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 あの日――兄さんがいなくなったあの日。

 義姉さんは、真夜中に泣きながら蛍さんのところに電話をかけて来たらしい。

「祐樹さんが波にさらわれた。どうしよう」

 それとも、海に落ちた、どうしよう、だったか……どちらでもいい。同じだ。

 とにかく、兄さんは海に落ちて姿を消してしまったらしい。

 どうせ泥酔していたんだろうさ。そういう人だ。あの人は、意識を保っていたくないとでもいうように、いつも酔っていたか、睡眠薬で朦朧としていた。平らな道を歩く時でさえ真っ直ぐ歩けないような人だった。そりゃ、落ちる場所があるなら落ちるだろう。

 海に落ちて死んだなんて、兄さんに似合い過ぎていて、最初に聞いた時は笑いそうになってしまった。罰が当たったんだ、と。でも、即座に考え直した。じゃあ、義姉さんはどうなるんだ、と。だって、義姉さんは――

 いや、そんな話じゃなかったな。話の筋を元に戻そう。

 ええと、どこまで話した?

 ああ、そうか。そうだった。義姉さんは蛍さんに電話をしたんだよ。兄さんが海に落ちた、と。それを聞いた蛍さんは、すぐ海上保安庁に救助を要請しろと言ったらしい。私は必死で説得した――と、まるで言い訳するように何度も何度も同じ話を聞かされた。蛍さんもショックを受けていたんだろうな。まあ、とにかく、蛍さんは救助を呼べと言った。

 でも、なぜか義姉さんは海上保安庁にも警察にも救助を要請しなかったそうだ。

 気が動転していたのか、他に何か思うところがあったのか……

 義姉さんの気持ちは分からない。ただ、海に落ちた兄さんをほったらかしにして、そのまま一人で清里へ帰って来てしまったらしい。

 しかたないよ。

 義姉さんは、それまで色々な事があり過ぎて、ぷつんと何かが切れて逃げてしまったんじゃないかと俺は思っている。

 無職の兄さんの代わりに義姉さんが働いて家計を支えていたみたいだけど、義姉さんもそんなに働ける人じゃなかった。アルバイトじゃ額が知れてる。母さんが毎月の生活費を援助していたらしいけど、それは兄さんが使ってしまっていたらしい。田舎で、住む家と菜園に使える土地があるから食えてただけだ。蛍さんと熊井さんも色々と差し入れはしてくれてたみたいだしね。でも、幼い子供を抱えて、自由に使える金も無い。そんなギリギリの生活はキツイよ。

 そりゃ、海に落ちた兄さんを置き去りにしたくもなるさ。あの人さえいなければ、と俺だって思ったことがある。

 だから、俺は義姉さんを責めないよ。

 可哀想に。疲れ切って義姉さんが蛍さんの家に着いたのは夜明け近くだったらしい。ぼろぼろになった義姉さんの姿を想像すると涙が出そうになるよ。

 蛍さんがいくら問い詰めても、義姉さんは兄さんが落ちた海の場所を言わなかった。そして、その翌々日の早朝には自殺してしまったんだ。

 兄さんが遭難した場所を誰にも告げずに……


   †††


 そこまで話し終えると、朔良さんはゆっくり顔を上げた。

「これで分かっただろう? 兄さんは事故死だ。自業自得だったんだよ」

 朔良さんは吐き捨てるように言う。

「義姉さんは何も悪くない。悪いのは、あのろくでなしだ」

 朔良さんが父さんをこうもハッキリ悪意を剥き出しにして罵るのは初めて聞いた。ろくでなしと呼ぶことはあったけど、普段の声音はどこかふざけているような調子だった。

 それに、父が海に落ちて消えたという話も、どこかおぼろげには聞いた事はあったが、詳しく聞いたのは初めてだった。祖母も、朔良さんも、僕の前では両親の話はなるべく避けていたから。僕も今までは怖くて両親の話題は避けていた。

 それにしても奇妙な話だ。筋が通らない。いや、朔良さんの話の中では筋が通っているのだけれど、でも、いくらなんでもおかしい。海に落ちた父さんをほったらかしにして、あの惨めなほどに献身的だった母さんが、自分だけ清里に帰って来てしまうなんて、そんなバカなことがあり得るだろうか。そんなバカな……

