第十三話「花曇り ーはなぐもりー」 (前編) ⑤
端正な顔立ちの男性が、侍女の細い両肩に手を添えて壁に押し付けている。かといって、無理やり押さえつけている感じはしない。
「あの……っ」
「俺、弱いんだよねぇ。君みたいな
(え……えええええ!!)
当事者でもないのに、全身が沸騰した。
なんで今、僕は少女漫画のような場面に遭遇しているんだろう。ただ部屋に戻ろうと廊下を歩いてただけなのに。
「あぁ……もしかして、こういうの初めて?」
男性が甘く
「大丈夫。何も考えず、俺に全部任せて?」
「い、いけません……こんな……っ」
(ど、どどどどどうしよう!?)
あの子、本気で嫌がってるのかな?
抵抗している様子はないし、見なかったことにするべき? いやでも――
「昼間から何盛ってんのよ」
「げ……」
あたふたしている内に、いつの間にか桜さんが二人の前に立っていた。男性があからさまに笑顔のまま引きつっている。
(ていうか桜さん、行動が早すぎる……!)
「昼食抜きにされたこと、もう忘れたの?」
「だからだよ。可愛い子に優しくしてもらえば、空腹も忘れ――いででで!!」
行動の早い桜さんは、すかさず男性の耳を掴んで容赦なく引っ張った。たちまち男性から痛々しい悲鳴が上がる。
その
「怖かったわね。もう大丈夫よ。この
「あ……はい」
侍女は戸惑いながらも、ぺこりと頭を下げる。
そして頭を上げる際に、僕とも目が合った。相手が巫女だからだろう。いっそう深く頭を下げて走り去っていった。
「あんたはこっちよ」
「ちょ、痛いって!! 自分で歩くから!!」
耳を引っ張られながら歩く美男という図は、
「ほら、巫子様の
「え? あ……」
男性と目が合った瞬間、冷水を浴びせられたかのような衝撃を受けた。
目元は少し垂れているけど、流れるように引き締まっていて
肩まで伸ばした
(こんな綺麗な人が、現実にいるなんて……)
桜さんの瞳の美しさとは違う。内に
姿形が、純粋に綺麗なのだ。
ただそこにいるだけで、人の目を奪う。そんな奇跡的な造形による美しさだ。恵まれた容姿なんて言葉では足りないほどに。
顔の偏差値だけなら、女性である桜さんや巫女たち、お洒落な
あの侍女が喰われそうになったのも分かる。
こんな綺麗な目で見つめられたら、何も考えられなくなるのも無理はな――――
(あれ?)
眼前の衝撃から覚めてきたところで、ようやく気が付いた。何やら、男性がじっと見つめてきていることに。
恐ろしく顔が整っているから、こうも見つめられると緊張してしまう。
「……お初にお目にかかります」
男性の顔に、微笑みが浮かんだ。精巧に作られた美しい笑みだ。
「炭様の従者を務めております、小春と申します。訳あって謹慎の身でしたので、ご挨拶が遅れてしまいました。以後、お見知りおきを」
(この人が、侍女をたらし込んで昼食抜きにされた『小春さん』か)
昼食での会話を思い返しつつ、目の前の微笑みに見惚れる自分がいた。
本当に綺麗な人だ。女の子なら心を奪われるのも無理はない。女性的な名前も、見目
(子供の頃はさぞかし、女の子に
そんなことをぼんやりと考えつつ、僕も自己紹介をするべく口を開いた。
「葉月といいます。この度、
「えぇ、こちらこそ」
小春さんがいっそう優しげに微笑んだ。
(うわ……)
天上の微笑みだった。
これは、ヤバい。ちょっとでも気を緩めたら目を離せなくなる。
ただの社交辞令でこれなのだから、迫られた侍女に至っては昇天しかけていたことだろう。桜さんがいてくれて本当によかった。
「
「いえ、よく言われるので」
「でしょうね。でも、雰囲気は全然違いますよ。あなたの方が実に愛らしい」
「はっ?」
驚きのあまり変な声を上げてしまった。間違っても、男に向ける言葉ではない。
そして同時に、思い出した。
慣れてしまってすっかり失念していたが、夜長姫と瓜二つな僕の容姿は、どこからどう見ても可愛らしい少女だ。
(まさか……変な目で見られてる!?)
「夜長姫が愛らしいのは顔だけでしたよ。その点、あなたは頭のてっぺんから
「小春」
地の底から
「え、何? その
「…………」
「まさか、手ぇ出すとか思ってる? ありえないって。男なんでしょ?」
「女だったら出すみたいな言い方ね」
「さすがにないって! 首が飛ぶから!」
よかった。どうやら、
「どうだか。好きなんでしょ?
