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 清里高原は明治以降に開発されたリゾート地だ。

 都心からのアクセスにさほど難渋せず、自然の景観にも恵まれ、スキー場やレジャー施設も多くある為、首都圏の人々に根強い人気がある。個人の別荘も沢山建っており、牧場や乗馬場、テニスコート、アミューズメントパーク化されたフラワーガーデンや、地元の特産品を加工する工場などもある。乳製品やハム、季節の果物のジャム、ラベンダーの香料などは老若男女問わず広い層に愛されている。夏は避暑に訪れる観光客で賑わい、冬はウインタースポーツを楽しむ人々で賑わう。観光客相手のホテルやペンション、レストランやカフェなどは可愛らしいデザインの西欧風の建物が多い。その景色を眺めれば、アルザス=ロレーヌやトランス・アルピーナに居るような気分になれる――というのは某観光案内の受け売りだ。

 長坂ICで中央高速道を降り、山間の一般道を抜けて、やっと宿泊予定地のロッジ型ホテルに着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 朔良さんのピンクの軽自動車を駐車場に停めてトランクから荷物を下ろす。時計を見ると、時刻は夜七時半になっていた。慌ててフロントのある建物に駆け込み、チェックインの手続きをする。フロントのお姉さんにじろりと見られて、初めて、朔良さんが一緒で良かったと思った。僕と月ヶ瀬さんの二人だけだと生意気な高校生カップルに見える。それはちょっと気恥ずかしいし、月ヶ瀬さんに申し訳ない。

 ちなみに、そのフロントのお姉さんは、見た目だけは良い朔良さんに舞い上がってしまったようで、サービスです、と言ってフロントの横に置いてあった高原みるくキャラメルをくれた。そしてなぜか、可愛い弟さんと妹さんですね、とお世辞を言われながら夕食の席に着き、あらかじめ注文しておいた肉抜きメニューに舌鼓を打った。ベジタリアン向けのメニューだが、これには割増料金が必要だった。

 ホテルの手配は出発前に朔良さんがしてくれていた。シーズンオフなので当日でも予約が取れたそうだ。

 食事を終えた後、ゆっくりロッジの部屋を確認した。小ぢんまりとしたリビングには大きなテレビが据え付けてあり、ミニバーと冷蔵庫、湯沸し用のポットがあった。ベッドルームは二つあり、それぞれに鍵がかけられるようになっている。バスルームは一つだが、月ヶ瀬さんは気にしていない様子だった。

 到着が夜になってしまった事は少し惜しまれる。月ヶ瀬さんに清里の美しい景色を見せてあげたかった。どのみち明日には見せてあげられるのだけど、なんとなく、晴れ渡った青空の下、輝く森の緑を眺めながら僕の故郷に入って欲しかったのだ。

