第十二話「桜の便り ーさくらのたよりー」(後編) ⑤
「何か食べたいものはある?」
「……甘いものを」
「ちょっと待ってて」
私はいったん部屋を出た。調理場へと向かい、
汁粉と湯呑みをお盆に乗せて、再び葉月の部屋へと向かう。
部屋に向かう途中で、女中に「私が持っていきます」と声をかけられたが、大丈夫だからと丁重に断った。私が持っていきたかったのだ。
気を遣わせたくなかったのか、
「わぁ……! お汁粉ですか」
「葉月、汁粉好きでしょう? これなら食べられるかと思って」
「はい、多分いけます」
以前、餅屋のご主人が汁粉を振る舞ってくれたことがあった。単なる
だけど『甘い』『美味しい』と
「ご主人には悪いけど、社
「え、御用達っ!? そんなの、勝手に食べていいんですかっ?」
「勝手にって……御用達の品を巫女が食べなくてどうするのよ」
「あ、ですよね」
葉月が困ったように笑う。
巫女の生活には慣れてきても、貴人となった自覚はまだ薄いらしい。私からしたら、元の葉月も裕福な暮らしをしている印象があるが。
汁粉を匙ですくい、息を吹きかけて冷ます。
それから、葉月の口へと近づけた。
「はい」
「えっ!?」
葉月の顔が、また真っ赤になった。
穏やかで引っ込み思案なくせして、表情は豊かなのが、葉月の面白いところだ。
匙を近づけていた手を止め、少し引っ込める。
「嫌なら別にいいけど?」
「……い、いただきます」
小声で呟きながら目を伏せるが、まんざらでもなさそうだ。むしろ、ほんのりと赤みを帯びた
葉月は人懐っこいけど、あまり人に甘えない。
そういう
(だから、たまには甘えたくなるのかもね)
再び、匙を葉月の口元へと近づけた。
葉月の唇が、遠慮がちに開く。
そして、小鳥が
「葉月様、お休みのところ申し訳ありません」
部屋の外から、侍女の声がした。
驚いたのか、葉月の体が大きく跳ね上がる。
「あ、はい!」
まだ熱があるというのに、葉月が律儀に大きな声で返事をする。眠っていた負い目から無理をしようとしているのではなく、単純にそういう性分なのだろう。
見かねた私はそっと葉月を手で制し、代わりに部屋の外へと声を投げかけた。
「私が対応するわ」
「あ、桜様! ちょうど良いところに」
「え? 私に用なの?」
「はい。鹿男様から、桜様を呼んでほしいと伝言を承りました」
「鹿男が?」
「その、大浴場で彩雲さんが李々様に
「あいつら……」
素が出てしまい、慌てて引っ込めた。
鹿男が役に立たないのはいつものことだが、風呂場で彩雲が虐められているとは一体どういうことなのか。訳が分からない。
(まぁ、李々のことだしね)
はた迷惑なことこの上ないが、あの子が下らない理由で頭のおかしい状況を作り出すのは、今に始まったことではない。
「分かった、すぐに行くわ」
「ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼致します」
侍女の足音が遠ざかっていく。
足音が完全に聞こえなくなったところで、私は葉月に向き返った。
「僕は大丈夫なんで、行ってきてください。ゆっくり食べてますから」
「悪いわね、慌ただしくて。また来れるか分からないから、空の食器は女中に運んでもらうわね。お代わりが欲しかったら、女中に言えばいいわ」
「はい。あの、すみません。忙しいのにわざわざ来てもらって」
「私は大丈夫。むしろ、今日は休んだ方よ」
「あ、そうなんですか? そういえば、なんか顔色良いような……」
茶色の大きな瞳が丸くなる。
自分は少し見つめられただけで顔を真っ赤にするくせに、こうやって私の顔を度々、じっと見つめてくるのだ。
ちょっと照れ臭いが、顔には出さない。
見つめてくるのは、そういう癖なだけだろう。変に照れてしまえば、葉月が慌てて目を
こうして見つめてくる葉月の顔が可愛くて、密かに気に入っている私としては、この空気を壊したくなかった。
「さっき、三郎さんに休めと言われたからね。休むのも仕事の一つよ」
「そっか……よかった」
葉月の顔が
(あぁ……この笑顔だ)
じわりと、眼球の奥が熱くなる。
葉月が気を遣うことなど、何もないのに。
忙しくても、従者じゃなかったとしても、私は葉月に会いたかったのだから。
本当に良くも悪くも、葉月は優しすぎる。
その優しさが、どうしようもなく
「じゃあ、ゆっくり休んでて」
「はい」
襖を閉めて部屋から離れる。再び、廊下に一人きりとなった。
「…………」
見たところ、葉月に大きな変化はない。仕草も、表情も、言動も葉月のままだ。
少なくとも、すぐに何かをする必要はない。
今はまず、目の前の仕事に専念するべきだ。
(……まだ、大丈夫)
何より、葉月の笑顔は変わらず綺麗だ。月の光のように柔らかくて、花のように
『もし、夜長が蘇るなんてことがあったら……あんたはどうする?』
思わず足が止まった。笑顔の
頭にかかり出した黒い
また靄がかかる前に、私は再び歩き出した。
一人きりの部屋は、恐ろしく静かだ。人の声が、遠くから聞こえてくる。
僕がここにいなくても、世界は変わらず回り続けるんだろうな。そんなことを考えている自分に気が付いた。
悲観しているのではない。病室にいた頃に考えていたことが頭を
ふと、病室にいた頃の自分を思い出した。
あの頃は、世界に取り残されるのが当たり前だった。僕にはどうしようもない現実で、受け入れるよりほかなかった。
不思議な話だ。ほんの少し前のことなのに、なんだか遠い昔のように感じる。
(体も、あの頃とは全然違うし)
熱があるというのに、動けるのだ。
これは、驚きを通り越して事件だった。
それで舞い上がった結果、三郎さんには呆れられ、桜さんの前で盛大にこける醜態を
しかも桜さんには、あの夜にも迷惑を――――
「…………あ」
今になって、あの夜のお礼を言い忘れていたことに気付いた。桜さんとの会話が楽しくて、ついのぼせ上がってしまった。
(まぁ、後でいいか。なんか忙しそうだし)
改めてお
お
ふわりと、
お汁粉を、そっと
息で少し冷ましてから、そっと口に含んだ。
「――――――」
待ち望んでいた温かさが、口の中に広がる。
なのに、弾んでいた心は一瞬で冷めた。違和感で、全身が硬直する。
恐る恐る、もう一口だけ食してみる。
「…………え」
おかしい。そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
不味いとか口に合わないとか、そういう単純な話じゃない。
ほくほくと湯気を立てるお汁粉には、小豆の味が全くなかった。
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