた。受験対策ではなく、学校の勉強の予習復習である。とても義務教育の延長にあるとは思えないような難解な内容と膨大な量のカリキュラムに、千生は最初から呑まれていた。得意の暗記力くらいでどうにかなるようなものではなかった。最初は受験勉強対策で通うつもりだったのだが、とてもそんな段ではないことに気づいたので、何とか日々の学習に遅れないことを目標とするようになった。徐々に成績を上げて、受験勉強にシフトすればいいというのが、その頃の千生の計画だった。

 目下、弁理士を目指すという目標など夢のまた夢であった。


 高校で初めての中間試験が終った、梅雨の合間の晴れ渡った日曜日、千生と啓介は、他の一組のカップルと合同でダブルデートすることになった。場所は西武園遊園地だった。都心に出る案もあったのだが、千生はしばらく、嫌な思い出のある都心は敬遠したい気分で、ならば近場ちかばに行こうということになったのである。

 あの日のあとも、短時間ながら千生と啓介は何度か逢って会話を交わしていた。初対面の時から千生は啓介のことを憎からず思っていたし、啓介は元から千生に興味を抱いていたので、そうなるのは必然であった。ただ、帰宅部の啓介と違って、千生はなかなかのハードスケジュールで生きているので、長く一緒にいることは難しかった。

 小平駅に集合した四人は、西武多摩湖線に乗り、西武遊園地駅で降車した。夏を感じさせる久々の晴れ間に、人出は多かった。

 もう一組の二人は、啓介の共通の友人で、別のクラスの同級生だった。名前は千早ちはや三郎、名島なじま順子と言った。中学時代から交際を始めて、もう三年目になるのであった。

 「ね、啓介とはいつからなの?」

 「四月に学校でナンパされたのよ」

 「へぇ…。意外だな。啓介、頑張ったんだな」

 「おい、嘘はやめろよ。ナンパなんかしてないだろ」

 「こいつ、悪い奴じゃないから、よろしくね」

 「それは保証するから」

 ダブルデートにしたのは、まだ交際して間もない千生のことを啓介がおもんばかったからなのだが、二組のカップルは入園すると、待ち合わせ場所と時間を決めてすぐに別行動をとったので、どんな意味があったのやら…

 名物である大観覧車やメリーゴーランドに乗ると、もう昼食時間だった。千生は昨夜一生懸命に作った数人前のサンドイッチを持ってきていた。

 「ありがとう」

 「心して食べなよ」

 「そうします」

 千生が持参したポットから注いだ紅茶と一緒に、二人はサンドイッチを食べた。ハム、チーズ、レタス、玉子、ツナ、コンビーフとバラエティに富んだ千生の調理は上手で、啓介はとても満足した。

 「小六の時、もう四年前ね、この先の西武ドームでコンサートを観たの」

 昼食をとって人心地ひとごこちつくと、千生は遠くを見ながら言った。

 「ドームで?」

 千生はうなずいてつづけた。

 「私の人生を変えた、…変えたかもしれない場所。そこでコンサートを観たの。興奮して、元気を貰って、どうしてアイドルってそんなことができるんだろうって不思議に思って、それでなりたいと思った」

 「そっか、千生はアイドル志望だったね」

 「みんなとっても綺麗で、スポットライトを浴びてキラキラしてた。一挙手一投足に釘づけになって、三時間目を離せなかった。…私もあんなふうに、輝く場所を見つけたい。そして、その輝きで、自分がそうしてもらったように、みんなを倖せにしたい、元気にしたいって思った。自分もそんな存在になるんだって…」

 啓介は千生を見つめながら、黙って聞いていた。

 「…それからいろんなオーディションを受けて、事務所が決って、養成所に行くようになって、周りは凄い人たちばかりだった。意識も高いし、スキルもあるし。…この人たちに負けたくないって思った。自信なんてなかったけど、でも負けたくないって気持ちだけはあった。…負け続けたんだけど…」

