【挿話/一角獣と虎の物語】
_00
エメラルド色の森の奥に、一匹の虎がいました。
虎は傲慢で力も強く、生きる為に沢山の生き物を殺してきました。
森には優しい鹿もいました。愉快な猿もいました。呑気な猪も、賢い狐も、可愛らしい兎も、忙しない鼠もいました。空のように鮮やかな色の羽根をもつ美しい鳥も。
虎は、かつて友達になろうと近付いて来たそれらの生き物をみんな殺して喰ってしまいました。虎はそう生まれついていたので、他にどうしようもなかったのです。
殺して喰うのが虎のさだめです。
しかし、ある時、虎は病を得ました。
あるいは、それは呪いであったのかもしれません。あらゆるすべてが冷たく味気なくなり、飲み下すことができなくなってしまったのです。虎は、もう何も喰えなくなっていました。それでも虎の爪と牙は、それまでの楽しみを忘れてはくれず、しきりに獲物を狩ろうと囁くのでした。
爪と牙の囁きはうるさかったのですが、虎は、喰えないものを殺すのは良くないような気がしました。今まで一度も考えなかったことですが、生き物が傷付くのは嫌だな、と生まれて初めて思ったのです。
さて、生き物を殺すことをやめようと決めた虎は、幸せそうな生き物たちのいる、光の降りそそぐ、森に開けた明るい草地から、ずっと離れて過ごしていました。
静かに身を横たえて、虎は少しだけ満足していました。時折、生き物たちの楽しそうな声が聞こえます。それはまるで甘い歌のようでした。虎はみんなの声に耳を傾け、目を閉じ、しばしばいい気持ちになって溜息をつきました。
しかし、爪と牙は常に虎自身と共にあったので、獲物を狩ろうという囁きは、虎が思ってもみない時に耳の奥に甦り、雷のように轟いて決して消えてはくれないのでした。
†††
ある時、奇妙な蜥蜴が虎のいる暗い繁みを訪れました。
「虎さん、虎さん、あっちに綺麗な生き物がいますよ。見たいと思いませんか」
虎は少し顔を上げ、ぎろりと蜥蜴を睨みつけました。
蜥蜴は一瞬ひるんだものの、なおも身を乗り出して言い募りました。
「あんな綺麗な生き物はいませんよ。僕はあの生き物がいちばん好きだなぁ」
そこまで言われると、生き物を傷付けないようみんなから離れて臥せっていた虎も、一目その綺麗な生き物とやらを見てみたくなりました。綺麗なものは誰でも好きなのです。
虎は身を起こして、少し迷った後、蜥蜴に向かって言いました。
「では見に行こう。連れて行け」
蜥蜴はチロチロと舌を出し嬉しそうに宙返りをしました。本当のところ、蜥蜴は独りぼっちの虎が可哀想に見えて、虎を楽しませてやろうと思っていたのでした。
ただそれだけだったのに、蜥蜴はしてはならないことをしてしまいました。
殺して喰うのが虎のさだめです。
†††
薔薇の繁みを抜けたところに、虎の知らない泉がありました。
サファイア色に透き通り、泉は水底から光を放っているように見えます。
泉のまわりは清い砂に覆われていました。目を凝らして見ると、それはすべて細かく砕けた水晶でした。その静謐な白い場所を取り囲むように、柔らかな緑の草地が広がっています。小さな花もそこかしこに咲いていました。黄色や薄紅や青色がさわさわと穏やかな風に揺れています。小鳥たちも澄んだ声で楽しそうに歌っていました。
そんな目に楽しい景色の中に、その綺麗な生き物は静かに佇んでいました。
虎は一目で心を奪われました。
なんという穢れの無い美しさでしょう。
高い山の頂に人知れず降った雪のように、白い、白い、白い、どこまでも白い獣が、そこにはいたのです。
獣は額に角を持っていました。銀色に輝く剣のような一本角です。
虎はひどく息が苦しくなって、ああ、と呻きました。
「あれは何だ。見たこともない生き物だ」
傍らの蜥蜴に尋ねると、彼は小躍りし得意げに答えます。
「あれは一角獣です。この世で最も清らかな生き物です。一角獣は誰に対しても愛をもって応えます。みんなのことが大好きなのです。みんなも一角獣が大好きです」
虎は眩暈を覚えました。
あれほど美しい生き物がいるということは、ただそれだけで罪ではないか、と、なぜか不意に思ったのです。
不思議な感覚でした。胸の奥で火が燃えているようでした。
虎がそんなふうでしたから爪と牙は勢いづいて、いつもの暗い囁きを虎の耳の奥へ吹き込み始めました。どろどろと、どろどろと、遠くで雷が鳴るように、爪と牙の囁きは虎のまわりに渦を巻きました。
獲物を狩ろう、獲物を狩ろう、獲物を狩ろう、と――
