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 あの頃、小日向祐樹のDVは凄惨を極めるまでになっていた。

 アリスは典型的な共依存、アルコール中毒の夫を甘やかして立ち直りを妨害してしまう献身的な悪妻――イネーブラーだった。どれほど暴言を吐かれ、暴力を振るわれても、夫を切り捨てることが出来ず、かえって飲酒やDVを肯定するような言動をするのがイネーブラーだ。最悪の状態に陥っている夫を許容し、愛し、世話をして、保護する。働かずとも責めず、好きなことをしろと言い、支えるフリをして、潰してしまう。

 人は無条件に許されると空漠としていくのではないだろうか。

 祐樹くんは、人前でも構わずにアリスに暴言を吐き、暴力を振るうようになった。子供の前ではやめてください、と必死で土下座するアリスを見たこともある。なぜかは分からないけれど、祐樹くんも蒼依くんの目のあるところでは暴力を控えていた。

 祐樹くんも、アリスも、心療内科に通院するようになっていた。アリスはうつ病と診断され、祐樹くんは当然だがアルコール依存症と診断された。

 祐樹くんは特に睡眠導入剤やアルコールに依存する傾向が強かった。

「マイスリーをラフロイグのソーダ割りで」

 そんな言葉を冗談めかして言うのを聞いたこともある。彼が、あの顔で、そんな危うい台詞を吐く姿は一種異様な官能を孕んでいた。もしもアリスがいなくなっても、すぐに代わりの女が見付かったと思う。祐樹くんは簡単に女を受け入れた。

 ただし、私以外を――

 祐樹くんは、私だけはダメだと言った。つまらない女だから、私はダメなのだ。

 私はアリスを支える一方で、出来る限り祐樹くんとは距離を置いていた。祐樹くんが私に醜態を見られることを嫌がると知っていたから。それはほんの短い期間、恋人同士だった高校生の頃からそうだったし、文学サークルで再会してからもそうだった。

 熊井くんに文学サークルを作るよう勧めたのは私だ。行動派で世話好きの熊井くんなら飛び付くと思っていた。それは図に当たった。私は祐樹くんを諦めきれず、なんとか口実を作って、再び彼に近付きたいと思っていたのだ。音楽サークルにしなかったのは、祐樹くんが音楽で挫折した事を恥じて、いまだに苦々しく思っているだろうと察しが付いたからだ。彼はプライドが高く、自分には成功する才能が無かったという現実を受け入れることは出来ない。躓いた場所はとことん避ける。

 私が彼に近付く為に熊井くんを唆して作らせた文学サークルで、祐樹くんとアリスが出会ってしまったのは計算外だった。

 でも、祐樹くんはあの童話を書いた。

 あれを読んだ時、あまりにも強烈な幸福と絶望に同時に包まれた。

「愛している。でも近付くな」

 愛する男から、そう言われたのだから。

 祐樹くんは、私だけはダメだと言ったが、あれは、蛍だけは綺麗でいてくれ、という意味だったのだと悟った。世界の光と闇が同時に濃くなった。

 二人が結婚したことも、子供が生まれたことも、どうでも良かった。

 私は祐樹くんを見ていられれば良かった。彼が私を愛していると知っていたから。

 でもある日――

 いつも通りアリスにお裾分けを届けに行った時、私は見てしまった。

 呼び鈴を押しても誰も出ない。玄関は施錠されていたけれど、奥からは怒鳴り声と物音が聞こえた。また祐樹くんが暴力を振るっているのだろうと思い、庭に回ってみると縁側のガラス戸が開いていた。カーテンの隙間から覗き込むと、祐樹くんがアリスに縋り付いて泣いていた。

「おまえだけは俺を見捨てるな。母さんみたいに、俺を置いて行かないでくれ。頼むよ、アリス。俺がみっともなくても側にいてくれるのはおまえだけなんだ。おまえに捨てられたら生きていけない。俺から逃げないでくれ。もし、おまえが逃げようとしたら、おまえを殺して俺も死ぬ。そうするしかない」

 アリスは彼を膝枕して、優しく髪を撫でていた。

「愛しているんだ、アリス……」

 その言葉を耳にした時、私の中で何かが壊れた。

 私を愛しているのではなかったの、と叫び出したい衝動を必死で抑えた。

 そして、その翌日――

 アリスは、もう耐えられない、と私に泣き付いて来た。その時アリスは、よりにもよって、「逃げたら殺すと脅された、どうしよう」と言ったのだ。「愛している」と言われた事には一言も触れなかった。祐樹くんに愛を囁かれる事は、アリスにとってはなんということもない、ただの日常で、話題に上らせるほどの事ではなかったのだ。

