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「その状況から推察すると、水森蛍が祐樹さんを殺害した可能性はゼロだ。彼女には殺す理由も無い。幼い君が、なんらかのきっかけで、二つの無関係な出来事を結び付けて恐ろしい想像を育ててしまった、と考えるのが妥当だ」

 はあ、と溜息をつく。

「参ったな……やっぱり、蛍さんには父さんを殺す事は出来ないね」

 それじゃ、犯人は母さんだ。事故死でなければ。

 正直、父さんが生きている可能性なんて無いと思っている。きっと死んでる。死んだに決まってる。だって、生きているなら、僕を迎えに来ないわけがない。僕はずっと蛍さんの家で待っていた。待っていたのだから……

「ところで、母上は事件当夜は取り乱しており、翌日は、ずっと君と水森蛍と一緒に過ごしたのではないか?」

 うん、と僕は頷いた。月ヶ瀬さんは話を続ける。

「では、《4》の可能性は無い。母上には余裕が無く、翌々日の早朝には猟銃自殺を図ってしまっているから、穴を掘って埋める時間があったとも思えない。山林に捨てたという処理法にほぼ限られるのだが、君の母上がゴリラのような怪力女でもない限り、成人男性の遺体を一人で運ぶことは不可能だ。つまり、もしも遺体を持ち帰っていたなら、その隠蔽に水森蛍の協力が不可欠なのだ」

 感覚が研ぎ澄まされていくような感じがして、ひゅっ、と背筋が寒くなった。真実を厚く包んでいた乳白色の薄いベールが一枚ずつ剥がされていく。淡く、ぼんやりとしていたモノが次第に輪郭を明瞭にさせていく。

「よって、祐樹さんが殺害されているパターンの中から、私が推すのは、『《5》アリスが殺して、遺体を持ち帰り、蛍は遺体の処理を手伝った』だ。この場合、現時点で考えられる経緯は、新婚旅行先で、何らかの異変が起こり、アリスさんは祐樹さんを殺害してしまい、遺体の処理に困って水森蛍に泣き付き、水森蛍はアリスさんに同情して、遺体の損壊と遺棄に手を貸した――といったところかな」

 そう言われて、ぎくりと身が竦んだ。僕は恐ろしい事件の真相を追っているのかもしれない。その事実を今更ながらに自覚して、体の芯から震えが来た。ゾッとする。

 本当に暴いてしまっていいのだろうか――

 怖い。ものすごく、怖い。

「もちろん『《1》行方不明だが、どこかで生きている』が最良だし、そうでないにしても『《2》海で事故死』であって欲しい。しかし、それは証明が難しい。祐樹さんが生きて現れるか、遺体がどこかの海岸で発見されなければならないからな。だから、《5》のケースの証拠を探し、その証拠が無いと証明する背理法で、逆に《1》か《2》、最悪でも『《3》アリスが殺して、海に遺体を捨てた』のいずれかのケースであると証明したい」

 大丈夫か、と月ヶ瀬さんに声をかけられ、自分が少しマズイ状態だと気付いた。え、と問い返すと、小刻みに震えていた手をそっと握られる。

「無理しなくていい。君の感覚を頭ごなしに否定するつもりはない。私の考えが間違っているかもしれないからだ。情報が不足しているだけで、君が正しい場合もあり得る。母上が父上を殺したなどと考えるのは辛いだろう。私もそうは思いたくない。だからこそ、母上が殺したという可能性を否定する為に、敢えて《5》のケースの証拠を探すのだと理解して貰いたい」

 ああ、そうか、と溜息をつく。その通りだ。僕は母さんが父さんを殺したなんて思いたくなかった。だから、蛍さんが殺したと思い込む事で逃げていたのかも知れない。その卑怯な可能性に気付いて、気分が悪くなった。

「月ヶ瀬さんはクールだね」

 厭味に聞こえないかと、言ってしまってから危ぶんだのだけど、月ヶ瀬さんは気にしていなかった。長い黒髪をサラリと揺らして清潔に微笑む。

 もう大丈夫だな、と握っていた手が離された。名残惜しく思ってしまって視線で月ヶ瀬さんの手を追い掛ける。白くて細い穢れの無い綺麗な手だった。

「何事も決め付けは良くないのだ」

 白い手がタブレットPCの電源を切る。

「朔良さんは事故だと決めつけていただろう。君の父上は酔って海に落ちたのだ、と。決めつけてしまったらそこで思考は停止する。他のあらゆる可能性を無いものにしてしまう。もちろん、彼はそれで納得している方が平安でいられるのだから、それでいいのだが、君の場合は違う。それでは、肉恐怖症を克服できない。多くの可能性を考えて、証拠を探して証明し、原因になっている疑念を完璧に否定するしかないのだ」