蜥蜴は虎の異様な様子に恐れをなして、ぴゅんと樹の幹から飛び跳ねて、森の繁みの奥深くへ身を隠してしまいました。
虎は、しばらくの間、じっと一角獣を見詰めていました。爪と牙の誘惑は極みに達し、今すぐにでも清らかな白い獣に襲い掛かりたくなって身震いしました。
しかし、獲物を狩ったところで、虎はもう何も喰えないのです。どのみち喰えはしないのに、敢えてあの美しさを損ねるのは、やはり良くないことのような気がしました。
虎はやっとの思いで息を飲み込み、目を閉じて深い溜息をつくと、足音を立てないようにそっとその場を離れました。
爪と牙の囁きはうるさく、一昼夜、ほかの一切の音が消え去るほどでしたが、虎はその激しい誘惑を一生懸命無視しました。
†††
虎は一角獣を見て以来、ずっと苛々していました。あの白い獣のことを思い出すと胸の奥が焼けるように熱くなって、不快で、苦々しく、腹立たしい気分でした。
虎は目を閉じ、身を臥せました。
なるべく早く眠ってしまいたかったのに、なかなか眠りは訪れませんでした。
ぐるる、と喉の奥で苛立ちを転がし、身を跳ね起こすと、自分のねぐらにしている暗い繁みの樹々に八つ当たりを始めました。
月の無い静かな夜の森に、虎の咆哮が木霊し、樹々の幹を引き裂き、根ごと打ち倒し、太い枝を爪で裂き牙で噛み砕く音が、長い間響いていました。狂ったように暴れて、溢れんばかりだった苛立ちを幾らか吐き出した後、虎は、やっとあたりを見回しました。
ねぐらの繁みは嵐の後のように滅茶苦茶になっていました。
一暴れしても、胸の奥を焦がす嫌な火はずっと虎の中に居座っていましたので、虎はどうしようもなく苦しい気分になりました。
それは怒りに似ていました。それでいて、怒りではありませんでした。
憤懣に荒い息をついていると、虎のいる繁みの向こうから微かな声が聞こえました。
虎はわずかに冷静さを取り戻し、ともかく耳を澄まして誰の声かよく聞いて確かめてやろうと思いました。
「こっちです。ここに鋭い爪と牙を持つ生き物がいます」
耳が捕えたのは、どうやら、あの蜥蜴の声のようでした。
どういうつもりか、よりにもよって虎のもとへほかの誰かを導いている様子です。
さくさくと草を踏む軽やかな足音が聞こえます。さわさわと梢の木の葉が鳴る音が聞こえます。早く早くと急かす蜥蜴の弾んだ声が聞こえます。
虎は誰にも近付かれたくなかったので、そんな自分に近付いてくる者がいるということに軽い驚きと不安を覚え、それから嫌な予感に身を固くしました。また爪と牙の囁きが始まるような気がしたのです。それはいつも虎の心を酷く苛むので、できれば誰も自分に近付かず、そっとしておいて欲しいと思っていました。
二度も自分に近付いて来た不用意な蜥蜴を、今日こそは引き裂いてやろうかと思った時、近くの繁みがざわざわと揺れ、月の光のような美しい輝きが虎の目を射抜きました。
虎は目が眩んで、光から逃げるように繁みの奥に身を寄せました。
チカチカする目を何度か瞬いて、やっと元通り見えるようになった時、虎は光の正体を認めて、あっ、と息を飲みました。
現れたのは、なんと、あの白い一角獣でした。
無邪気に小首を傾げて、澄んだアメジストのような瞳で虎を見ています。
「どうです。強そうな生き物でしょう」
蜥蜴は虎を指差して自慢するように一角獣に胸を張りました。
一角獣は不思議なほど素直な期待を込めてじっと虎を見詰めて来ます。おそらく、虎が親切に挨拶をするとでも思っていたのでしょう。
蜥蜴は愚かで浅はかでした。よほど独りぼっちの虎を憐れんだのか、二度も、してはならないことをしたのです。
†††
白く清らかな獣は、虎が黙っているのと、虎のねぐらがあまりにも滅茶苦茶なのに興味を惹かれたようで、楽しそうに豊かなたてがみを揺らしました。
「何をしているのですか?」
小さな鈴を無数に転がしたような可憐な声でした。
一方、その穢れの無い声を聞いた虎はぞっとして蒼褪めました。
なんという無防備な生き物か。
近付いてはならないものに、あまりにも無邪気に、その清らかな獣は近付いて来てしまったのです。蜥蜴の罪は誰よりも重いでしょう。それなのに、蜥蜴はさっさと虎の異様な様子を察して、今度もどこかの繁みの陰に身を隠してしまいました。
「蜥蜴よ、この穢れの無い生き物を連れて帰れ」
そう言い付けても、逃げてしまった蜥蜴はもう出て来ませんでした。
殺して喰うのが虎のさだめです。