 ――負け続けた。それは啓介の芸能人生の終盤の姿でもあった。

 「そんな毎日の中で、いつの間にか、見てくれる人を幸せにするよりも、自分がステージで喝采を浴びることばかり考えるようになってオーディションを受けていたんだ…」

 千生はそこで言葉を区切った。そして思い切ったように口にした。

 「私の敗因はそこだったのかな…」

 「誰にも分らないよ。そんなことは…」

 「アイドルって、ファンに対して滅私奉公して、夢や愛を与える存在じゃないのかなって、最近思うようになったの。前は分ってなかったんだけど…」

 「もう一度チャレンジしてみるの?」

 千生は首を振った。

 「いい。今が楽しいもの」

 その同じ頃、遅く起きてきた明里あさとが菜摘とブランチをとりながら、

 「千生は西武園だって? デートに行ったのかい?」

 「デートか何か知らないけど、昨夜売るほど沢山サンドイッチを作ってたわね」

 「どう思う?」

 「きっとデートね」

 「本当に芸能界は諦めたみたいだな」

 「呆れた。まだ疑ってたの?」

 明里の反射的に出たような独り言に反応した菜摘は、更に問いかけた。

 「どうしてデートしたら諦めたってことになるの?」

 「芸能界は恋愛禁止じゃない? なのに恋愛してるんだから」

 菜摘はため息をついて「恋愛禁止のところもあるだけよ。…『あまちゃん』の観過ぎなんだから…もう何巡目?」

 「四回くらいかなぁ。気に入った回は何度も観てるけど、通してだったら…」

 明里はラップトップにあまちゃん全一五七話(紅白歌合戦含む)の動画を入れて、気が向くと再生しているのだった。

 「私、恋愛禁止とか、そういう人権無視のことは嫌い」と菜摘は強く言った。

 千生と啓介は園内を話しながら散策した。歩き疲れて茂みに腰を下ろすと、啓介の人差指の手の甲側第二関節の辺りに血が滲んでいた。千生が指摘すると

 「草か何かで切ったかな」

 「ちょっと待って」

 「あっ…」

 千生は啓介の手を白く長い指を差し出して握ると、出血しているあたりを口にあてて血を拭い、ポーチからバンドエイドを出して巻きつけた。

 丁度、千早と名島もその辺りを歩いていて、座り込んでいる二人を見つけたが、邪魔をするような野暮なことはしなかった。ただ、後で驚かせようと、名島順子はスマホで何枚かシャッターを切った。


 めくるめくような日々だった。――

 と、入学から半年間くらいを振り返って、千生は思うのである。

 部活動も始めた、帰りに友達と買い食いもするようになった、学習塾にも通い始めた、アルバイトにも行くようになった、そして、彼氏も出来た。いたような理想的な高校生活だった。

 友人は大勢できた。クラスメート、かるた部、バイト先、学習塾では他校の生徒、そして啓介を通じて他のクラス。自分でもビックリするくらいだった。

 心理学の入門書で覚えた手法で、敵を作らず、好感をもたれる方法を日々実践したたまものだった。先手を読んで相手が望み、よろこぶことを考え、振る舞っていれば、自然と人が寄ってきた。

 嘗ての自分に欠けていると思っていた、他人を威圧しているように見えない自然な笑顔、当意即妙の気の利いた切り返し、これらを、千生は友人たちと交わることで急速に身に着けて行った。

 友人たちの歓心を買うためには、骨身を惜しまなかった。必要以上にはしゃぎすぎて歯止めが効かず、半ば道化のように見えぬこともなかったが、千生は気にしないことにした。自分は衝動的にかくも大胆になることができるのだと、千生は知らなかった己の性癖に驚いた。興が乗ると、自分が自分でないような気がして、周囲がちょっと引くほど、どこまでもはしゃぐことができた。

 スクールカーストの頂点にいる必要はない。自分に直截ちょくせつ害が及ばないような、ほどほどの階層で十分なのだ。それらは身をまもる自分のための行為でもあったが、同時に、他人を悦ばせ、笑顔にすることができると思うと、それもまた千生自身の悦びであった。

 千生は中間考査や期末考査の前は徹夜してひたすら得意な暗記に励んだ。いつも計画的に試験勉強しようと思っているのだが、気がつくと一夜漬けコースを辿っているのである。

 試験当日は仲のいい7、8人のグループで早めに学校に集まって、早朝から試験範囲の復習をすることにしていた。グループは早暁、徹夜明けのまま各々おのおの高校の近くにある24時間営業のファミレスに集まって、モーニングセットを食べてから登校した。食事をとるついでに、ドリンクバーでカフェインを大量に摂取して眠気覚ましにしていた。エスプレッソを何杯も飲むと、頭がスッキリした。「ちゃんと勉強した?」「ついつい漫画を読んじゃった」などといった他愛もない会話が飛び交って、早朝のファミレスの店内は賑わった。千生は半ば朦朧もうろうとした頭で、妙に浮き浮きと、高揚した気分を感じていた。ふわふわと、宙に浮いているような感覚だった。メンバーはひとしきり朝餉あさげを楽しむと、始業の一時間前には登校できるようにファミレスを後にした。

 店を出ると朝焼けが目に痛かった。

 全く、楽しい高校生活だった。ただ一点、成績が振るわないということを除いては。――

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