「あれは言葉の
「空腹で頭も空っぽになったみたいね」
「ひどっ!!」
(……絵になるなぁ)
親しげに話す二人を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思う。
小春さんには及ばずとも、桜さんも人目を引く美貌の持ち主だ。
静国の
何より凛とした彼女の
(お似合いって、こういうことなんだろうな)
僕ではきっと、こうはいかない。どんなに愛らしい容姿を持っていても、隣に立つという意味では頼りない。
元の僕に至っては――――
止めておこう。思い返したところで、ただ空しくなるだけだ。
「それじゃあ、俺はこれで――」
「ちょっと。どこ行くのよ」
立ち去ろうとした小春さんの首根っこを、桜さんが掴んでグイッと引っ張った。
「あんたは私が連れていくって言ったでしょ。葉月様を部屋にお送りした後、そのまま事務室に放り込むから」
「え? 俺、今日担当じゃなくね?」
「彩雲と馬鹿をやらかして巫女たちをお待たせした罰だと、三郎さんからの指示よ。炭様からも承認は得ているわ」
「ちょっと目ぇ離しただけじゃん!! なんでそれだけで――」
「文句なら三郎さんに言いなさい」
「ひき肉にされんのが落ちだろ!! つうか事務処理とかやだよ、眠くなるし」
「だったら書類を女の子だと思えば? 退屈な仕事も
「いや無理あるって。それよりーー」
男らしくも綺麗な手が、桜さんの肩を抱いた。そのまま慣れた手つきで、滑らかに自身へと引き寄せていく。
桜さんの体が、小春さんの腕の中に収まった。
(…………あれ?)
視界が、ぐにゃりと歪む。
頭が熱い。それなのに真っ白で、何も考えられない。思考が上手く働かない。
胸も変だ。痛みはないのに、奥の方が酷く
気持ち悪い。
こんなの、初めてだ。
「俺は桜と楽しいことし――だだだだだ!!」
耳をつんざくような叫び声で、我に返った。
肩に置かれた手の薄い皮を、桜さんの指が思い切りつねっている。その恐ろしくも
害虫でも見るような視線が、痛みに
「いいわ。今のも含めて三郎さんに――」
「それだけは止めて!! 後生だから!!」
「嫌なら大人しくついてくることね」
「へいへい……あ」
急に目を丸めたかと思いきや、再びその綺麗な顔を僕に向けてきた。
「そういや葉月様をお呼びしろって、炭様から
「……なんでそんな大事なこと忘れてんのよ」
「いやー、葉月様の愛らしさに心を奪われてつい……冗談です」
じろりと冷たい視線を向ける桜さんを前に、
「まぁいいわ。分かった。今から炭様の部屋にお連れするから」
「いや、桜は止めた方がいいぜ。巫女同士で話がしたいって言ってたし」
「……そう」
やけにあっさりと納得した。白黒つけたがる傾向のある桜さんにしては
(話って、なんだろう)
炭さんからの呼び出しということ自体が、まず初めてだ。食事の席ではあまり主張しないし、僕との個人的な交流もない。
「先に事務室行っててよ。葉月様なら、俺がお送りするからさ」
「分かったわ。葉月様がよろしければ」
桜さんが僕の方を見る。
巫女同士とわざわざ念を押すくらいだ。雑談をしたいわけではないだろう。従者がその要件を忘れてしまうのは、少し妙な気がするけど。
「半刻後に東語の授業があるので、あまり長話はできませんが」
「承知致しました。お連れした際に伝えます。では、こちらへ」
小春さんに手招きされ、僕はついていく。ちらりと振り返ると、一礼する桜さんが目に入った。それに応えるつもりで小さく微笑む。
程なくして、炭さんの部屋の近くまで来た。
(え――――)
だけど、小春さんは止まらなかった。炭さんの部屋を素通りしたのだ。
「あ、あの」
声をかけても、小春さんは一向に歩みを止めない。止まる
「小春さん!」
さすがに、これは声を上げるしかなかった。
その声が届いたのか
「炭さんの部屋って、あっち――――」
言いかけて、ふと気が付いた。周辺に人の気配がないことに。
廊下の
「ご心配なく。あちらに用はないので」
「え?」
小春さんが振り返り、僕に微笑みかける。
「ちょっと、二人で話をしませんか?」
端麗な顔に浮かべた笑みは、同じ人とは思えない静かな影を帯びていた。
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