虎は一角獣に、すぐに立ち去るのが身の為だと伝えようとしました。
「来てはならぬ。ここを見てはならぬ」
「でも気になるんです。私は好奇心が強いんです」
一角獣は無造作に虎に向かって歩を踏み出しました。
「そうか。だが黙って立ち去れ。近付いてはならぬ」
虎は一角獣が近付いたのと同じだけ下がります。
一角獣は困ったようにあたりを見回し、悲しげに睫毛を震わせました。
「樹を傷め付けないでください。命あるものはみんな仲良く過ごすべきです」
虎は打ちのめされたように感じました。みんなと仲良く過ごすなど、虎に出来ることではありませんでした。
殺して喰うのが虎のさだめです。
「俺に構うな。おまえの言うみんなに俺は含まれない」
そうです。虎はみんなとは違うのです。それなのに、一角獣は何も知りませんでした。ただの善意から、虎をみんなといっしょくたにしようとしたのです。
「でも、あなたも私たちと同じ生き物でしょう」
あまつさえ、一角獣は虎に救いを与えようとしました。
独りぼっちでいてはいけない、と言外に虎をみんなの輪に誘ったのです。
みんなと一緒にいることが、みんなと仲良くすることが、一角獣にとっては息をするように自然なことだったからです。
虎は身悶えし、恐ろしい声で吼えて一角獣を追い払おうとしました。
「うるさい。黙れ。だから群れるものは嫌いなのだ」
一角獣は頑なでした。美しいということは、時に頑ななのです。
「そんな言葉は間違っています」
そう言って、みんなと仲良くすることの素晴らしさを虎に語ろうとしました。
虎はもう我慢できなくなっていました。
爪と牙はほんの少し前から虎の耳に常の誘惑を囁き始め、今や堂々と獲物を狩ろうと歌い出していました。
「ええい、本当にうるさいぞ。すべてを壊し尽くしてやろうか」
そう言って、虎は手近な木の枝を乱暴に噛み砕いて見せました。
虎は一角獣に逃げ去って欲しかったのです。
ところが一角獣は、虎の暴虐な行いに、悪いことを悪いと言える清らかな獣だけが浮かべることの出来る、ほんの少しだけ無神経な表情で眉を顰めました。
「ああ、罪の無い樹々をそんなに荒らしてしまうなんて、あなたは野蛮です」
一角獣はついに一言だけ虎を咎めました。
たった一言でした。
罪の無い樹々を傷付け損なうような野蛮な行いはやめて欲しかったのです。
しかし、虎にとって、それは明らかな罵りでした。
殺して喰うのが虎のさだめです。
殺して喰うのが虎のさだめなのです。
「野蛮だと?」
虎は激昂しました。
「何の事情も知らぬくせに、ようも言うたな、一角獣よ」
爪と牙の囁きは、すでに叫びにまでなっていました。その叫びに身を任せ、虎は一角獣に躍り掛かり、その清らかな肌に爪を立て、横倒しにして踏み敷くと、柔らかな首筋に牙を突き立てようとしました。
一角獣は必死に抗い、ただ一つ授けられていた身を守る武器、銀色の剣のような角で、虎の片目を傷付け、痛みに虎がひるんだ隙にやっとの思いで自分を捕えていた虎の腕から抜け出しました。
哀れな一角獣は虎の爪に痛めつけられた場所に酷い大怪我を負っていました。
虎もまた、一角獣の角に傷付けられ、片目を潰されていました。
虎が怒りで低く唸り、切ないほどに美しい白い獣に、もう一撃襲い掛かろうとした時、一角獣は血塗れで悲鳴を上げました。
「あなたは大嫌いです。あなたは大嫌いです。あなたは大嫌いです」
その透き通った悲鳴といったら、穢されてなお、キラキラと輝く雪のかけらのようで、虎はあまりの愛しさに気が狂いそうになりました。
†††
一角獣は逃げました。
やっと、虎の起こす暴風が吹き荒れる暗い繁みから立ち去ってくれたのです。
虎は、ほっと胸を撫で下ろし、それから大声を上げて泣きました。
一角獣を愛していたのです。
虎はひとしきり泣いた後、今度は笑いました。静かな満ち足りた微笑みでした。
もしもこの、すべてが冷たく味気なくなる呪いのような病が癒えて、いつか何かを喰えるようになったら、その時に狩って喰う獲物は、あの白い獣がいいな、と虎は思いました。
それと同時に、自分を嫌った一角獣が二度とここへ足を向けなければ良いな、とも思っていました。だって、そうしてくれれば、あの綺麗な生き物は、虎に傷付けられる事もなく、みんなと仲良く幸せに生きていけるでしょうから。
1997.December Y.Kohinata
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます