【参/記憶の森はいずこ】

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 読み終えた月ヶ瀬さんは夢から醒めたように溜息をついた。

「なんというか、綺麗だが、どことなく壮絶な童話だな」

「うん、それは昨夜読んだ時に僕も思った」

「これは何のメタファーだろう? 虎と、一角獣と、蜥蜴には、それぞれ固有のモデルがいる気がする。まるで現実の人間関係を描いたように生々しいではないか」

 月ヶ瀬さんは細い指を秀麗な顎に当て考え込む。

「その童話、俺もさっき出発前に読んだよ」

 朔良さんも唐突に会話に入って来た。

「本を発行した時に熊井さんが一冊くれたんだけどさ。その時は面倒くさかったから読まずに捨てちゃった」

「え? 捨てたの――?」

「うん。でも、母さんに言われて、そんな本あったなぁ、って思い出して、丁度テーブルの上に置いてあったから、兄さんの童話だけ読ませて貰ったよ」

 俺エライでしょ、的な態度で言って来たが、僕も月ヶ瀬さんも呆れていた。知人の作った、しかも血を分けた兄の作品が載っている本を捨てるとは……さすが、義理という項目のない辞書を持つ朔良さん。凡人には真似出来ない。

「あれ、なんかグサグサ刺さるモノを感じるんだけど、気のせいかなぁ」

「気のせいですよ」

 朔良さんは気にせず言葉を継いだ。

「モデルがいるとしたら、虎は兄さん自身だな。自信過剰で傲慢で、人を寄せ付けない気難しい所があったから。時々ぞっとするような冷たい目をする人だったよ。子供の頃から散々世話になっておいて言うのもなんだけど、優しい人じゃなかった。俺は正直、怖くて近付きたくなかったね」

 僕は思わず黙り込んでしまった。

 そんな僕の反応に、朔良さんは分かり易く慌てた。

「うっ、ごめん、蒼依くん。まあ、でも、ほら、こんな繊細な話が書ける人だったとは驚いた。兄弟とはいえ、全然知らない面もあるんだなぁ」

 おまえの父親を悪く言ってすまなかったと謝罪していることが伝わり、僕は曖昧な苦笑を浮かべる羽目になった。それをバックミラー越しに確認して、朔良さんは安堵とも諦めともつかない溜息を洩らす。

 気を取り直すように朔良さんは言葉を続けた。

「蜥蜴は、たぶん熊井さんだろうな。兄さんを仲間のいる場所に誘うなんて、熊井さん以外には誰も出来なかった」

 熊井さんというのは、この本の奥付に名前のある人だ。文芸サークルのリーダー。

 僕たち三人は、そこで少し黙り込み、探り合うようにお互いの出方を探った。

 数秒後、異口同音に僕と朔良さんが同じ疑問を口にした。

「一角獣は誰なんだろう?」

「それは決まっているではないか」

 常に無い、優しく、うっとりとした口調で月ヶ瀬さんは言う。

「これは愛の物語だ。ラブレターと言い換えてもいい。で、あれば、一角獣のモデルは君の母上だと考えるのが妥当だな」

「でも、それだと話の筋が通らないんじゃないか? 童話の中で虎は一角獣を遠ざけている。蒼依くんという子供まで儲けたアリスさんが、兄さんからこうまで激しく遠ざけられたというのはおかしな事になる」

 朔良さんは珍しく真面目な声音だった。

「バカバカしい。奥付を見たまえ。一九九七年十二月――この本は、祐樹さんとアリスさんが出会って交際を始めた時期に発行されている。確かそうだったよな、蒼依くん?」

「うん。その時期に付き合い始めたって、昔、母さんが言ってた」

「これが愛の物語である限り、一角獣はアリスさん以外には有り得ないではないか。きっと後日談があったのだよ。一角獣と虎はやっぱり仲良くなって――と」

「そうかもしれないね」

 僕が同調すると、月ヶ瀬さんは、ふふん、と薄い胸を反らした。

「私はこう見えて少女漫画が大好きなのだ。恋愛物には一家言あるぞ」

 その時、はらり、と何かが本の間から滑り落ちた。

 一枚の白い便箋だった。

「何か書いてある」


   †††



There was once a Tiger, who lived in the thick forest. The forest was covered with emerald green leaves.

Tiger was haughtiness, he had terrific awful force, he killed and ate many many animals.

If you force an unwilling thing on Tiger, he’ll die for his pride.

Though, I’ll cut off his head, before it'll happen.


(昔々、深い森に棲む一匹の虎がいました。森はエメラルドグリーンの葉に覆われていました。虎は傲慢で、とても恐ろしい力を持っていましたし、彼は沢山の動物たちを殺して食べていました。

 もしも意に添わぬ事を強いられたら、虎はプライドの為に死ぬでしょう。もっとも、それが起こる前に、私は彼の首を斬り落とすでしょうが……)



