_04

 私は、殺人を隠蔽する為、祐樹くんとアリスに十年遅れの新婚旅行をプレゼントするという計画を実行した。熊井くんにも話を持ちかけたのは、祐樹くんとアリスが海へ旅行に行ったという証言をさせる為だ。

「海をバックに祐樹くんの写真を撮って、それを私にメールして。当日あなたたちが海にいた証拠になるから」

 出発の前日、私はくどくどとアリスに言い聞かせた。

「アリスは、祐樹くんが海に落ちたって言い張ればいいの。いい、本当に海に落としてはダメよ。遺体が打ち上げられたら困るわ。必ず、生かして、ここに連れ帰って。私がきちんと処理するから。遺体が見つからなければ、完全犯罪よ」

 うん、とアリスは頷き、的外れな事も言った。

「遺体が打ち上げられると困るのよね。検死されたら、きっと睡眠薬を飲ませたことがばれちゃう……」

 検死で睡眠薬を飲ませたことが露見すると拙いのだろうか。私には分からない。祐樹くんは普段から、睡眠導入剤とアルコールを濫用していた。本人が自らオーバードーズして、酩酊の挙句、海に転落したと主張しても誰も疑わないだろうと思う。

 だけど、私は祐樹くんが欲しかった。

 彼の体を海に沈めてしまうなんて、惜しくて出来ない。すべてでなくていい。せめて、ひとつ、私の手元に残したい。

 アリスには猶予を三日与えておいた。

 愚図な彼女らしく、その報告をしてきたのは三日目の深夜十二時を回った頃だった。しかも、私の携帯に電話するよう指示しておいたのに、何をとち狂ったのか、連絡用にと一時息子に預けていった祐樹くんの携帯電話にコールしたのだ。

 着信音に気付いて、慌てて電話に出ようとするが、音が遠い。

 しまった。祐樹くんの携帯は蒼依くんが枕元に置いて寝ている。

「アリス……あのバカ……」

 寝室の扉を押し開くと、せっかく寝かしておいた蒼依くんが電話を受けていた。

「蒼依くん、おばさんに電話替わってくれるかな?」

 アリスが蒼依くんに何を言ったのかは分からない。蒼依くんはきょとんとしていた。子供になんて構っていられない。もう寝なさい、と短く言い付けて祐樹くんの携帯電話を持って廊下へ出た。声を潜めてアリスと話す。

「どうなの? うまく行ったの?」

「分からない……」

 雑音が酷い。音が聞き取りにくい。波の音だろうか。

「アリス……?」

 大きなうねりの音に混ざって、微かなすすり泣きの声が聞こえた。

 アリスが泣いている。

「今、彼にアレを飲ませたわ。ふらふらして眠っちゃった。どうしよう」

 この期に及んで何をバカなことを言っているのだろう? どうするもこうするもないではないか――

「彼が目を覚ます前に、早くここに帰って来なさい。目を覚まして、あなたがお酒に薬を混ぜたと知ったら、きっと祐樹くんは、あなたが彼を殺そうとしたって気付くわ。そんな事になったら、暴れて手がつけられでしょう?」

