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「あの、この本、覚えていらっしゃいますか?」
手っ取り早くボディバッグからあの本を取り出しテーブルの上に置いた。
「おお、懐かしいな。うん。確かに、僕たちが昔作った文芸同人誌だ」
熊井さんは本を手に取り、表紙の藍色のロゴを撫でて、遠くを見るような目で小さな溜息をついた。中身をパラパラとめくり始め、懐かしい、懐かしい、と何度も呟く。
しばらくそうして紙面を読んでいたが、
「ありがとう。僕もこの本は大事に取ってあるから、お父さんの本はもう返そうね」
はい、と熊井さんはとても丁寧に本を戻してくれた。
「文学サークルの話を聞かせてくれませんか?」
ううむ、と熊井さんは頭を掻いた。
「若気の至りを話すのは恥ずかしいなぁ」
応接間に混然と飾ってある釣り道具やカヤックのオール、大勢の人と撮った写真など、様々な趣味の賜物を視線で指し示し、熊井さんは照れ臭そうに続ける。
「僕はご覧の通り趣味人でね。高校生の頃から色々な事に首を突っ込んでたんだ。文学サークルはその場の適当な思い付きだったんだけど、ネット掲示板で山梨近隣のメンバーを募集したら二十人近く集まったんだよ。物好きがそんなにいたなんて意外だろ。まあ、ほとんどは飲み会以外の活動には参加してくれなかったけどね」
がはは、とまた熊井さんは豪快に笑った。
「こういう本って、発行するの大変なんじゃないですか?」
「いや、そうでもないよ。同人誌を専門で刷ってる印刷所に頼めば簡単なんだ。この本はみんなでお金を出し合って百冊だけ刷ったんだよ。印刷することより、むしろ原稿を集めることのほうが大変だった。僕たちが若い頃はインテリがカッコイイって雰囲気があってね。文学サークルって利口そうだろ?」
「ファッションで参加する者が多かったということだな」
月ヶ瀬さんが言い、熊井さんは人差し指を立ててにっこりする。
「正解。サークルの会合には参加するけど、作品は書けないって人が多くてね。かく言う僕も、実は一度も書いた事は無いんだよ。メンバーは二十人近くいたのに、作品を上げてくれたのはたった五人だった。まあ、読めたもんじゃなかったけどね」
苦笑してから、パッと熊井さんは表情を変えた。
「でも、祐樹だけは例外だった。そこそこ読める童話を書き上げて持ってきてくれた。あいつが童話なんて笑っちゃうけどね。でも、お陰で本らしくなったよ。あいつはあれで芸術家肌でね。高校生の頃からアコースティックギターを弾いて、自作の歌なんかも作ってたし、何でも器用にこなした」
ここで熊井さんは一息つき、喉を湿らせるために紅茶を口に含んだ。僕たちも倣って紅茶を頂く。アールグレイの良い茶葉だ。ベルガモットの強い香りが胸に抜けて気分がほっとする。熊井さんは意外なほど優しい仕草でティーカップをソーサーに戻した。
「この本、結構売れたんですか?」
「いやいや、とんでもない」
熊井さんは顔の前でぶんぶんと手を振りながら言った。
「一冊も売れなかったよ。作ってみたはいいけど、どうやって売っていいのか分からなかった。最近は文学フリマっていう即売イベントがあって、素人の文芸サークルにも作品を売る場が出来たんだけどね、僕たちが若い頃にはそんなものはなくて、文芸同人誌なんて作っても、サークルメンバーに一冊ずつ配布した後は、知り合いに無理矢理押し付けるしかなかったなぁ。無い知恵を絞って、観光客相手に商売してるカフェに置いて販売して貰ったりもしたんだけど、ちっとも売れなくて、最後は蛍ちゃんが残った本を引き取ってくれてサークルは解散したよ。結局、本を作ったのはその一回きりだった」
