うつしよの黒猫

北海ハル

うつしよの黒猫

 吉祥寺駅、公園口。

 馴染みの喫茶店で頭を抱えていた彼が「おや」と目を留めたのは、ぱたぱたと道を歩く黒猫だった。

 猫など特段珍しいものではないが、この都心で、しかも駅前の道を歩く姿が中々見ない光景であったため、思わず黒猫を目で追う。

 時刻は四時。酔客がまだ居酒屋で歌っている時間帯で、駅を歩く人の姿はほぼ見られない。そこへ見慣れない黒猫の闊歩ときたものだから、彼はにわかに驚いた。

 飼い猫だろうか。目を凝らして首元を見るが、首輪や鈴は見られない。であれば、野良猫か。


 彼は作家をしていた。

 幼い頃から顔馴染みの店主の計らいで、この早朝に店を特別に開けてくれている。

 日々の募る妄想やインスピレーションを書き殴る場として、いつも彼を迎え入れてくれていた。

 そんなアイデアの捌け口となる店の前を、人通りの少ない都心で黒猫が悠々と足を進めている。

 作家としてこれほどまでにない、不思議で面白い状況だった。

「やあ、どうしたんだ」

 まだ眠そうな目を擦りながら店主が声を掛ける。

「ちょっと、アイデアが歩いていたんだ」

「ほぉ、煮詰めてもなかなか出ないものが歩いていたのか。そいつぁ幸運だな。追わないのかい」

「ああ、ちょっと幸運にあやかってくるとしよう。お代はまた来る時に払う」

「なに、いつでもいいさ。きみが約束を破るなんてことはただの一度も無かったしね」

 店主の快い返事に礼をして、彼は急いで店を出る。

 店を出た左手の奥に、小さな黒い影がゆらゆら揺れるのを見た。

 ──こいつは福猫だな。

 彼は脅かさぬよう慎重に、且つじりじりと黒猫との距離を縮めた。


 古来より黒猫は凶兆を思い起こさせるが、その知識は海外でのものが殆どで、もともと日本では福を呼び寄せる福猫として知られている。

 世間の黒猫に対する謂れのない言い伝えに対し、彼の頭の中は自身の得てきた知識で応戦した。

 第一、あんなに愛くるしい見た目をする猫が不吉と言うにはあまりにもカワイソウである。

「自分で学ぼうとしない人間の言葉など、信じるに値しない。数は正義だと言うが、俺が信じるのは自分で見てきた、知り得た言葉だけだ。そもそもここは日本だ」

 そうして黒猫の弁明を行ったところで、当の福猫はチョイと左に曲がって細い路地へ入った。

 彼は焦った。

「まずい、細道は猫が通れても人間は通れないぞ」

 歩くスピードを上げて黒猫の後を置い、入っていった路地を見た。

 幸い、人が通れるスペースはあるようだった。

 彼は体を横向きにして、ビルの間を通る。

 服の前後にススやわけの分からない液体が付こうと、気にも留めなかった。


 〇


 彼は作家であったが、そのアイデアは日を追う毎に枯渇していった。

 雑誌で隔月連載を始めたために、締切という恐ろしい存在に追われることとなったのはつい最近のことである。

 何も考えず、気ままにちまちま書いてはどこかの賞へ応募をしていた頃とは違って、今は担当がついて顔を合わせれば「進捗は!」「出来栄えは!」と連呼してくる。

 そんな言葉の勢いとは裏腹に、彼のアイデアとネタはするすると尽きていった。

 彼は非日常の摩訶不思議な出来事を妄想しては、それを文章にして読者へと届けていた。

 だが、そうそう非日常の不可思議などアイデアとして浮かぶわけもなく、メモ帳と頭の中でストックしていた大切なネタたちをぽんぽんと放出していた次第である。

 そして締切を翌週に控えた今日、完全に足踏み状態になった彼の下へ現れた黒猫。

 これを幸運とせずして何と言おうか。

 普段は慌ただしい様子を見せる都心の駅前に、黒猫がぽつり一人で歩く様をネタにして、あとはいくらでも想像のしようがある。

 けれどもそんな悠長な事を言っている時間はないのである。福が向こうから転がり込んで来てくれたのなら、その行く末まで見守れば、ひょっとしたらもっと素晴らしいネタを見付けることができるかもしれない。

 彼の頭の中はまだ見ぬ想像の世界と、ぷてぷてと進む黒猫の尻で一杯になった。


 〇


 細い路地を抜けると、少し開けた路地裏に出た。

 四方を囲む壁からはそれぞれに別の笑い声が聞こえてくる。もうじき朝だというのに随分と元気なものだ。

 対して黒猫は、それを気にも留めずに斜向かいの細い路地へ身をやった。

 彼も「流石にここまでか」と思ったが、やはりこの路地も体を通すことができた。

「ここまで来たら行くところまで行ってやるぞ。なんせ前を行くのは福猫だ」

 本来であれば締切を控えておきながらこんな事をしている暇などあるはずもないのだが、彼は彼の知り得ぬアイデアのため、また服に汚れを付けて進んでいく。

 壁から響いた笑い声は、いつの間にか消えていた。


 どれくらい経っただろう。

 性格上、あまり時間を気にして動くのが嫌いなので腕時計は付けていなかった。

 体感ではもう四〇分ほどこうして路地と路地裏を渡ってきたような気もするが、実際はもっと短いのだろう。

 黒猫の足取りはしっかりとしていた。

 まるで目的地があるように足を進めていたが、彼からしてみればくねくねと細い道を曲がったり進んだり、時にはぐるりと来た方向へ戻るようにしていたために「やっぱり猫は気まぐれなのか」と思うようになっていた。

 そもそも土曜日の早朝から薄汚れたビル街の路地裏を歩くなど、馬鹿げているにも程がある。

 足を進めるうちに虚しく、自分の行動に疑問を持ち始めてきた。それでも足を止めずに黒猫の後をゆっくりと追うのは、まだ見ぬ物語のインスピレーションを得るためか、はたまた彼の好奇心がそうさせるのか。


 彼は一度、ネタ探しのために日本を放浪した過去がある。

 一度もサボる事のなかった大学も、余裕があると見るや否や友人たちの前から姿を消した。

 件の喫茶店の主人には「一か月くらいで戻る」と伝えてはいたものの、実際の旅はそううまくいかなかった。

 それもこれも、全ては小説が原因である。

 各地の名所を訪れては「ここでアレがああしたら」や「ここは夜になると不可思議な出来事が起こる」など、いちいち足を止めてネタとしての具体性を与えてきた。

 ぼんやりとした想像では、いつ鱗が剥がれて雲行きを怪しくするか分かったものではないからである。行動力の割に、発想に関しては人一倍繊細な男であった。

 そうして当初予定していた一か月を大幅に過ぎて大学へ舞い戻った。

 あまりに急な失踪に友人たちは「とうとう思い詰めて死んだかと思った」とまで言われる始末である。

 旅が終われば元の大学生活に戻ったが、何事もなく卒業を迎えることが出来た。

 肝心のネタもまた、旅の記録で沢山手に入れることが出来たのだった。


 それが功を奏したか、翌々年に応募したコンテストでは長編ローファンタジーの大賞を取ることもできた。

 独特な世界観と、それを際立たせる文章。その二つが大きな評価点となり、今の出版社からのオファーを受ける要因にもなった。

 大学卒業後に勤めていた会社を試用期間中に退職するという英断を下し、彼は作家としての道を歩みだした。

 しかしながら現実はそう上手くいかないもので、前述したように締切に追われ、こうして黒猫の尻を追う始末である。我ながら嘆かわしい。


 そろそろ積もった苛立ちが爆発しそうであった。

 あてがあるのかないのか、ただふらふらと歩く黒猫にも、そのあとを情けなく追う自分にもうんざりし出したところで、黒猫は不意に足取りを早くした。

「うん?なんだ?」彼は首を傾げ、喉元まで噴き上がった感情を呑み込む。

 先程よりもやや太い路地へ身を入れた黒猫を目で追うと、その先には赤色の光が煌々と照らし出されていた。

「これは―――間違いない、ここが終着点だな」

 彼は確信し、そんな彼に呼応するように黒猫も光の前で足を止めた。

 一体、この光の正体は何なのか

 この光の先には何が待っているのか

 希望と想像で頭がいっぱいになった彼は、黒猫が既に歩みを止めて傍らで佇んでいるのにも気付かず、光の中へ体を突っ込んだ。


 〇


 黒猫は福の兆しである、というのは古来より日本で語られる

 黒猫は凶兆のシンボルである、というのもまた日本を含めた諸外国で語られてきた


 捉え方により、その存在は吉凶表裏一体となるのが世の定説の常である。

 少なくとも今、彼にとってはあの黒猫は福の兆しであったと言えよう。


 彼の眼前には、不可解、不可思議、不気味、その他諸々、非日常としてしか語られぬような光景が広がっていた。


 どこまでも広がる、薄緑に染まった空


 ころころと転げ回る、大小沢山の達磨


 小さな身体を翻し、ふわりふわりと舞う日本人形


 飄々と天空を駆け、口元に薄ら笑みを浮かべる白狐


 上下逆さに屹立する天守閣


 口を顔の端まで広げ、にんまりと笑う赤べこの大群


 延々とかごめかごめを続ける、着物姿の子どもたち


 これらの存在が現実世界で顕現した時、世界はどのような反応をするか。それを考えられるほど、もう彼の思考能力は残っていなかった。

 来た道が無いことなど意にも解さぬように、それらの波を眺めながら高笑いした。


 やはり追い続けた甲斐があった!あの黒猫は確かに福猫だったのだ!

 それ見ろ!何が凶兆だ!煮詰まった俺の前にあるは、間違いなく俺のネタになるんだ!これは俺だけの光景だ!


 はははははは!!!


 不気味という様相を呈した空間に、彼は一人笑い続けていた。


 〇


 朝の人混みの中に、彼の姿は無かった。

 駅前の路地裏では、ただただ黒猫が一匹佇んでいる。

 黒猫がみゃお、とひと鳴きすると、その声は街の喧騒の中に消えていった。

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