   †††


「英語……どういう意味だろ?」

 足元に落ちた便箋を拾い上げ、僕は呟いた。

「なになに? 英語って何? 何の話?」

 興味津々で朔良さんは声を弾ませる。

「この本に便箋が挟まってたんだよ。僕とオジサンが読んだ時には気付かなかったのに、今、たまたま月ヶ瀬さんが本を振ったら落ちて来た」

「マジで? 見たい!」

 朔良さんはそわそわし始めた。

「後で見せるから! 黙って運転に集中して。気を散らさないでよ。危ないでしょ」

「その通りだ。運転手は仕事に専念したまえ。貰った報酬分、真面目に働かなければお婆様に言い付けるぞ」

「ええっ、なんでよ? じゃあ、せめて読んでよ」

「やだよ。英語苦手だもん」

「じゃあ、次のサービスエリアに入る。予定がズレても文句言いっこ無しだぞ」

 今すぐ見たいと言い出しそうな勢いだ。ちっ、と目が覚めるような舌打ちが響き、横を向くと月ヶ瀬さんが朔良さんを睨んでいた。

「まったく、仕方がないな」

 呆れたような溜息をつき、月ヶ瀬さんは便箋に書かれた英文を読み上げる。英語の教材音声のような綺麗な発音だった。

「おお、スゴイね。月ヶ瀬ちゃん」

「これで大人しくしたまえよ」

「はあい」

 朔良さんはサイパンに住んでいたので、たぶん意味は理解出来たんだろうと思う。

「それで、どういう意味?」

 僕はこっそり月ヶ瀬さんに訊ねた。

「この童話の冒頭部分の英訳だ。The Story of Unicorn and Tiger と銘打たれていないのが逆に不思議なくらいじゃないか。君はもう少し英語の授業に身を入れた方が良い。大学受験の際に苦労する事になるぞ」

「すいません」

 反射的に謝ってから、恥ずかしくなった。同級生の女の子にこんなことを言われるなんて情けない。参った。今後はもう少し英語の勉強に身を入れよう。

「だが、しかし、これは……」

「何? 月ヶ瀬さん?」

「最後の二行は童話と内容が異なっている」

「……すいません、訳してください」

 月ヶ瀬さんは呆れたように半眼で僕を見据えた。まったく、と吐き捨ててから、よく通るメゾソプラノで続ける。

「もしも意に添わぬ事を強いられたら、虎はプライドの為に死ぬでしょう。もっとも、それが起こる前に、私は彼の首を斬り落とすでしょうが……」

 ハッと息を飲む。

「随分と物騒な言葉だね」

「だが、解釈によっては情熱的な愛の告白とも取れるぞ。あなたが意に添わぬ事を強制されたなら、私が殺して救ってあげる――と、そういう意味にも読めるわけだからな」

「まるでラブレターだ」

 また朔良さんが首を突っ込んできた。

「誰が書いたんだろう?」

 僕の問いに、月ヶ瀬さんは、野暮だな、と片目を瞑る。

「これは愛の物語への返信だ。君の母上に決まっているじゃないか」

「でも義姉さんは英語は苦手だったと思うけど……」

 朔良さんに水を差されて、月ヶ瀬さんは分かり易くムッとした。

「もしかして、朔良さんはアリスさんを好きだったのではないか?」

 意地悪な口調で言われて、今度は朔良さんが分かり易く動揺した。

「し、仕方ないだろ」

 所有者の動揺を受けて、ピンクの軽自動車は少し揺れ、それから注意深くスピードを落とした。追い越し車線を他の車輌が次々に通り越し視界の先に流れて行く。

「兄さんと義姉さんが結婚した時、俺はまだ十五歳だったし、女っ気の無い侘しい家に、ある日突然、優しくて綺麗な年上の女性が同居してくれちゃったりしたら、そりゃ、好きになっちゃうよ。義姉さんは可愛い人だったし……」

 朔良さんはハンドルを注意深く握りながら、ほんの一瞬、バックミラー越しにチラリと僕たちの顔に視線を投げた。

「あのねえ、青臭い少年少女の君たちは兄さんをずいぶん美化しているみたいだけど、小日向祐樹は子供が理解できるような簡単な男じゃなかったし、子供が理解してはいけない部分も持っていた。十八歳になるまで、ずっと兄さんと一緒にいた実の弟のオレが言うんだから間違いないよ」

 しばらく沈黙が続く。辺りはだいぶ薄暗くなっていた。夜が近いのだ。重さに耐え兼ねたように朔良さんは普段なら決して言わなかったであろうことを口走る。

「兄さんがいなくなって、もう七年経つ。忘れてしまってもいいんじゃないか? そもそも、兄さんが死んだとすれば自業自得だ。義姉さんを働かせて、自分は仕事もせずに歌なんか作って暮らしてた。アル中で、ヒモで、気分障害で、睡眠薬にも依存していたし、もっとマズイものにも手を出してたかもしれない。義姉さんはひたすら我慢していた。兄さんの為に働いて、罵られても笑って耐えて、健気に尽くしていたんだ」

 運転の為に前方を向いていたから確かめられなかったけれど、もしかしたら、朔良さんは泣きそうになっているのかもしれない。声がわずかに震えていた。

「兄さんがどうなったにせよ、誰も悪くない。それなのに……可哀想に、義姉さんは兄さんがいなくなった事を気に病んで……」

 そこで言葉を切り、朔良さんは軽く洟をすすった。バックミラー越しに顔を盗み見るとやっぱり少し涙ぐんでいた。

「蒼依くん、あんまり父親に夢を見るんじゃないぞ」

「傷付くから?」

「そうだよ」

 傷付いたのは朔良さんだと、なんとなく分かった。


   †††


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