そうなのか、と思いながら熊井さんの話に適当に相槌を打つ。門外漢なので何を言っていいのか分からない。とにかく、本を作っても簡単には売れないということだけは分かった。どんな道にも苦労はあるのだな、と……
気を取り直して、話を進める。
「そのサークルには、母も参加していたんですか?」
熊井さんは、またも懐かしそうに目を細めてくすっと笑った。
「もちろん、アリスちゃんもメンバーだったよ。でも、彼女は祐樹がお目当てで会合に参加していたようなものだったからね」
そこで熊井さんは言葉を切り、君のパパ、若い頃はものすごくモテたんだよ――と茶目っ気たっぷりにウインクした。
「まあ、だから、アリスちゃんは執筆には興味無かったんじゃないかな。文化的な雰囲気を楽しみたかっただけだと思うよ。もちろん作品を書いたことは一度も無いはず。そんなわけで、彼女の作品はその本には載ってないよ」
少しガッカリしたけれど、母が物語を書くところは想像もつかなかったので、それが自然のような気もした。
「あの、つかぬ事を伺いますが、父は英語が得意だったんでしょうか?」
「祐樹が? 英語? まさか!」
「じゃあ、あの……母は、母はどうでしたか?」
「アリスちゃんもあんまり英語は得意じゃなかったと思うな」
なんだ、そうだったのか……
それなら、本に挟まっていた便箋に綴られていた英文は、母が書いたものではないということになる。なんとなく残念で微妙な気分になった。あんな激しいラブレターのような文面なら、母が書いたものであって欲しかった。
「そうですか……」
視線を下げた僕に、熊井さんはあらぬ勘違いをしたようで、がっかりしないであげて、と、あたふたしながら両親を庇い始めた。
「僕たち団塊ジュニアの世代は日本の英語教育が今より低い水準にあった時代に育ってしまったからね。大学を出ていても英語は出来ないって人が意外と多いんだ。オジサンが子供の頃は、まだ街に外国人も多くなかったし、君のお婆ちゃんのように海外に出て働くという人も少なかった。限られたエリート以外は英語なんて必要ない時代だったんだ。それに、こんな田舎だしね。真面目に英語を習得しようとする奴は少なかったんだよ」
僕と月ヶ瀬さんは、たぶん同じ思いでくすっと顔を見合わせた。
熊井さんは本当に良い人だ。
「あの、これ、誰の字か分かりますか?」
僕が白い便箋を差し出すと、熊井さんはハッと目を見開いた。
「――これ、どこにあったの?」
にわかに空気が変わった。
「父が残したこの本に挟まっていたんですが……誰の字か分かったんですか?」
「い、いや、分からない。メンバーにこんな字を書く人はいなかったと思うよ」
嘘だ……
あまりにも分かり易く熊井さんは嘘をついた。目の動きと表情から察するに、便箋に書かれた英文を読んだはずだ。読んで、意味を理解した。その上で――
咄嗟に誰かを庇った。
陽気な熊井さんが、警戒するようにぴんと張り詰めている。動揺しているのがありありと分かり、僕も月ヶ瀬さんも、その件についてはそれ以上問い詰められなかった。下手に深追いし過ぎて頑なになられても困る。
「そうですか……」
僕は知恵を絞る。警戒されずに聞き出さなければいけない事があるんだ。
「あの、父が高校生だった頃の事を聞かせて貰えませんか。蛍さんと付き合ってた時期もあるって叔父さんに聞いて……その、父がどんな高校生だったのか分かったら、父がどんな人だったのか想像しやすいな……って……」
子供っぽく見えるよう取り繕った声音が功を奏した。
「う、うん、いいよ。別に隠すような話じゃないしね……」
熊井さんの様子には、僕たちに疑いを抱かせないよう、なんでもないふりをしているような、ぎくしゃくした感じが残っていたけど、父と蛍さんの高校時代の話をすることには異論はないようだった。