 清里の森は、とても美しいから――

 月ヶ瀬さんから一人ずつ順番にシャワーを浴びて浴衣に着替えた後、僕と月ヶ瀬さんは、朔良さんがシャワーを浴びている間、二人でバルコニーに出て話をした。

 雨は止んでいて、湿った森の匂いが濃密に立ち込めている。霧も出ているようで、ホテルのクラシカルなデザインのカンテラに照らされた辺りが白っぽくけぶっていた。

「綺麗な場所だな」

「月ヶ瀬さんにそう言って貰えて嬉しいよ」

 下に大きめのTシャツを着ているとは言え、浴衣姿の月ヶ瀬さんは妙に色っぽくてドキドキしてしまう。まだ少し濡れている髪からシャンプーの香りがした。

「来れて良かった、君の為に」

 にぱっ、と月ヶ瀬さんは笑う。カッコ良過ぎて眩暈がする。

「その王子様みたいなのは天然なの、月ヶ瀬さん?」

 顔が熱い。耳まで真っ赤なっている事が自分で分かる。ふふん、と月ヶ瀬さんは薄い胸を反らした。ああ天然さ、とスゴイ台詞を吐きながら。

「しかし、たった二日というタイムリミットの中で、何を探せばいいかも分かっていない我々は、何かを探し出さねばならないのだ。難易度は高いぞ」

 そうなのだ。金曜日に出発して日曜日の夜までには帰れと祖母に厳命されている。今夜はもう十時を回ってしまっていて、今から蛍さんと熊井さんを訪ねるわけにはいかない。実質、明日の土曜日と、明後日の日曜日、二日間しか調査には当てられない。朔良さんは僕と月ヶ瀬さんが何をしに来たのか知らないから、僕が両親の思い出話を聞きに来ただけだと思っている。日曜日は観光をすると決めているくらいだ。

 本当に、僕は何を探せばいいのだろう?

 でも――

「どういう結果になっても僕は君に感謝するよ」

 うむ、と月ヶ瀬さんは鷹揚に頷いた。

「それはそうと。このあたりで一度、意見の摺り合わせをしておかないか?」

「意見の摺り合わせ?」

「お互いの認識に齟齬があるとマズイだろう。目的も確認しておきたいしな。少し待っていてくれたまえ」

 月ヶ瀬さんはカッコ良く言って、一旦ロッジ内に戻りタブレットタイプの小型PCを取って来た。手招きされて、バルコニーに設置されていたウッドベンチに二人並んで腰掛ける。膝に乗せたPCの電源をONにし、月ヶ瀬さんは、昨日ショッピングモールのベンチで語った僕の話を、箇条書きで纏めたメモを見せてくれた。


   †††


『問題の根=恐怖症の原因』

 父の肉を食べたかも知れない、という疑念の為に肉に対する強い嫌悪と恐怖があり、吐き気や眩暈、場合によっては失神といった過剰反応を示してしまう。


『小日向祐樹はどうなったのか』

 おおまかに、6つのケースが考えられる。

《1》行方不明だが、どこかで生きている。

《2》海で事故死。

《3》アリスが殺して、海に遺体を捨てた。

《4》アリスが殺して、遺体を持ち帰り、一人で遺体を処理した。

《5》アリスが殺して、遺体を持ち帰り、蛍は遺体の処理を手伝った。

《6》水森蛍が殺した。(可能性は低いと思う。←私見)

