胡蝶

増田朋美

胡蝶

その日も、寒くなって、外へ出るのにはコートが必要なくらいだった。もう室内でもカーディガンが無いとダメだし、一気に冬がやってきてしまったようである。全く春と秋が消滅してしまいそうな、そんな時代がやってくるのかもしれない。

その日、杉ちゃんは、自宅内で着物を縫っていた。暇さえあれば、着物を縫っているのが杉ちゃんというものである。まあ外国では、仕立て屋七人で一人の男なんていう言葉もあるようであるが、杉ちゃんの場合、ひ弱そうな人物という事はなさそうである。ちょうど其時、

「杉ちゃん、ちょっとお尋ねしたい事があるんですが。」

と、インターフォンがなった。杉ちゃんは縫い物をやめて、急いで玄関先へ行く。

「はい。何でしょうか。玄関のドアを開けてもいいよ。」

と、いうと、はい、そうさせていただきますと言って、玄関のドアがギイと開いて、はいってきたのは、小久保さんであった。

「ああ、小久保さんか。まあ、まず上がれ。ここで、話していても仕方ないから。」

「お邪魔します。」

と、小久保さんは靴を脱いで、杉ちゃんと一緒に家にはいって、居間に入った。

「一体今日はどうしたのよ。なにかあったの?」

と杉ちゃんは、小久保さんにお茶を出しながら、そう聞くと、

「いえ、大したことじゃありません。実はこの度、堂島夢子さん、この間、息子の堂島明くんを殺害しようとして逮捕された女性の、弁護を引き受けることになりました。まあ、儲からない国選ですが、それでも、与えられた事は、ちゃんとやらなければなりませんからね。断るわけには行きません。」

と、小久保さんは答えた。

「はあ、あの、堂島明くんのお母さんか。あのお母さんは、本当に、あの少年を殺害しようとしたんだろうかな。」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。そこが、彼女に対する争点だと思っております。彼女が、本当に明確な殺意があったのか。そこが問題です。何度か、彼女に対して接見をしましたが、言葉が通じないとか、そのような事はありませんでした。ちゃんと僕の質問にしっかり答えていましたし。」

と、小久保さんは答えた。

「はあなるほど。つまり、おかしな精神疾患とかそういうものはなかったというわけね。」

と、杉ちゃんが言った。

「はい。まあ、一応精神鑑定もお願いしようと思っていますが、それでも、心神耗弱では無いと診断がつくと思います。」

小久保さんは、そういった。つまり、彼女は、正気のままで、息子であるはずの、明くんを殺害しようとしたということになる。

「それで、杉ちゃんにはじめて会った時、明くんは、あなたにお母さんに暴力を振るわれていたと口にしたりしましたか?」

と、小久保さんが聞いた。

「いや、それはなかったな。無我夢中でカレーを食べてて、お母さんの事は何もいわなかった。」

と、杉ちゃんは、小久保さんにそう証言した。

「そうですか、それはわかりました。自分の被害を訴える事も忘れていたということでしょうか?」

「そうだねえ。そうかも知れない。多分、腹が減ってて、どうしようもなかったんじゃあないかな。」

小久保さんはそう言うと、杉ちゃんは、即答した。小久保さんは、急いで、手帳にその事を書いた。

「それで、明くんは、どうしてるの?あの、立候補者に預かってもらってて。」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ。明くんは、水野重治さんのところで暮らしています。でも、重治さんが、彼が毎日のように頭痛を訴えるので、病院につれていきましたところ、脳に血腫が有ることがわかりましてね。今、病院に通ってるそうです。ということは、彼はもしかしたら、日常的に虐待があったということも、もしかしたら、あるかもしれません。その辺りは、まず、彼女を調べてみないとなんともいえませんが。」

と小久保さんは言った。

「病院ってどこの病院だ?ちゃんと医療を受けさせてもらっているのかな。それは、ちゃんとやってもらわないと困るからね。」

「はい、お答えしましょう。富士市の富士駅近くにある、池上小児科ですよ。そこの小児科に通っているそうです。」

小久保さんは、弁護士らしく淡々と言った。

「そうか。富士駅なら、すぐ近くだよな。じゃあ、急いで行ってこよう。」

と、出かける支度を始めてしまう杉ちゃんに、小久保さんは、呆れてしまったのである。どうしてそういう事をしてしまうのかなと、やれやれと、呆れた顔をして、小久保さんは、杉ちゃんと一緒に行くことにした。