 朔良さんは何かを探すように視線を彷徨わせた。結局、目当てのものは見付からなかったのか、あるいは何も探していなかったのか、疲れたように俯いてしまう。

「蛍さんは、義姉さんの自殺現場を調べに来た警察に、兄さんがどこかの海に落ちたって言ってくれたらしい。けど、『どこの海に落ちたか分からないなら捜索することは出来ない』って相手にして貰えなかったらしい。当たり前だよ。義姉さんは死んでしまって、誰も兄さんが海に落ちた現場を目撃した人はいなかった。警察からは、『本当に海に落ちたのか、自殺した奥さんの妄想じゃないのか』とまで言われたらしい。あの頃、義姉さんは精神的に不安定になっていて、睡眠導入剤がないと眠れない鬱状態だったから。薬はほとんど残ってなかったけど、診療所の領収書があったって……そういう事も、話を聞いて貰えない一因だったのかも知れないよな……」

 言葉はぼそぼそと掻き消えそうになっていた。ほとんど独り言のように。

「義姉さんが兄さんを泥酔させて、海に突き落として殺したんじゃないかって心無い事を言う人もいた。でも、あの優しい義姉さんに人殺しなんて出来るわけがない……」

 朔良さんは勢いよく顔を上げた。

「兄さんは事故死だよ。俺は二人が結婚した当初から四年間、あの家で同居させて貰っていたから、嫌でも兄さんが痛飲する姿は目に入った。あの人は二十歳の頃からすでにアル中気味だったし、どうせ、あの日も飲み過ぎて酔って海に落ちて溺れたんだよ」

 必死に訴えなければいけない、と誰かに脅されてでもいるかのように朔良さんは鬼気迫る様子で言い募った。

「ああ、もう、嫌だ、嫌だ」

 がしがしがしっ、と被っていたタオルで乱暴に髪を拭き、ストンと憑物が落ちたように両手を膝の上に落とすと、朔良さんはへらりと笑う。

「オジサン、こんな暗いのはガラじゃないのよ。過ぎた事はもうどうしようもないんだからさ。明るく楽しく元気よく、毎日軽くイイ感じで過ごさないとダメよ。ね、蒼依くん、月ヶ瀬ちゃん」

 いつもの朔良さんに戻って軽薄に振る舞おうとしていたけれど、朔良さんの道化のペルソナにはヒビが入っていた。隠そうとした泣き顔が見えてしまっていた。

 月ヶ瀬さんの言った通り、朔良さんは完全に父を事故死だと思い込んでいた。決めつけていた。アルコール依存症だった父が、いつものように泥酔して海に落ちたのだ、と。泥酔した人間は簡単に溺死する。

 祖母は事件の五か月後、やっとラオスから帰国して僕を引き取り、蛍さんから少し話を聞いただけで父をろくに探そうともせず、失踪届を出した。一年で失踪宣言の審判申立が出来る危難失踪ではなく、七年の猶予のある普通失踪扱いにしたのは、祖母のせめてもの息子への情だったのかもしれない。あるいは、父が海に落ちたという話を信じていなかっただけかもしれないが……

 今年の八月、父さんの死亡は法的に確定する。

 父は現実を見ない夢追い人だった。

 NGOの活動で家を空けてばかりだった祖母も、ある意味で夢追い人だった。

 僕は二人とは違う。夢なんか追わない。堅実に生きる。

 でも、なぜか悪夢に追われている。

 夢を追わないから、逆に夢に――それも悪夢に追われるのか。理屈が通らない。


   †††


 翌、土曜日は久しぶりの晴天だった。

「やあ、君が蒼依くんか。スゴイな、アリスちゃんにそっくりだ」

 熊井明彦さんは、がっちりとして背の高い髭面の明るいオジサンだった。名前のイメージ通りでむしろ驚いた。大きな果樹園とハーブ園を経営していて裕福らしい。多趣味で、釣りや乗馬、スキー、カヤック、ジャズ観賞、舞台観賞、俳句に茶会と、何にでも手を出している道楽者だ――と朔良さんに説明された。昔は文学サークルも主催していたわけだし、社交的で、アクティブな人なのだろう。羨ましい。

