無口な彼

風助

第1話

 ――彼と初めて出会ったのは、今からおよそ一年前の初夏の頃だ。


 


 高校を卒業して、春から私は都内の美大に実家から通っていた。慌ただしい四月を駆け抜け、ようやく新たな学生生活も軌道に乗り始めた頃、さていい加減にバイトを始めようと思って選んだのが、最寄り駅にほど近い地域密着型のお蕎麦屋さんであった。


 家族経営で長年営んできたこのお蕎麦屋さんは、昔ながらのレトロな雰囲気と、毎朝大将が打つお蕎麦が人気で、地元の人から愛されている。


 大将の名前は連れんさん。そのお姉さんで社長のアキさん。そしてパートのおばさんが二人に、学生アルバイトが私の他に三人。お客さんも品が良いおじいさんおばあさんが多く、和やかな雰囲気のお店であった。




 バイト先の仕事にも大分慣れてきたある日のことだ。裏口でキャンキャンと犬の鳴き声がした。アキさんの飼っているチワワのクッキーが鳴いているのだろう。裏庭に人の気配を感じると、クッキーはいつも激しく吠える。そのたびにアキさんが「っめ!」と叱るのだ。


 しかしその時、アキさんは電話で出前の注文を取っていた。パートのおばさん達も調理中で手が離せないようだ。


 私は洗い物をしていた手をとめてちらりと店内を見やる。三時を過ぎてピークは越えたが、まだまばらにお客さんがいた。このままクッキーを騒がせておくのはまずいと思い、私は洗い物を中断して裏口に向かう。騒ぐクッキーの前で人差し指を立てて「シィーーー」とやってみるも効果がない。途方にくれる思いで扉に視線を遣ると、すりガラスの向こうに黒い影が見えた。何者かが扉の向こうにいるらしい。だからクッキーが吠えていたのか。


 私は怪訝に思って、裏庭に繋がる扉を開けた。すると、目の前に彼.が立っていたのだ。


 彼は細身ですらりと手足が長く、小づくりの整った顔をしていた。瞳はと冴さえ冴ざえとた碧色をしていて、ひょっとしたら海外の血でも混じっているのかもしれない。性差の概念を飛び越えてしまったかのような美人だったので、私は思わず数秒見とれてしまったのだ。今思えば、これが人生で初めて経験した、『一目惚れ』というやつだったのだろう。そんなべらぼうな美丈夫だったので、最初は『彼』か『彼女』か見分けるのに大層苦労したのである。




 その日を皮切りに、彼は度々バイト先にやってくるようになったのだ。


 彼は非常に無口で、全くと言っていいほど喋らない。加えて不愛想で気紛れなところがあり、こちらの要望や質問には全然答えてくれない。


 しかしながら彼には万人を惹きつけて止まない天性の魅力があり、特にパートとおばさんやアキさんは彼を速攻で気に入ってしまった。私は私でそんな様子を微笑ましく思いつつも、ちやほやされる彼の姿を見ると内心ちょっと面白くなく、心の中で「年上キラーめ」となじって留飲を下げていた。(直接彼に言ったこともあるが、スルーされた)




 彼がよく現れるのは日曜日の午後、あるいは平日の夕方あたりが多い。何時頃に来るなどの事前報告は無く、本当に気紛れな時間に現われて、おばさん達にお菓子などを貰い、ひとしきりチヤホヤされて満足したら勝手に帰る。私は密かにそんな彼と出会うのを心待ちにしていて、出来るだけ会える確立の高い時間帯にシフトを入れるようにしていた。




 休憩時間に私は彼の前に座って、取り留めのないことを話した。正直言って彼のようなタイプと相対するのは得意では無かったけれど、彼は黙って私の話を聞いてくれた。  

 相変わらず無口で、私が何を訪ねても何一つ応えてはくれなかったけれど、彼は秘密主義だから仕方がない。プライベートは彼にとって絶対領域であり、あんまりしつこく食い下がるとごく稀にとても低い声で怒るのだ。彼は温厚だが、怒るとても怖い。可憐な顔を鋭く歪めて睨みつけてくる。美人が怒ると怖いなんて言うが、まさにそれであった。しかし彼は怒りをずっと引きずるような性格ではなく、怒って帰ってしまったと思ったら、翌日にはケロっとした顔でなんでもないようにまた現れるのであった。




