お風呂場の完全犯罪

@sphericalcow

第1話

「ねーねー、ちょっと来て。お風呂のお湯がくさい。」

いつもと変わらない土曜日の朝のはずだったが、この日は何かが違っていた。急いで風呂場に向かうと、妻が残り湯で満たされた湯船を覗き込んでいる。


普段であれば、湯船に湯を張る日であっても、夫婦両方の入浴が終わった後は、必ず湯を抜くことにしているが、前日の夜に大きな地震があったので、大きな余震が来た時のことを考え、念のため水を溜めていたのだった。


私は慢性的な鼻詰まりに悩まされているため、嗅覚は鈍いほうだ。そんな私でも、シャンプーと汗が混じったような発酵臭が、換気ファンの働きなのか、うっすらと浴室全体に広がっているのがわかった。顔を湯に近づけようとすると、汚いからやめろということなのか、手で制止された。


「確かに変なにおいがするね。」

「寝てる間に水が腐っちゃったのかな?」

「うーん、一日置くだけで、菌が百倍、千倍に繁殖するから仕方ないよ。しかも二人入った後だからね……。掃除しとくよ」


私はたまたま、一週間ほど前に、風呂水の洗濯への利用を検討していたとき、湯を放置することで菌が増殖するという内容の記事を読んでいたのであった。


妻は、若干腑に落ちていないような顔ではあったが、

「んー、じゃあよろしく。私は食器洗って掃除機かけるから」

と言って去っていった。


私は早速、浴槽の栓を抜き、掃除に取り掛かることにした。湯船の中に入りこみ、スポンジにたっぷりと洗剤を染み込ませ、いつもよりも丁寧に湯船を磨き上げた。そして、シャワーで泡を洗い流し、壁面がツルツルになっているのを掌で確かめて達成感に浸ったが、すぐに、違和感を覚えて固まった。


あの臭いが消えていない。


これは、おかしい。トリュフを探す豚のように浴槽内を嗅ぎ回り、念には念を入れて排水溝まで確認したが、無臭である。となると、実は……残り湯と臭いは関係がない?


妻の発言を疑うことなく、すっかり、湯が臭っていると決めつけていた。他に理由はないものか……。顔を上げて当たりを見回すと、あるものに視線が吸い込まれていった。


それは、浴槽の上に設置されているランドリーパイプに掛けてある、私のボディタオルであった。私は以前、臭くなるのを防ぐため、ボディタオルの水を切るように注意されていた。


まさか……。おそるおそる近づいていくと、臭いが強くなっていく。手に取ると少し湿っていて、鼻を近づけると疑惑は確信へと変わった。今までの疑問のピースが一つのパズルに組み上がる瞬間だった。


昨日は入浴中、地震が起きた時の避難場所や非常食などについて考え事をしていたため、水切りが不十分となり、生乾きの状態になり臭くなってしまったのだ。


念の為、横に掛かっているもう一つのボディタオルを嗅いだ。どこかで、お湯を溜めていたことで浴室内の湿度が上昇し、菌が増殖しやすい環境になってしまっただけで、自分の不注意ではないのではないか、妻が利用している方のタオルも臭くなっていれば自分だけのせいではない、と限りなく可能性の低い逃げ道を探す気持ちがあったのだ。勿論、そんなはずがないことは自分でも分かっている。案の定、妻のボディタオルの臭いは私のものに比べるとほんの僅かであった。犯人は私であることに間違いはなかった。


しかし、私に取って幸いなことに、妻は勘違いをしており真実には気づいていない。おそらく妻は昨日地震があったために深く原因を追求せず早合点したのだろう。珍しいことだ。


何をごちゃごちゃ言っているんだ、すぐに正直に言ったらいいじゃない、と思うかもしれない。しかし、私は生まれながらに注意が散漫な節があり、入浴関連のミスに限ったとしても、掃除した後に泡を十分に洗い流すことを怠り、湯を泡だらけにしたり、ドアを半開きにしたままカビ取り用の煙を発生させて部屋をモクモクにしたりしているのであり、これ以上の失態を見せられないのである。


唯一の証拠である、このボディタオルの臭いさえ消してしまえば、それ以上真実を追求することはできなくなる。昨日、地震があった。今日、お風呂場が臭くなっていた。その後、掃除をしたら、その匂いは消えた。それでいいじゃないか。


そうと決まればやることは一つ、証拠の隠蔽である。音を立てないように、そっと浴室のドアを開け、手桶に洗濯用洗剤をこれまた静かにプッシュしてすぐ浴室に戻る。もたもたしていてはなんでそんなに掃除に時間が掛かるのか、疑問に思われてしまう。


ところが、繊維に菌が染み込んでいるのか、揉んだり擦ったりしても悪臭はなかなか落ちない。焦りでじんわりと汗が滲んでくる。衣服に付いてしまった返り血を洗い流している時の殺人鬼も、同じような気持ちなのだろうか。私は祈るような気持ちでボディタオルをこすり合わせ続けていた。


すると突然、背後でガタン、と音がした。

「なにしてるのー?」

ぎょっとして振り向くと、浴室のドアの隙間から妻がこちらを覗いている。馬鹿な。掃除中に様子を見に来ることなど今まで一度もなかったのに。勿論、手元を隠す余裕など、ある訳がない。盗み食いが発覚した子供のような情けなさである。


「湯船を掃除しても臭いままだったから、おかしいと思ったら実はボディタオルが臭かった……」

と半ばヤケクソになって笑いながら白状すると、私の馬鹿さ加減に呆れたのか、妻も笑っている。助かったのかもしれない。

「わたしに隠そうとしたって、全部お見通しだからね」

「それにしても、なんで分かったの?」

「音がしなくなったから掃除が終わったと思ったのに、なかなか戻ってこないから、変だと思って」

自分の作戦は、完全に裏目に出ていたようである。しばらく、妻には頭が上がらない状態は続きそうだ。



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