「池上小児科といえば、僕、着物の仕立てを申し込んできたお母さんに聞いたことがあった。すごく丁寧に見てくれるんだってな。それを選んでくれたんだったら、たしかにしっかりケアしてあげられる人だと思うけど。医者は、完璧じゃないからねえ。」

小久保さんが用意してくれたタクシーで、杉ちゃんと、小久保さんは、池上小児科に行った。池上小児科は、重い障害を持った子どもたちが、何人か通っていて、その世話をしているお母さんたちのちょっとした社交場になっている。杉ちゃんたちが病院の建物に入ると、一人の女の子が、診察室から出てきたのであった。両親も一緒である。ピンクの制服をきた看護師が、彼女に、

「今日は、良かったね。これからおくすり減らせて、本当に良かった。これからまた、先生の言うこと聞いて、一生懸命やっていこうね。」

と、言っている。ということは、回復して良かったなと言うことだろう。ほかの、患者さんのお母さんも、あきちゃん良かったね、なんて言っているので、そういうことでもあるんだろう。それをほかの子どもたちはどう見ているのかなと杉ちゃんは呟いた。それと同時に、待合室の端の席に座っていた、小さな男の子が、

「あ、杉ちゃんだ!」

と、言った。杉ちゃんも、すぐに分かったようで、

「おう、明くん。」

と、言った。すぐに、彼は、杉ちゃんの方に駆け寄ろうとしたが、一緒にいた女性が、

「明くん、まだ体が良くなってないから、走っちゃだめよ。」

と、言ってそれを止めた。多分、水野さんが雇っている家政婦さんとか、メイドさんとか、そういう人だろう。

「杉ちゃん。また、カレーを作って。」

明くんは、可愛らしく言った。

「ああいいよ。カレーなら、なんぼでも作ってやるから、思いっきり食べや。で、おばさん、彼の事はどうだったんですかね。少し良かったんでしょうか?」

そういう杉ちゃんに、家政婦さんは変な人だなと思ったのか、ちょっとびっくりしたのであるが、

「いやあ、この人は悪い人ではありません。ただの仕立て屋さんです。」

と、小久保さんが急いで訂正した。

「ええ、少し前に診察は終わりました。引き続き経過観察ということになりました。」

「そうなのか。じゃあ、カレーを食べてもいいのかな?」

杉ちゃんがいうと、

「ええ、食べ物に制限は特に無いそうです。」

「じゃあ、薬をもらってから、ちょっと僕達と一緒に、遊びに行かない?僕は、悪いようにはしないから。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑ってそんな事を言った。

「なんですか。あなたは、なにか明くんにしようとしているんですか?明くん、やっと、ひどい、」

と家政婦さんは言いかけるが、

「ああ、気にしなくていいの。大人ってものは、怖いやつばかりじゃないって、こいつに教えてやりたいんだよ。こいつはきっと、怖い大人しか知らないだろうからな。世の中は、いいやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでも無いって事を、知らせてやりたいわけ。」

と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「じゃあ、僕が彼をしばらく預かります。家政婦さんは、ご自身の仕事をしてくれ。」

「わかりました。じゃあ、お願いします。」

それと同時に、堂島明くんという声がした。この病院では、薬局も併設されているのである。家政婦さんは、処方された薬をもらって、杉ちゃんに。よろしくおねがいしますといった。明くんは、杉ちゃんと一緒に病院を出て、とても楽しそうであった。それを眺めている小久保さんが、

「いいですね。子供は気持ちの切り替えがはやい。杉ちゃんもまた切り替えが速いですな。」

と、にこやかに笑っていった。杉ちゃんの方は、明くんと一緒に、病院の前に止まっていたタクシーに乗って、多分製鉄所にでも行くのだろう。明くんは、いいやつばかりじゃないけど悪いやつばかりでも無いと思ってくれるだろうか。

