第二話「桜人 ーさくらびとー」②

 次に向かったのは、図書館だった。

 この世界の歴史や文化などを知るなら、本から吸収するのが一番手っ取り早いとのこと。もっともな意見だ。


 桜さんが身分証を見せ、木札をもらう。


かしだしふだよ。借りるにしろ、借りないにしろ、ここにいる間は持ち歩かないといけないし、出る時は必ず窓口に返さないといけないわ」

「身分証と札を結び付けて管理するんですね」

「そう。いわば防犯対策ってやつね」


 図書館の貸出カードみたいなものだろう。

 むしろ、貸出カードよりも徹底して管理されている。この世界では、本の盗難も少なくないのかもしれない。


 僕も、桜さんと同じように身分証を見せた。通じるかどうか不安だったけど、少しいぶかしげに見られたくらいで、特に問題なく通った。


 貸出札には、何やら文字が書いてある。おそらく数字だろう。

 だけど、一つだけ分からない文字があった。


「あの、これは……?」


 貸出札の一文字を指す。僕が受け取った貸出札には『参伍弐漆玖壱空漆』と書いてある。僕の知識では『352791空7』としか読めない。


くうよ。いちの前の、無を表す数字。そちらの世界には、そういう概念はない?」

「…………」


 多分、『0』のことだろう。

 そういえば、江戸時代の算術では『0』を表すのに『ゼロ』の他に『空』を使っていたとか、昔読んだ本に書いてあった気がする。


「えっと……あります。ただ、表現も文字も違うものですから」

「そう。なら問題ないわ」


 貸出の権利を得たところで、僕は桜さんと共に図書館の中を歩き始めた。

 劣化した紙の匂いがするのは、元の世界の図書館と変わらない。本に埋もれた場所ならではの匂いに、ついつい頬が緩む。


(この匂いも久しぶりだ。最近、ずっと調子悪くて行けなかったから……)


 みんなと同じように外で遊べない僕にとって、読書は貴重な趣味の一つだった。小説やら漫画やら、時間が許す限りとにかく読みまくった。いつでも本を手元に置いていたので、入院中の夜のさびしさをずいぶんまぎらわせたものだ。


 特に図書館は、お金をかけずに楽しめる最高の娯楽だった。家と病院の近くにそれぞれあったから、調子の良い時には、特に用がなくても足を運んだ。図書館の匂いや静けさも好きなので、館内を歩くだけでも良い気分転換になった。



 そんな久しぶりの図書館だからか、自分でもびっくりするくらい興奮していた。



「わぁ……この世界の本って和装本なんですね。あ、巻物まである!! うわぁ、すごい……! こんな風に手に取るなんて初めて――」

「静かにして」

「すみません……」


 怒られてしまった。

 この世界でも、本を読む場所では静かにするのが常識らしい。そりゃそうか。


 ふと目に入った本のタイトルを見て、思わず「えっ」と声を漏らした。横から桜さんの視線を感じて、慌てて口をつぐむ。


(これ……ひらがなだ)


 身分証や貸出札の数字が全て漢字だったので、中国語のようなものを想像していた。それだけに、心の底から安堵した。


「はい、これ」


 桜さんから本を受け取り、僕は目を丸めた。

 表紙には、ひらがなで『せかいのちり』と書いてあった。そしてこの棚には、地理に関する本が所蔵されている。


(えっと……世界の地理?)


 パラパラとページをめくる。どういうわけか、漢字が数えるほどしかない。


 小学生の社会の教科書でも、さすがにこんなのは見たことがない。ここまでくると幼稚園の絵本みたいだ。内容は至って普通そうなのに。


(そもそも、ひらがなじゃないんだろうな。異世界なんだし)


 仮に、僕の脳内で日本語に翻訳されているのだとしたら、なんでひらがなだらけなんだろう。就学前の子供でもないのに……謎すぎる。


 他にもジャンルごとに、必要最低限の情報が載った本を桜さんに勧められた。

 どれもひらがなだらけだが、全て借りることにした。どのみち知識からは逃げられないのだ。それに、知識を得ること自体は楽しい。



 図書館を出たところで、桜さんが口を開いた。



「そちらの世界では、本はよほど貴重なのね」

「え?」

「展示するだけなんて、ずいぶんともったいない話ね。人の手に渡って読まれるからこそ、本には価値があるのに」


 なんの話か分からなかったが、すぐに「あぁ」と理解した。

 僕が興奮していたのは、巻物や和装本が珍しかったからというだけなのだが、思わぬ誤解を招いてしまったらしい。


「そんなことないですよ。本屋で普通に買えますし、図書館だってありますし。ただ、紙を留めるのに糊とかも使われてて……」


 桜さんが首を傾げる。無理もない。存在しないものを想像するのは至難の業だ。


「……すみません、上手く説明できなくて。実物があるといいんですけどね」

「いいわよ、そんなの。あんたの話を聞くだけで面白いもの」

「マジですかっ?」

「まじよ」


(あ、またノッてくれた!)


「さてと……町の案内はひとまずここまで。これから薬を売りに行くけど、一緒に来る? 患者がいるから、外で待っててもらうことになるけど」

「行きます!」


 それから、医者や薬師の家を何件か回った。

 何もせずに外で突っ立っているだけだが、これが案外楽しい。周りの声や賑わいに耳を傾けると、時々面白い話が聞こえてくるのだ。



 何より体が軽い。こんなに軽いのは何年ぶりだろうと、驚くほどに。



 転生したとはいえ、この体が健康とは限らない。念のため、できるだけ激しい動きは控えているものの、僕としては昨日からかなり動き回っている。それも、自分の足で。もし家族が見ていたら、間違いなく卒倒するだろう。


 それなのにけんたいかんが全くないし、息苦しくもない。これなら多分、外で急に倒れてしまう心配もないだろう。




「……姫……月の……鬼……」




 ふと、女性の囁き声が耳に入ってきた。

 見ると、二人の女性が、何やら内緒話に花を咲かせていた。


「そういえば、変わった髪の色――」


 ふと、女性たちと目が合った。

 二人はなぜか慌てて目をらし、そそくさと立ち去っていった。




「お待たせ」

 



 桜さんの声がして、僕はハッと我に返った。


「どうかしたの?」

「いや、ぼーっとしてたから、ちょっとびっくりしちゃって」

「……疲れたなら、先に帰っていいのよ。まだ何軒か回るし」

「いえ、大丈夫です。行きましょう」


 これ以上心配をかけないよう、僕はとっさに笑顔を取りつくろった。


 今はただ、桜さんと町を歩いていたい。






   ***






 薬を売り終えて餅屋に戻ると、休憩をした後にお勉強タイムに入った。

 桜さん直々の指導なので、本を前に並んで座っている。嬉しいけど、すぐ隣にいると思うと、ほんの少しドキドキする。


 騒がしい心音を頭の中から追い払って、目の前の本に集中する。


(……やっぱり、子供向けの絵本みたいだ)

 

 改めて読んでみて、圧倒的なひらがなの多さに驚くほかなかった。漢字が使用されているのは名詞や数字などと、ごく一部だけだ。


「この世界では、漢字はあまり使わないんですね。ひらがなだらけで驚きました」

「かんじ? ひらがな?」


(あ、やっぱりその言い方じゃ通じないか)


「えっと、この文字のことなんですけど……これが漢字で、これがひらがなです」


 僕は、漢字とひらがなをそれぞれ指した。


「あぁ……づきの世界ではそう呼ぶのね」

「やっぱり、この世界では違うんですか?」

「えぇ。葉月が『かんじ』と言ったこの文字は『とう』よ。東の文字。そして『ひらがな』と言った方は『西にし』。西の文字よ」


 桜さんが、漢字とひらがなを指しながら説明する。言わんとしていることは分かるけど、なんだか変な感じだ。


「じゃあ……」


 勉強タイムの前に用意した紙と筆で、僕の名前をカタカナとローマ字で書いていく。異世界でカタカナとローマ字を書くって、なんだか新鮮だ。


 書き終えたところで、桜さんを見る。

 桜さんが興味深そうに目を丸めて、僕の書いた文字を見つめていた。


(うわ……)


 とくんと、胸が小さく音を立てる。

 のどから込み上げてきた言葉を飲んで、桜さんに問いかけた。


「こういう文字はあります? カタカナとローマ字なんですけど」

「いいえ、初めて見るわ。この世界の文字は、今説明した二つのみよ」

「そうですか」


 やはりそうかと合点がいった。借りてきた本を見る限り、漢字とひらがなの二種類しか見受けられないのだ。


「なんて書いてあるの?」

「どっちも僕の名前です。こっちがカタカナで、こっちがローマ字表記です。普通は漢字で、たまにひらがなを使うんですけど」


 今度は漢字とひらがなで、僕の名前を書いた。


 それをまたもや、桜さんが大きな目を丸々と開いてのぞき込んでいる。凛とした彼女はどこへやら、幼い子供の眼差しそのものだ。



(なんか、ちょっと可愛い……)



「かんじにひらがな、かたかな、ろーま字……ずいぶんとたくさんの文字を使うのね」

「あぁ、言われてみれば確かにそうですね。僕の母国の言葉って、元の世界で難しい言語だと言われてましたし」

「でしょうね。じゃあ、話を戻すわよ」


 瞬時に、凛とした顔に戻った。

 あれほど興味津々だったのに、驚くほど切り替えの早い桜さんだった。


 僕としては正直、桜さんが目を丸くする様子をもっと見ていたかったが、僕の世界の文字の話を続けても仕方がない。



 今、知るべきはこの世界の常識だ。



「東字と西字はその名の通り、かつては東と西でそれぞれ使われていた文字だったの。今は混ざり合っているけど、見ての通り、使用される比率には差があるわ」

「確かに、ひら……西字が圧倒的に多いですね」

「この国が西に属していて、西にしが母国語だからよ。東字は、名詞や数といったごく一部でしか使われないわ」


 つまり、西に属するこの国では、ひらがなだらけが通常運転ということか。


 最初にひらがなを目にした時は安心したけど、ここまで多いと逆に読みにくい。まぁ、読めるだけありがたい話だろう。


「西語って……確か、僕らが今話している言葉でしたっけ?」

「えぇ。西の言葉だから『西語』。そして東の言葉は『とう』よ」

「なるほど」



 ひらがなは西の文字だから『西字』。

 漢字は東の文字だから『東字』。

 言語はそれぞれ『西語』と『東語』。


 この国は西に属するから、主に使われるのは『西字』と『西語』ということか。



(漢字が東の文字ということは……東語は中国語みたいな感じなのかな?)


 日本の方が東なので、なんだか違和感がある。そもそも、この世界のことなので日本も中国も関係ないけど。



 桜さんがページをめくり、地図らしきものが描かれたところを開いた。


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