※後述の条件から、どのケースであっても祐樹の肉は食えない。


『当時の状況』

・父母は、息子=小日向蒼依を水森蛍に預け、十年遅れの新婚旅行で行先を決めない三日間の旅に出ていた。三日間、水森蛍はずっと蒼依と共にいた。

・母から、深夜十二時を回った頃に「今から帰る」と電話があり、その時、「ごめんね、パパとはもう会えないの」と言われた。

※この時点で祐樹は死亡、あるいは消息不明になっている。

・電話越しに波の音が聞こえた。

※清里から最短距離の海岸まで、車で最低でも二時間半~三時間はかかる。

・もう一度電話がかかってきたが、この時は水森蛍だけが応対した。

・電話の音で目覚め、寝るように言われたが、起きて父母を待っていた。

・深夜四時過ぎ、だが夜明け前に、母だけが帰って来た。

・「パパは?」と問い掛けたら、またも「パパとはもう会えない」と言われた。

・母は泣いていて、水森蛍がココアを作ってあげるからキッチンで飲もうと言った。

・ココアを飲んだ直後、眩暈がして寝てしまった。

・怖い夢を見た。テーブルの上に顎を乗せた父と目が合った。表情は無く、目は虚ろな穴がぽっかりと開いているようで恐ろしかった。

・その時、誰かの声を聞いた気がする。「肉にするしかないじゃない」

・翌日、午後一時過ぎにベッドで目が覚め、リビングで母が泣いていた。

・その時、母は「パパは殺された」と言った。

・翌日の早朝、母は自殺した。

・その後、五か月間、水森蛍の家で過ごした。

・水森蛍は週末に凝った肉料理を作ったが、何の肉か教えてくれなかった。

・別れの日、「週末のご馳走、あれ、あなたが思っていた通りのモノよ」と言われた。

※ただし、最低でも死後一時間以内に血抜きをしなければ、肉は臭みが残って不味くなる。


   †††


「こうして纏めてみるとだな……」

 月ヶ瀬さんは、トン、とタブレットの端をひとさし指の腹で叩いた。

「やはり、君の母上が、どこかの海辺で君の父上を殺して、遺体を水森蛍の家まで運んで来て、二人でバラバラにして捨てた――というストーリーにしか見えない。怖い夢を見た事と、その時に聞いた気がする言葉は、寝惚けた君が父上の遺体がバラバラにされる現場を見てしまったとも解釈可能だ」

「え? 母さんと蛍さんが二人で……?」

 共犯……という事……?

 なぜか、その可能性は考えたことが無かった。言われてみると『蛍さんが父さんを殺して肉にした』という考えより、よほど自然な考えだ。

 母さんが父さんを殺害し、蛍さんと二人で、遺体をバラバラにした――

 それはとても恐ろしい光景のはずなのに、なぜか、異様に美しい姿で像を結んだ。キリストの遺体に抱き付いて涙を流すマグダラのマリアと、彼の足に香油を注いだベタニアのマリアを共に描いた、残酷でありながらも、荘厳で、清廉な信仰心に満ちた、見たこともない宗教画に似た、光と闇が踊る理想の世界。なぜだろう。なぜか、なぜか、すんなりと納得がいく。透き通った水を喉に通すように、すんなりと受け入れられる。

 父さんは、女性に殺されるべき人だった――

 聞いているのか、と問われてハッと顔を上げる。

「どうした、何をぼうっとしているのだ?」

 月ヶ瀬さんの秀麗な顔が吐息もかかるほど間違にあって、僕は驚いて大袈裟に飛び退ってしまった。

 しっかりしたまえ、と月ヶ瀬さんは視線をタブレットに戻す。

「君は一連の流れのように記憶しているが、水森蛍が肉料理を作った事と、別れの日に彼女に言われた言葉は、こうして箇条書きにしてみると、事件あるいは事故とは関係無いように見えないか?」

「うん、そうだね」

 確かに、その二つだけが浮いている。

 トントントントン、とタブレットの端を叩く音。月ヶ瀬さんは慎重に言葉を選びながら説明を始めた。

「《1》《2》《3》の場合、そもそも遺体が清里に無いのだから、君が父上の肉を食べさせられたという可能性は無い。《4》《5》の場合、肉は血抜きが間に合わず臭くて食えないとすでに証明したと思っている。最初に君からこの話を聞いた後、少し経ってから思い出したのだが、たまにマルシェの屋台に混ざるジビエのハズレ肉があるだろう。おそらくあれが血抜き処理の間に合わなかった肉なのだ。何の肉でも同じだよ。あれだけはどうしようもない。強烈なアンモニア臭がして、煮ても焼いても食えんのだ」

 なるほど、と相槌を打ちながら、マルシェってなんだ、ジビエって何だっけ、と余計な事を考えてしまったが、そこは無視する。月ヶ瀬さんが説明してくれる推理を理解して、きちんと覚えておかなければ。混乱したくない。

「『《6》水森蛍が殺した』はそもそも不可能だ。祐樹さんの身に何らかの異変が起こったであろう時刻が問題だ。母上から、深夜十二時を回った頃に最初の電話があった時、君は『パパとはもう会えないの』という父上の身に異変が起きた事を告げる母上の言葉を聞いている。どう考えても、深夜十二時以前に事件あるいは事故は起きている」

 そうなのだ。

 異変は、母が海辺にいた深夜十二時前に起こってしまっている。時間と距離が、蛍さんの殺人を不可能にしている。

 月ヶ瀬さんも僕と同じ考えだった。

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