一方その頃。

「蝶を入れるということですか?」

と、蘭は客の前でそういう事を言った。客は、三十代くらいの若い女性で、まあ蘭のところにやってくるのは、だいたいこの年代の女性であることは、多いのであるが。

「ええ、腕に、大きな蝶を入れてもらえませんか。私がちゃんと見えるところに入れてください。もうこの右手に、手をあげるのを止めさせるために。」

と、女性は言うのだった。

「はあ、手を挙げるですか。それはどういう意味でしょうか。例えば自傷行為をするとか、そういうことですか?それとも、ほかになにか理由があるんですか?」

と蘭が、思わず聞くと、

「いえ、自傷行為だったら、ここまできません。自分で自分を殴るんだったら、まだいいほうです。それだったら、危害を与えることはありませんもの。」

と女性は答えるのだった。

「どういう、、、ことですかね?」

と蘭が言うと、

「ええ、警察になにかいわれる前に、私は、変わらなきゃいけないんです。私、もしかしたら、警察に捕まってしまうかもしれません。この間、私と同じくらいのお母さんで、息子さんを餓死させようとしたという事件があったじゃないですか。それと同じことをしているんです。どうして自分はこうなんだろう、って、何回も自問自答しているんですけど。どうしても、子供がぐずったり、モタモタしたりしていると手をあげてしまって、、、。」

と彼女は答えるのである。

「あの事件がテレビで報道されるようになってから、私余計に自分が近所の人なんかに見られているんじゃないかって、余計に不安になるんです。」

まあ確かにそうである。テレビは、ここぞとばかり徹底的にその女性が悪いと報道するだろう。蘭も、そこまで報道しなくていいのにと思う。こういうふうに自分も同じなのではないかと不安に思ってしまう女性も出てしまうのだ。それは、ほかの犯罪でもそうである。蘭のもとにも、働いていないので犯罪を犯してしまうのではないかと恐怖に苛まされる女性が来たことがある。

「しかも、それをだれもわかってくれないんです。私が、不安に思っているのは、当たり前だとか、そうしなくちゃだめだというふうに見られるんです。確かに私は、あの少年のお母さんと境遇は似ています。実際、あの子には手を出してしまった事も確かにありましたから。だから、近所の人たちは、あの事件が報道されすぎてしまったせいで、私もあの事件と同じことを起こすのではという顔で見るんです。この苦しい気持ちをだれもわかってくれない。」

「でも、あなたはあの女性と違って、看護師では無いですし、別の世界で生きている女性ですよ。」

早口でまくし立てる女性に、蘭は、そういったのであるが、

「いいえ、そういう事は見ないで、同じ様な人は、同じような事をするのが当たり前だと皆さん思っているでしょう。だから、私が、そう思われていて、こんなに苦しいのは当たり前のことで、もうだれもわかってくれない。それは、私があの事件の母親と同じ境遇、つまり息子と二人だけで過ごしているからです。」

と彼女は言うのだった。もしかしたら彼女は、精神疾患などを持っている可能性があるきがした。まあでもとにかくテレビというのはそれだけ身近になりすぎて居る道具だと言えるだろう。

「そうですね。確かにそう思ってしまわれても、不思議ではないほど、報道されていると思います。あなたが、不安に思っても不思議ではないですよ。ほんと、日本って自由があるように見えるけど、テレビやほかのメディアを利用して、こうあるべきというのを押し付けて居るところがありますからね。多様化とはいわれますけれど、それは、どうかなと確かに思いますよ。いくら、いろんな人が居ると言っても、正しい生き方は、こうだとテレビを通して押し付けているんじゃないでしょうか。」

蘭は、彼女の言っている事を認めた。それは、仕方ない事かもしれないが、でも、日本の社会というのは、そうなっている。ちょっとでも、違っているところがあると、それを理由にして、はじき出そうとする。

「だから私、二度とそういう事をしないように、彫たつ先生に注意の印として、彫っていただきたいんですよ。私も、一度だけですけど、そういう事した事あるから。それだって立派な理由になりますよね。だからもうしないようにって。」

蘭は、彼女の話を聞いて、父親はどこに居るのかなと思ったが、多分彼女は眼中にないというか、もう信じられなくなっているのだろうなと思った。そういうことなら、彼女に、いくら相手をなんとかしろといっても難しいだろう。そのあたりは、はっきりさせて置いたほうがいいと思った。彼女には、父親である男性を頼ることはできないのなら、のぞみを叶えてやったほうがいい。

「わかりました。わかりましたよ。じゃあ、ご希望の通り彫りますよ。ですが、ちょっと、お願いではあるんですけどね。蝶柄というのは、今では良い柄とされることもあるけれど、昔は、弱い意志とか、短命であるので縁起が悪いという事を表す柄でもあったんです。今でも、着物の柄などに描かれていると、縁起が悪いと言ってくる人もいます。それは避けたほうがいいのではないでしょうか。それより、強い意思を表すトンボとか、母性愛の象徴である、あじさいとか、そういうものを彫ったほうがいいと思いますが、いかがでしょう?」