「でも、でも……やっぱり殺せない」

「あなたが殺されるわよ」

「だって、殺しちゃったら祐樹さんはいなくなっちゃうのよ。可哀想……」

 アリスは混乱していた。錯乱していた。泣きじゃくっていた。

「分かった。じゃあ、殺さなくてもいいから、とにかくここに連れて帰って来て。彼が気付いて暴れても、私がなだめてあげるから。祐樹くんが目を覚ます前に――」

 早く早く、と急かして、やっとアリスを説得した。

 連れて来させてしまえば、あとはなんとでも出来る。殺してしまえば、アリスも共犯だ。口を噤むしかない。私はどうしても祐樹くんを殺さなければ……

 だって、殺さなければ、彼を取り戻せない。

 あれほどあれこれとかき口説いて、やっと納得させたと思ったのに、アリスはまたも迷い始め再度泣き言の電話をかけて来た。

「やっぱり、そこへは行けない。だって、行ったら蛍は祐樹さんを殺すでしょう?」

 舌打ちしたい気分だった。どこまで愚図でバカなのだろう。

「蒼依くんを殺すわよ」

 私はどちらとも取れる言葉を選んだ。今のままではDVをエスカレートさせた祐樹くんが蒼依くんを殺す、とも、言う通りにしなければ私が蒼依くんを殺す、とも。

 その言葉をアリスがどう受け取ったのかも分からない。アリスは突然、魔法の呪いが解けたように毅然とした声を出した。

「蒼依はダメ。殺させない」

 あまりにも強い声だったので、私の本当の思惑に気付いたのではないか、と疑念が湧いた。確かめるわけにはいかない。信じるしかない。

「とにかく、早く帰って来て」

 私は懇願するように言って通話を切った。

 そこで、微かな物音に振り返ってゾッとした。蒼依くんが扉を開けて立っていた。聞かれただろうか、と身を固くするも、子供は無邪気に目をこすりながら部屋に入って来た。

「ママから? 僕、起きてママを待っていたい」

 どうしよう、と冷や汗が噴き出す。これから、誰にも見られるわけにはいかない事をするのに、この子が起きていたら困る。寝かしつけないと……

 はた、と、祐樹くんに飲ませる為にアリスと砕いたマイスリーの残りが、まだキッチンにあることに気付いた。子供用に量を減らして濃い味の飲み物に混ぜて飲ませればいい。耐性のない人間がマイスリーを服用すると、五分~十分ほどで強い酩酊感に包まれ、するりと眠ってしまう。そうだ、あれを使おう。でも、タイミングは見計らわなければ。あまり早く飲ませると、アリスが帰って来る前に目を覚ますかも知れない。

 アリス、早く――

 私は必死で唱え続けた。早く、早く、と。声に出さずに。

 胸の潰れるような時間が過ぎて、やっと、待ちに待った音が聞こえ始めた。

 タイヤが砂利を踏む音と車のエンジン音が近付いてくる。鼓動が早くなる。アリスだろうか、気は変わっていないだろうか、祐樹くんをちゃんと連れて来てくれただろうか。私の祐樹くんを……

 焦れる私の眼前で、玄関の扉がゆっくりと開いた時、まだ夜は明けていなかった。

 アリスが蒼褪めた顔で入ってくる。

「パパは?」

 蒼依くんはアリスに駆け寄って抱き付き、顔を見上げている。アリスは悲しそうに眉根を寄せて、言った。

「ごめんね、パパとはもう会えないの」

 パキン、と硝子が割れる音を聞いたような気がする。

 ああ、良かった。

 パパとはもう会えない、それは、会わせるつもりが無いという意味だ。

 やっぱり、魔法の呪いは解けていなかった――

「なんで? どうして? パパはどこ? どこにいるの?」

 矢継ぎ早に質問し、蒼依くんは泣き始めた。子供に釣られるようにアリスも泣き始めてしまう。アリスは意思が弱い。余計な事を口走られたら困る。

「どうしたの、ママ? なんで泣いてるの?」

 蒼依くん、と子供の肩を叩いた。

「こっちにおいで。ココアを作ってあげる。体が温まったらすぐに眠れるわ」

「でも、ママが……」

「ママは恐い事があって泣いてるの。少しそっとおいてあげよう」

 納得した顔はしていなかったけれど、蒼依くんはキッチンへ付いて来た。

 マイスリーを半錠、手早く砕いてココアに混ぜる。多めに砂糖を入れて味を誤魔化したが、そんな必要も無かったかもしれない。私が作ったココアを飲んで五分ほど経つと、蒼依くんはこくりこくりと頭を揺らし始め、その場に突っ伏して寝てしまった。

 薬の眠りは深い。

 とは言え、寝入り端に迂闊に揺り動かして起こしてしまっては面倒だ。蒼依くんの背中に毛布を掛けて、その場にそっとしておくことにした。

 祐樹くんは後部座席で眠っていた。睡眠薬を混ぜたウイスキーを飲ませたら、ふらふらしながらも自分で乗り込んで、そのまま寝息を立て始めたとアリスは言った。

「そう、手間がかからなくて良かったわね」

 もし祐樹くんが地べたで寝てしまったら、アリス一人では彼を抱え上げられなかっただろう。そういう意味では、祐樹くんは自ら屠殺場へ向かう車に乗り込んだと言える。

 思えば杜撰な計画だ。本当に私は祐樹くんを殺したかったのだろうか。

 アリスと二人で、祐樹くんを最初はキッチンへ運び、思い直して浴室へ運んだ。

 祐樹くんは昏睡していた。

 昏睡して、私に凭れかかっていた。

 ああ、と感嘆の溜息が零れる。

 私の愛しい人。

 やっと、私の腕の中に戻って来た。


   †††


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る