自分を落ち着かせようとでもするように残りの紅茶を一気に呷り、大きく息をつくと、熊井さんは、父と蛍さんと自分が高校生だった頃の話を始めた。
「あれはもう二十年以上も前の事だからね……ああ、本当に懐かしいな。こう言ったらどうかと思うけどね。アリスちゃんと祐樹は結婚したくらいだから最初からお似合いだったけど、蛍ちゃんと祐樹は、ううむ、ちょっと不似合いだったかな――」
若い頃の事を思い浮かべようとする熊井さんは、少しだけ少年のようにも見えた。
†††
蛍ちゃんは誰からも好かれる、感じの良い優等生だったよ。
子供の頃から明るく朗らかで、思い遣りもあって、みんなに親切で、勉強も運動も出来て、高校二年生の時には上級生からの推薦で生徒会長にまで選ばれたんだ。おまけにサッパリした雰囲気の美少女だった。当然、彼女に片思いしている男子は多かった。けど、蛍ちゃんは高値の花だったからね。告白する勇気のある奴はいなかった。
すごくモテるのに、恋人が出来ないって女性もいるだろう。「美人で有能なのに、どうして恋人がいないのか分からない」って言われるタイプ。あれは、美人で有能だから恋人が出来ないんだよ。男は、みんながみんなじゃないけれど、自分よりレベルの高い女性が苦手だったりもするんだ。よほど自信のある男でないと劣等感を刺激されるからね。気後れしちゃって誰も声を掛けられないから、結果的に、美人で有能な女性が独り身でいる、なんてことは珍しくない。
みんな、蛍ちゃんを大好きで憧れていた。でも、世間一般の例に漏れず、陰からこっそり見ているのが関の山だったよ。揃いも揃って情けないけど、誰も蛍ちゃんへの愛の告白には挑めなかったんだね。
かく言う僕も、実は、ほんのちょっぴり蛍ちゃんを好きだった。
本当に、蛍ちゃんは素敵だったよ。
アリスちゃんも可愛らしくて魅力的だったけど、蛍ちゃんとはタイプが違った。アリスちゃんには、彼女のことなら助けてあげられるんじゃないかって、男が夢を見ていられる隙があった。
もちろん、アリスちゃんのことも好きだったよ。
あ、浮気性だと思う?
でも、男ってこういうもんだから。綺麗な女性も、可愛い女性も、そうでない女性も、みんな好きだよ。まあ、実際に手を出す勇気は一ミリも無いけどね。
ええと、なんだっけ?
ああ、そうそう、蛍ちゃんと祐樹がどうやって付き合うことになったか、だったね。
あれは、高校二年生になってすぐの頃だったかな。いや、初夏になっていたから、五月の終わりくらいだったかもしれない。真っ青な空にエメラルド色の若葉がキラキラして綺麗だった。石楠花の紅い花が満開だったのを覚えている。
ああ、うん、やっぱり、五月の終わり頃だ。
蛍ちゃんに頼まれて、祐樹を無理矢理引っ張って吹奏楽部の楽器運びの手伝いに行ったんだ。僕はこの外見だから、人から頼み事をされやすいんだよね。パッと見で「善い人に見える」ってよく言われる。
「水森蛍がいるんだ。行こうぜ。彼女と友達になれるチャンスだぞ」
僕は舞い上がっていた。祐樹にも、ぜひ蛍ちゃんと仲良くなって欲しかったんだ。
その頃の祐樹は家庭の事情でちょっと世を拗ねたようなところがあったから、明るくて溌剌とした蛍ちゃんと接すれば、影響を受けて少しは前向きになるんじゃないか、なんてお節介な気持ちもあった。
母親に愛されていない、捨てられた――って陰気に愚痴るのが祐樹の常だったから、そんなバカな考えは吹き飛ばしてやろうと思っていた。
二人が初めて目を合わせた瞬間。あれは、すごい瞬間だった。
運命の出会いって信じるかい?
僕は、あの二人こそが運命の出会いを果たした奇跡のカップルだと、しばらくの間、まぬけにも信じていたんだ。
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