 そんな日々はあっという間に過ぎていき、気が付いたら本格的な夏が到来していた。例年通り、赤道直下の国の人々でさえ厭うほどの殺人的な蒸し暑さが東京を襲う。


 そして、八月に突入したあたりで、彼はぱったりと蕎麦屋に来なくなったのだった。気まぐれな彼のことだから、数日来ないなんて珍しいことではない。しかし、一週間、二週間とたった頃に、アキさんたちが「最近、どうしたのかしら」と噂をし出した。気にしまいと努力したところで、周囲がそわそわし出すのだから堪らない。私はやきもきした気持ちで業務を終えたのであった。


 その日の帰り道、蕎麦屋のはす向かいのケーキ屋の前で、一瞬だけ彼を見たような気がした。慌てて後を置きかけるも、すぐに見失ってしまった。


 その二日後のバイトで、私は向かいのケーキ屋の前で彼を見たことをアキさんに話した。すると、アキさんは可笑しそうに笑って私に教えてくれた。


 


「あの子、このあたりのお店やおうちをあちこち渡り歩いているみたいよ」




 その一言に私はなんだが馬鹿らしくなってしまった。同時に酷い裏切りを受けたような気持ちになる。


 午後に久しぶりに現れた彼は相変わらず涼し気な顔をしていて、私の気持ちなんてほんのちっとも考えていないのだろう。試しにいつもよりつっけんどんな態度をとってみたが、予想通り彼は通常モードで、微塵も動じた様子がない。




 ――ああ、なんてことだろう。完全に振り回されている。


 そんな風に頭を抱えたりしても、彼は私を気遣ってはくれないのである。




 夏が過ぎ、秋がやって来て、私と彼は相変わらず微妙な距離感のままの関係が続いていた。ここ半年で私が彼について知ったことと言えば、甘いものが好きなことと、高い場所が好きなことくらい。彼の住んでいる場所も家系図も交友関係も何一つ知らないまま随分経った。


 いつしか彼はこの駅周辺でちょっとした有名人になっているようで、お客さんが彼の噂をしていることもあった。


 不愛想の癖して人様の領域には平気な顔で侵入してくる豪胆さがあるので、他人の懐に易々と入り込んでしまう。そんな感じでむやみやたらに無自覚な愛嬌を振りまいて、サクッと心を持っていくものだから、非常に質が悪い。無論、そこに悪意などは微塵も無く特段他意もないのだろう。


 ――いや、案外自分の魅力を理解しての行動なのかもしれない。だとしたらもう手に負えない。間違いなく彼は魔性だ。




 そして、夏も終わり、肌寒くなり始めた頃、彼は少しずつ痩せていったように思う。もともと細身であった身体が前よりいくらかこけたように思えて、私はとても心配になった。しかし、何を訊いてもやっぱり彼は私の言葉には応えてくれないのだった。




 10月の中頃だ。その日は夜のシフトで、閉店間際に彼はやって来た。そんな時間に彼が来たのは初めてだったので、ゴミ出しをしようと裏庭に出た私は驚いて声を上げた。


 いくらかかしこまったような立ち姿で、彼はじっと私を見つめていた。一体何事かと思い、暗がりに目を細めた私は、彼の足元に転がっているものを見て息を呑んだ。


 鈍色の小さな動物のように見えた。そこはかとなく青白い毛並みに――ミミズのような尻尾。




「待って。何........ねずみ?」




 それは紛れもなくねずみの死骸だった。逆立った毛の間に僅かに赤黒い血の跡が浮いていて、私はすっと背筋が冷えたのを感じた。




「ねえ、これ何? どうしたの?」




 彼は私の声には応えない。くるりと踵を返して去っていく。




「ちょ、ちょっと待ってよ! ねえ!」




 泡を食った私は、去り行く背中を思わず追いかけた。なんだかとても嫌な予感がしたのだ。これを逃したら、もう二度と会えないような―――。


 私が庭の低い塀を飛び越えたところで、彼は一度振り返った。そして、小さい声で何事かを呟いたのだ。


 果たして、私には彼の言ったことの意味が理解できなかった。その上、初めて聞いた彼の声に呆けた私はそのまま足が動かなくなってしまい、冥暗に消えていった彼の跡を追うことは叶わなかったのである。




 案の定、あの日から彼が来ることは二度と無かった。近所での目撃情報もぱったりと止み、どうやら本当にいなくなってしまったらしい。


 


 最後に会ってからもう四か月が経つが、私の心はずっと凪いでいる。春休みが明けたら私は大学二年生になり、これからもっと忙しくなるだろう。


 そして、忙しない日常の片隅で時折ふと、彼の最後の声を思い出すのだ。




 想像よりも高い声で「ニャァ」と鳴いた、あの綺麗で不愛想な横顔を。


 

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無口な彼 風助 @fuuuuka

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