秘密のギンブナをつかまえて

鈴木松尾

秘密のギンブナをつかまえて

 目を閉じ耳を塞ぎ口をつぐんで、誰にも近付かない事に決めた。あなたから「それは幸福度が下がる生き方だよ。そういう論文があるよ。外交性が…」と何回か言われた。分かる。あなたの気持ちと私の気持ちは通じ合っている。けど


「主観的な思いは統計上の問題ではない」

「え、何?」

「金魚、たくさんいるね」

「そうだね、壁が全体的に黒いし照明の当て方で映えるよね。今年も開催されて良かったよね」


 商業施設の四階のフロア全体が黒を基調とした床と壁で構成されていて、モバイルチケットをかざして入室するとそこはガラス工芸品を思わせる水槽が幾つも有った。よく見る金魚鉢やひし形を組み合わせた幾何学構造の金魚鉢が様々有り、LEDの光で色んな角度から照らされている金魚達。一方でレトロな絵柄が描かれている睡蓮鉢の水槽が一定の距離を持って配置されて、その水中を宛所なく往復する4匹ずつの金魚。一つ一つを鑑賞して進むと巨大な球型の水槽、天井の方から床まで続く縦長の水槽、浅く折って奥行きを出している屏風の水槽、花びらを模した水槽、それぞれでその大きさに合わせたたくさんの金魚が居て、前後上下に彷徨(さまよ)っている。底に敷き詰まっているガラス玉越しにアッパーライトが通り抜ける。透過する光は金魚の体色を引き立て、私の目には橙掛かった赤、漆黒、輝く黄、泳ぎによって濃淡が変わる白、光源の色々と角度でそれぞれの表面の体色を変化させて虹のように映る。金魚達の本当の体の色と見分けが付かなかった。もしかしたらギンブナの幼魚に人工の光を当てているかも知れない。この水槽の一つ一つがこのミュージアムでは作品と呼ばれていた。順路はなくなり、広いスペースに複数の水槽が配置されている。鑑賞している私達は時に同じ水槽の前を行ったり来たりして巡行している。上から見たら私達も金魚のように見えるだろうか。中央にある球型の大水槽は上部がガラスで密閉されていて、丸い気泡が何列か規則的に連続して、下から浮き上がって上の方で消失したように見える。その中を左右に金魚は行き交う。私の息も詰まりそうだった。


「そう?」

「来たくなかったの?」

「正直に言ったら怒ると思って言えなかった」

「えー何?じゃあ帰る?言ってよ」

「最後まで見るよ。自分の気持ちを確かめたいから来たの。イベント自体には興味がなかったよ」

「最悪。それ深刻な話?」

「このイベントに行きたいかどうかの自分の気持ちの事」

「付き合いの良し悪しって事?」

「そうだね」


 私が確かめたかった気持ちは、秘密の金魚と過ごしたい、ことだった。あなたに秘密の金魚の話をして遮りたかったのだ。


「秘密の金魚って話、知ってる?」

「知らない。何それ?」

「この金魚を買って帰ったらどうする?」

「買えるの?ここの金魚。郁(かおる)のギンブナの水槽に入れて平気なの?」

「知らない」


「買ったらどうする?」

「うーん分からない」

「買って、一週間後、金魚の事を思い出したらどうする?」

「金魚、どうなったって聞く」

「そのとき金魚の事を教えなかったらどうする?」

「腹立つ」

「何にイライラする?この態度?それとも金魚の安否?もしそのとき、自分のお金で買った金魚だからって言って教えなかったらどうする?」

「どうしたの?」

「どうもしない。そういうお話なんだ」


 金魚を見せてくれない理由はその作中作を読んでも分からなかった。けど私の理由も同じだった。分かって欲しくない。金魚を見せない理由の中に入れ子になって遮りたかった理由は多分、通じ合える気持ちだと思う。それでも解放しない。共感が要らないの。あなたが私に共感を伝える言葉を持っていない気がするし、私は自分の気持ちを自分なりの言葉で通じたり、思い入れたいの。あなたの言葉は、私の中で詰まらない。だって気持ちが入っているように思えないから。どこかで聞いて鵜呑みにした言葉をそのまま嘔吐して差し出すから気持ち悪いの。どこかで聞いてもいいから、ありふれていてもあなたらしい気持ちを入れてくれてたら、どんなに伝わるのかきっとあなたは知らない。言葉はたくさん存在する。あなたが興味ない事であれば私もどうも思わないけど、あなたから誘ったこのアクアリウムであなたは「金魚しか勝たん」を何度も言っていた。あなたが照らす言葉は少ない。和歌山に関係ないあなたの体には何も詰まっていない。あなたが使う言葉であなたのものの見方が分かる気がする。何でもいいのね。

 あなたには秘密にしたい、愛犬の死。あなたにあの子の容体を聞かれたくない。私にとってあの子は特別だった。あの子の事を、あなた以外の人から言われた言葉から、あなたが言いそうな事に予想がつくの。「新しい犬を飼ったらどう?」って言うでしょう?いきなり言わないにしても、死を伝えた会話の途中でそう話してきたり、もしかしたら「新しい犬を飼う」とあなただけが結論を付けてしまうかも知れない。そしたら折りに触れ「次の犬は飼わないの?」とか「次の犬は何にするの?」って聞いてくるでしょう?近所を歩いているとそう聞かれる。次の犬、次のペット、次の作品。録音された言葉が何度も再生される。それが目に見えているし、あなたが他人と共有している科白(せりふ)も聞こえるし、それでも私はこの事だけは本音を言う。ロッキーの代わりはいないの。ロッキーと私はひとりずつなの。それを誰かに期待して強制してお願いするのはわがままだって分かってる。だから、これからは目を閉じ耳を塞ぎ口をつぐんでひとりで偲ぶの。

 ロッキーの体は、自宅から車で三十分の所にある工業地帯の海に行って、そこで業者に火葬してもらった。その日は晴れたり曇ったり雨が降ったりしていた。何にでもなる天候だった。あの子の爪とか歯はそのままの形で燃え残っていた。自宅であの子の物を片付けていると、あの子の白い毛がたくさん出て来た。その何本かをジップが付いた透明な小袋に入れておいた。何年か後、もしかしたらクローンで再生できるかも知れないし、そのクローンは本当にロッキーか分からないけど、そうせずには居られなかった。ロッキーがよく居たカーペットに横になってロッキーの残り香を嗅ぐ。そこからロッキーがよく見ていたギンブナの水槽を見る。鱗の色が緩く流れたり、急になったりするのをあの丸い目でどう見ていたんだろうか。ここで私が玄関に近づく足音に聞き耳を立ててたりしたの?玄関の前で鍵を持つと決まって鳴き声が聞こえてた。淋しい私は今、あの子の真似をしてる。

 そうして過ごしていてもいつかあなたにもバレると思って、事の顛末を手紙にした。書いている途中で「ボク」を「私」に書き直した。その返事であのイベントに誘ってくれたんだよね。映画のこともきっとそうだって分かってる。心配してくれているんだよね。ロッキーが死んだことで私が悲しむだろうって思ってくれてる。けどあなたを含めて、周りの人達にそう思われたくなかった。


「何か観たい映画、ある?」

「あるよ」

「行かない?」

「ありがとう」


「観たい映画はひとりで行くことにしてる」

「じゃあそれ程観たくない映画は?」

「観ない」


もう確かめる必要がない。だって私はもう十分悲しいんだもん。

                                     完

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