と、蘭はそう言ってみた。彼女に対する、自分の思いだった。彼女がそのために刺青を彫りに来たのなら、縁起がわるいとされているものは彫らないほうがいいと思ったのだ。日本の柄というのは非常に複雑で、良いと解釈されることもあれば悪いと解釈されることもある。蝶柄ばかりではない。梅や、椿、桜、藤なども縁起が悪いという解釈をされることがある。梅はこぼれる、椿は落ちる、桜は散る、藤は下がるというニュアンスがあるからだという。

「わかりました。じゃああじさいを彫ってください。私が、あの事件の容疑者と、同じ環境であることは、変えることはできませんから、私はこれからも、白い目でにらまれ続ける生活をしていかなきゃならないでしょうし。だから、少しでも自分を大切にするためもお願いします。」

そう言って、彼女は腕をめくった。蘭はわかりましたと言って、とりあえず、筋彫しましょうかと言って、彼女の腕にのみを刺し始めた。もちろん手彫りであるから、非常に時間のかかるものであるが、それは彼女も承知してくれていることだろう。蘭は、そうなってくれたのだから、精一杯彫ることが自分の役目だと思っている。刺青を彫るということは、自傷行為を消す役割もするが、一種のシンボルマークみたいなものでもある。それを、吉とするか凶とするかは、本人次第だが蘭は、それをすごいことだと思っている。

一方その頃、製鉄所では。

「はあ、相変わらずすごい食欲でカレーを食べるんだな。お前さんはよほどカレーが好きだね。」

と、杉ちゃんがいうほど、明くんはものすごい勢いでカレーを食べていた。

「うん、だってカレーなんて、作って貰えなかったもん。」

と口にカレーを頬張って食べながら、明くんはそういう事を言う。

「はあそうか。なんでカレーを作って貰えなかったの?」

と杉ちゃんが聞くと、

「わかんない、僕のママは、いつもいないから。どうせ帰ってきてって言っても無駄だからさ。」

と明くんは答えるのだ。本当は、こういう感情はおとなになってから言うものなのに、子供がそういう事を言うなんて、なんとも哀れな子供だなと杉ちゃんは思った。

「そうなんですね、あなたのお母さんは、看護師をしていて、それで精一杯だったと考えるべきなのかな?」

と、となりに座っていた、ジョチさんが、明くんに聞いた。

「ほかにもなにか思い当たるふしはありませんか?看護師の仕事がやたら忙しかっただけでは無いでしょう。それは、あなたも心当たりあるのでは無いですか?」

「そんな難しい言い方するな。お前さんのお母ちゃんは、看護師の仕事のほかに、誰か付き合っているやつがいて、そいつに夢中になりすぎて、お前さんのこと忘れていたんじゃないのか?」

杉ちゃんが、単刀直入に聞くと、

「そこまではわからないけど、僕、ママが知らないおじさんの車に乗って帰ってきたのは見たことがあるよ。」

と、明くんは答えた。

「なるほど、その交際相手は、あなたのことを、なにか言っていましたか?付き合うのに邪魔だから消してしまえとか、そういうことです。」

ジョチさんが、明くんにそう言うと、明くんは、

「わかんない。」

と、だけ答えたのであった。ということは、交際相手から虐待されることはなかったのかなとジョチさんは考え直した。でも、それは、明くんの前で言うべきことではないと思い、口にはしなかった。

「杉ちゃん、おかわり!」

と、明くんが杉ちゃんにお皿を差し出したので、

「はいよはいよ。」

と杉ちゃんは、再度カレーをうつわにもって、彼の前に差し出した。明くんはまたガツガツとカレーを食べ始めた。

「いずれにしても、明くんのお母ちゃんは、小久保さんたちによって裁かれるだろうな。」

と、杉ちゃんは思わずつぶやく。

「そうですね。正当な判決が出てくれればいいんですけど。彼には、少々荷が重たすぎる事かもしれないですね。」

と、ジョチさんは、無我夢中で食べ続けている明くんの顔を見て、ちょっとため息を付いた。

杉ちゃんたちの心配を他所に、秋の青空は、雲が浮いていた。秋空は、風を運んでいった。








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胡蝶 増田朋美 @masubuchi4996

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