 はあ、と溜息が漏れてしまった。

 タブレットの弱い光でも有ると無しでは大違いだ。辺りの闇が急に濃くなった気がして心細い。月ヶ瀬さんにもう一度手を握って欲しい。ハッキリそう思ってしまい、甘えているなと気が付いて、ぶんぶんと頭を振った。しっかりしなきゃ。

「続けても大丈夫か?」

 パンッ、と両頬を手の平で叩いて気合いを入れた。

「うん。いいよ、話を続けて」

 うむ、と暗がりの中で月ヶ瀬さんは例の悪徳業者のような不敵な笑みを浮かべた。

「私は正直、君の父上には、生きていないなら海で死んでいて欲しいと思っている。海難事故で遺体が発見されない事も珍しくはない。事故か、母上が殺害したのか、どちらにせよ、父上が海で亡くなったのであれば、『水森蛍が君の父上を殺して料理し、君に食べさせたかもしれない』などというおぞましい可能性は綺麗さっぱり消える」

 まあ、それ以前にだ、と月ヶ瀬さんは口調を変えた。

「よしんば、君の母上が父上を殺害して、その遺体を持ち帰ったとしても、きちんと血抜きをして熟成させていない肉は臭くて食えたものじゃない。だから君は父親の肉なんか食べてはいない。それはもうすでに証明されている」

 証明されている――のだろうか……僕は父さんの肉を食べていない、と。

 確かに、そのほうが僕は楽になる。

 でも、理屈で感覚を捻じ伏せて納得しようとしても、納得できない。僕は父さんの肉を食べていないと確信したい。もっと、ハッキリと、何かの証拠をこの目で見て。

「ごめん。僕はやっぱり蛍さんが父を殺したという疑いを捨て切れない」

 記憶から消えてくれない三つの言葉――

『肉にするしかないじゃない』

『週末のご馳走、あれ、あなたが思っていた通りのモノよ』

『パパは殺された』

 あれを否定する事が出来ない限り、僕はどうしても楽になれない。

「理屈は分かるけど、僕の感覚は、蛍さんが犯人だって言ってるんだ」

「うん。君はそう言うだろうと思っていた」

 月ヶ瀬さん少し顎を見上げて星を探すような表情をした。

「私は傲慢だから君を救いたい。そう出来るのであれば、君の母上を犯人に仕立てる事すらしてしまいたいと思うのだ」

 たんっ、と立ち上がり、手を差し伸べられた。王子様に求愛されてるみたいだ。

「だから、私は、自分の信念に基づいて、君の母上が犯人である証拠を探すよ。それを認めてくれるかい?」

「うん。月ヶ瀬さんの気持ちは分かってる。ありがとう。お互い、自分の信じる事をしよう。僕は蛍さんが犯人である証拠を探す」

「よし。君が主張する『《6》蛍が殺した』のケースの証明は君に任せる」

 ぱしん、と僕は月ヶ瀬さんの手を取る。そのまま手を引かれ、僕も立ち上がった。

「とにかく情報収集をしよう。どんな証拠を探せばいいのか、それが有る、あるいは無い事によって、君が父上の肉を食べた可能性を完全に究極的に否定できるモノ――それが何か、まずは考えなければ。その為に、もっと情報が必要だ」

「うん、そうだね。なるべく多くの話を聞きたい」

「では、手近な人物から当たってみないか? 蛍さんと熊井氏は明日にならなければ訪ねられないが、君の両親の事を知っている人物がおあつらえ向きに部屋にいる。運転中は込み入った話は出来なかったが、今なら落ち着いて話を聞かせて貰えるはずだぞ」

「あ、そうか。朔良さん」

 事件の五年前に上京し、事件当時はサイパンにいたので詳しい事は知らないだろうとアテにしていなかったが、少なくとも大人だった。九歳の子供だった僕よりは事件の概要を知っているかも知れない。そうではなかったとしても、何らかの情報を得られるかも。