 私の愛する男に、愛しているといわれた女が、彼の愛の言葉を蔑ろにしていた。

 私は彼を取り戻さなければいけないと思った。

 なんとしてでも取り戻さなければ。

 そう決心したら、ずっとそう思い続けていたような気さえしてきた。

 ああ、そうだ、私はずっと彼を取り戻したかった。

 ついに待ち続けた機会が訪れたのだ――

「祐樹くんを殺そう」

 そう私は口走っていた。

 え、とアリスは何かに打たれたように身を震わせた。

「殺すって、祐樹さんを?」

 そうよ、と私は力強く頷いた。逃がさないようアリスの視線を捕えて、じっと彼女の目を覗き込む。アリスの澄んだ瞳に、私の歪んだ顔が映っていた。

 まるで、魔女だ――

「もう彼を殺すしかないじゃない」

 私は魔法の呪いをかけるように、恐ろしい言葉を囁く。猛毒を耳から注ぎ込まれ、アリスは震え、慄き、身悶えして、私の魔術から逃れようとする。

「ねえ、アリス。離婚の話し合いなんて出来るわけないわ。そんな話を切り出せば、彼は逆上してあなたを殺すわよ。もしかしたら、蒼依くんのことも……」

 逃がさない。絶対に逃がさない。ダメよ、おまえは私の獲物を連れて来るの。

「蒼依……蒼依はダメ。あの子だけは守らなきゃ……」

 子供の名を唱えたら、あまりにも呆気なくアリスは陥落した。

「そうよ。蒼依くんを守れるのは母親のあなただけよ」

「蒼依の為……蒼依の為なのね? 蒼依の為に祐樹さんを殺さなきゃいけないのね?」

「そうよ、アリス」

 私はもう一歩踏み出し、呪術の最後の仕上げを始める。

「でも、出来ない。私、殺せないわ……」

 アリスは檻に入れられた栗鼠のように忙しなく爪を噛み始めた。

「大丈夫。私がやってあげる。あなたは決断するだけでいいの。子供を守るのよ」

 アリスは、ちらりとリビングの壁にかけてあった額に目をやった。中には私の乙種狩猟免許が入っている。きっと、私が鹿や猪を解体する姿を思い浮かべているのだろう。

 そうよ、私は慣れているの――そう心の中で嘯いた。

 アリスはまるで溺れている者のように私にしがみ付いてきた。

「本当に? ねえ、本当にいいの? 助けてくれるの?」

 腕に食い込むアリスの指が痛い。だけど、そんな些末なことは気にしていられない。

「本当よ。子供とあなたの為に、これは行わなければならない正義だわ」

 ああ、とアリスは震えた。泣いている。

 不意に犯行計画が浮かんだ。すべて、その場の思い付きだ。

「いい、アリス。あなたは十年遅れの新婚旅行に行きなさい。どこでもいいわ。海に行って。そして祐樹くんと二人で海に行った証拠の写真を私にメールするの。それから、帰る途中、どこででもいいわ、彼に睡眠薬入りのお酒を飲ませて、昏睡させてからこの家に連れて来て。後は私が片付ける」

 家に連れて来てから昏睡させてもいいのだけれど、それではアリスを共犯に出来ない。土壇場で心変わりをされては困る。睡眠薬はアリスに飲ませて貰う。

 しゃくりあげながら、アリスは上目遣いで私を見詰めた。完全に頼り切って、子供のようになっている。

「どういうこと? どうするの?」

「祐樹くんは酔って海に落ちて溺れたことにするのよ。誰も疑わないわ。水死体が上がらないことだってある。あなたは気が動転して助けを求めに地元に帰って来てしまったことにする。そうね、不自然だけど、これも有り得ないこととは言えないわ」

 アリスは理解していないように見えた。構わない。しなければならない事を逐一指示すればいい。彼女は対等な協力者ではない。私の為に働く使い魔だ。

 そして、私は彼女を使役する魔女――

「大丈夫。遺体さえ処理してしまえば、絶対にバレない」

「本当に?」

「本当よ……」

 どう処理するのかは言わなかった。言えば、アリスが怖気づく。

「私たち二人で蒼依くんを守るのよ」

 アリスは、ありがとう、と言って泣き伏した。

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