おばけがい
繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)
第1話
けっして良い天気とは言えなかったのだけれど、降り出しそうな空を尻目に、ヤドカリは出かけた。ここ数日は降ったりやんだり、空はぐずつきご機嫌ナナメ。入り江に寄せては返す波。渦巻きてっぺんゆらしながら、「よし今だ」とヤドカリは歩いた。
そこは小さな入り江であった。黒くて大きな流木が、座礁し動けぬご様子は、気の毒かな、格好の見世物。ことさら砂の国の目を引いた。「いったいどこから来たのだろう?」「検討もつかぬ遠国からだ!」すでにフナムシどもが集まってきて、わいわい海端会議を始め、静かに眠れる木について、話に花を咲かせていた。ヤドカリはいかにも興味がなさそうに「フン」と鼻を鳴らすと、きびすを返した。
このヤドカリは気難しかった。我こそが、かしこいヤドカリ。常日頃からそう思っていたのだ。だから、何にしても空想ぎらい。答えの知れぬおしゃべりに、意味を見出しかねたのだ。そんな折、きまじめにコツコツ、エサを探すヤドカリは、海からだんだん離れてきた。気づいたときにはコンクリの上。
不意にうしろからガツン!と来た。背中にじゃりじゃりと嫌な感触。背負っていた貝の家に、大きな穴と、するどいヒビ。
「ああ、ああ、吾が輩の住まいが!これでは引っ込もうにも引っ込められぬ!」
「おお、これは悪いことをした。けとばしてしまって。君、ケガはなかったかな?」
上から声をかけたのは、通りがかりのおじいさん。がっかりしているヤドカリを、おじいさんは気の毒に思った。何か代わりになるものは…?おじいさんはふと思い出して、黒いスーツの胸ポッケから、お弁当に入っていた、サザエ貝を引っ張り出した。
「白くて美しいこの貝殻。作り物かと思ったが、どうやらそうではないらしい。あまりにきれいだったので、飾ろうとすすいで持ってきていた。これなら都合もよいでしょう。」
おじいさんは、ひとたび耳にあてがうと、ヤドカリの前にコトン、と差し出した。
「人間はこう伝え聞くのです。〈波の音が聞きたくなったら、巻貝を耳にあてなさい。〉いざこうして入り江に臨むと、なるほど、これは納得です。貝殻に住んでいる小さな子よ。どうかこれにてご勘弁。」
去ってゆくおじいさんの言葉、ヤドカリにはこれっぽっちもひびかない。
「そんなわけがないだろう。海に住んでいる僕を前に、貝殻に住んでいる僕を前に!ヘンテコなことを言うじいさんだ。」
慣れ親しんだ家が壊され、ヘソを曲げたヤドカリは、引っ越しを終えた後でさえ、いつまでもぷりぷりと怒っていた。
さあその夜、ご飯を食べ終わったヤドカリは、砂にうずまってじっとした。目の前の海はやかましく、ざあざあざあとご乱心。そんな雨と風にぬれながら、どこかからか細い声が聞こえてくる。だんだん声は近づいて、「恨めしや~恨めしや~。」いつの間にかすぐそばで、聞こえるのだから堪らない。
「まさか、もらった殻の中から?」
慌てて中をまさぐっても、貝殻には何もいなかった。だが、気味の悪いことに、確かに奥から声はする。
「おい、誰だ!何がそんなに恨めしいのだ。何がそれほど、気に食わないのだ。お前はいったい誰なんだ!?」
泥が水に滲むように、声は絡みついてくる。これほど恐ろしいものがあるのかと、かわいそうなヤドカリは縮み上がった。
「美しく仕立てた私の殻。三途の川を渡るなら、これもしかと持っていく。誰かにくれてなどやるものか。恨めしい、離れろ離れろ。」
ヤドカリは踏ん張るあまり、体が動かなくなって、海の中に沈んでいくようだった。何があるわけでもない。魚が通りかかるわけでもない。ただ、海中から水面を見ると、小さい泡が、壁のような光の中に、向かって昇っていくだけだった。
「さむいのか、あたたかいのかさえ分からない。ただ、もし深い海の砂の中にいたらば、こんな音が聞こえるのだろうか。緑色の水に混ざりながら、分かれて、踊って、昇っていく、銀色の泡の星。きれいだな。」
海底のゴオオオという音が、ヤドカリの頭の中を覆っていた。
「やあ、また新しいものが流れ着いたぞ!」
フナムシどもがドカドカと、通り過ぎる足音で、ヤドカリは体をビクッとさせた。視界に飛び込んできたのは、燃える海だった。ちょうど夜明けで、小さな入り江が、嘘のように赤く染まっていた。心臓をバクバクとさせながら、ヤドカリ君は大急ぎで、背負っていた貝殻を見た。どうやら夢を見ていたらしい。美しい貝殻から、何かがつーんと香った。
この日、ヤドカリは初めて夢を見た。
おばけがい 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11
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