「うん、分かった。朔良さんに話を聞いてみよう」


   †††


 ロッジ内に戻ると、朔良さんは濡れた髪にタオルを被って、ソファでだらしなくくつろいでいた。フロントのお姉さんに貰った高原みるくキャラメルを食べながら。

「俺の知ってる事? いや、もちろん、話してもいいけど……」

 ぱんっ、と朔良さんは合掌するように両手を顔の前で合わせた。

「その前にひとつ謝らせてくれ。義姉さんが亡くなった後、ずっと蒼依くんを放っておくことになってしまって、すまなかった。ごめん」

「え、そんなこと……別にどうでもいいよ。謝らないで」

 いや、どうでもよくない、と言って朔良さんはテーブルに両手を突いて頭を下げた。そんな風にされると困る。

「義姉さんが亡くなった後、母さんから日本に戻って蒼依くんの面倒を見るよう言われたんだけど、さすがに、あの時ばかりは母さんが帰国して孫の世話をすべきだと思ったんで聞く耳を持たなかった。子供の頃から積もりに積もったものもあってものすごく腹が立っていたしね。挙句に兄さんはいなくなるし、義姉さんもあんな事になって、ぜんぶ母さんが悪いような気がしていた。まさか、そんな状況でも母さんがNGOの仕事を優先するとは思わなかったんだ。蒼依くんが蛍さんの世話になっていたって知ったのは、母さんが東京に引っ越してから、三ヶ月近く経ってからだったよ。そういうのは、ぜんぶ俺の勝手だ。本当にすまなかった」

「もうやめてよ、朔良さん」

 土下座のように長々と頭を下げたまま朔良さんは固まってしまった。

 僕としては、蛍さんにお世話になっている間、朔良さんに迎えに来て欲しいとか、一度も思ったこと無いし……

 参ったなぁ、と苦笑いを浮かべていたら、月ヶ瀬さんが助け船を出してくれた。

「蒼依くんは、朔良さんに訊きたい事があるのではなかったか?」

「あ、ああ、うん、そう。話を聞かせて貰ってもいい、朔良さん?」

 わざとらしく手を叩いて言ったら、朔良さんは思い出したように顔を上げた。

「あ、そうだったね。何が聞きたいの、蒼依くん?」

 どうも朔良さんのノリは苦手だ。わざとらしく軽薄で、真面目なムードを必死で避けているような感じがする。朔良さんとの会話は、話がすべて上滑りしてしまって落ち着かない。逃げ癖のある人なのだと思う。僕とは違う形で、いつも何かから逃げている。

「まあ、座って落ち着こうではないか、蒼依くん」

 苦笑いしている月ヶ瀬さんに促され、ミネラルウォーターを持って、朔良さんが身を沈めていたソファの対面に据えられていたソファに座る。

 ローテーブルを挟んで向かい合い、僕はおもむろに切り出した。

「朔良さんは、父さんがどうなったと思ってる?」

 ズバリと問われ、朔良さんは珍しく真顔になって固まった。

「それ、どうしても話さなきゃダメか?」

「うん、聞かせて欲しい」

 追い詰めるようにじっと目を覗き込んだら、朔良さんは渋々の態で口を開いた。

「なんて言うか……あの人はさ、書類の上では行方不明ってことになってるけど、どこかで生きてるって気はしないんだよな。ごめんな、蒼依くん……」

 パン、とまたも両手を合わせて拝んでくる。

「気を遣わないでよ、朔良さん。もうそんなに子供じゃないし、綺麗事で誤魔化したりしないで思ってる事を正直に聞かせて欲しいんだ。真実が知りたくて、わざわざ清里まで来たんだから」

 うう、と朔良さんは微かに呻いた。茶化して逃げたい衝動と、知っている事を語るべき責任との狭間で葛藤しているのだろう。

 朔良さんは弱い。根っこは僕と似ている。だから、ここで急かして追い詰めてはいけないと、なんとなく分かった。月ヶ瀬さんも分かっているようだった。大きな黒い瞳で、じっと朔良さんを見守っている。朔良さんが話す気になってくれるのを、僕たちは辛抱強く待った。がくり、と肩を落として、やっと朔良さんは口を開いた。

「兄さんは事故死だよ。蛍さんから聞いた話だけど、確実だと思う」

 それだけ言うと、またしばらく黙り込み、息を吸い、たどたどしく語り始めた。


   †††


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