 熊井さんは月ヶ瀬さんを見て大袈裟に驚いた。おお、グレートな美少女だ、と。

「蒼依くんの彼女? 可愛いねぇ。美男美女、お人形さんみたいなカップルだ」

 バンバン、と背中を叩かれて咳き込みそうになる。

「明彦さん、俺もいるよ」

 はいっ、はいっ、と両手を万歳の形に挙げて自己主張した朔良さんを、

「おまえも来ちゃったかぁ……」

 と熊井さんは軽くあしらった。はいどいて、と脇に避けて、僕と月ヶ瀬さんを柾(まさき)の生垣のある門前から玄関まで通してくれる。敷石に水が打ってあり、清涼な心地がした。

「ちょっとぉ、酷いよ、明彦さんまでぇ」

 甘えた調子で言って、朔良さんは熊井さんに軽く体をぶつける。よせよ、と言って熊井さんは朔良さんの頭をペちんと叩いた。熊井さんの前だと、あの朔良さんが素直で可愛い弟のように見える。外見は似ていないけど、本当の兄弟みたいだ。もしかしたら朔良さんは、実の兄より熊井さんのほうが好きだったのかもしれない。

 かく言う僕も、第一印象で熊井さんを好きになってしまった。無条件に人を惹きつける人徳というか、引力がある人だ。

 熊井邸は最近立て替えたようで、純和風だが暗い感じはまったくしないモダンな雰囲気の豪邸だった。パッと見で八部屋以上ありそうだと分かる。通された応接間に据え置かれた高級そうな本革ソファセットと、螺鈿細工の施された大きな黒檀のテーブルが、熊井さんの財政事情を雄弁に物語っていた。

「今日は突然すみません」

「いいよ、いいよ。僕は暇なんだから、もっと早く遊びに来てくれれば良かったのに」

 祖母が用意しておいてくれた手土産の包みを差し出すと、熊井さんは慎ましく遠慮してから、ありがとう、と気持ち良く受け取ってくれた。包みの中身は紅茶の茶葉とクッキーのセットのはずだ。祖母はいつもそれを用意する。

「あ、そうだ、梅酒ありがとうね。毎年お婆ちゃんが送ってくれて美味しく頂いてるよ。男の子なのにお婆ちゃんの台所手伝ってるなんて偉いね」

 熊井さんはよく喋るし、ずっとにこにこしていて感じが良い。お節介なんだと思うけど、それがなぜか全然押し付けがましくないし、厭味も無い。スゴイ人だ。にぱあ、と微笑まれると、こちらもつられて笑ってしまう。

 バタバタと歩き回って、奥さんに低い腰でお茶を頼み、それからやっと座ったかと思えば、また腰を浮かした。

「蒼依くん、月ヶ瀬さん、ケーキと大福があるけど、どっちがいい? いや、両方出そうか? 成長期だから沢山食べられるよね。お昼も食べていってよ。大丈夫。ちゃんとお婆ちゃんから蒼依くんの好き嫌いは聞いてるから。美味しい信州蕎麦と天麩羅の店を予約してあるよ」

「あの、そんなお構いなく」

「こういう時は遠慮しないの。子供は図々しいくらいが可愛いんだから」

 自然に頭を撫でられた。不思議だ。僕は普段、他人に触れられるのが苦手なほうなのだけれど、熊井さんに撫でられるのは嫌じゃなかった。ごついけど、暖かい、サラッと乾いた心地の好い手の平だ。父親ってこういう感じなんじゃないか、と思ってしまって胸が苦しくなった。

 しんみりしていると、空気を読まずに朔良さんがまたしゃしゃり出る。

「わあい、俺、蕎麦と天麩羅大好き。ありがとう、明彦さん」

「おまえの為に予約したんじゃねえんだけどなぁ」

 そうは言いながらも熊井さんは、がはは、と笑った。朔良さんを可愛い弟分だと思っていることが丸分かりだ。目を細めて、嬉しそうに朔良さんを見ていた。

 昼食もご馳走になることに落ち着き、熊井さんの奥さんがお茶の用意をしてくれた。もちろん、朔良さんの分もケーキと大福を出してくれる。熊井さんの奥さんの前では、朔良さんは神妙な顔でおとなしくしていた。どうやら初対面らしい。朔良さんは十九歳で地元を出て以来、清里にはほとんど戻っていないそうだから。

「あの、今日は両親の話を聞かせて頂けたらと思って来ました」

 僕が話を切り出すと、ぐずっ、と熊井さんは涙ぐんだ。

「うんうん、分かるよ。小さい時に亡くなっちゃったから思い出が少ないんだよね」

 参った。ものすごく良い人だ。話が進め難い。

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