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「人の不幸を穿り返すな」

 祖母の第一声はそれだった。清里に行きたい、父母のことを知っている人たちに話を聞きたい、特に水森蛍さんに会いたい――そう伝えたら、取りつく島もなくバッサリと斬って捨てられた。

 もちろん、自分の問題の根――『父の肉を食べさせられたのではないか』という疑念が神経症の原因になっているという事を告げるわけにもいかず、『両親に縁のあった人たちから話を聞いて二人がいなくなった理由を自分なりに調べて納得したい』と、当たり障りのない理由を伝えたのだが……

 祖母は粗相をした子供を叱る時のように首を横に振った。

「今さら済んだ事を蒸し返してどうするんです。みんな、あの事件のことは忘れたいと思っているんですよ。なにしろ、アリスさんはあんな死に方をしたんですからね……」

 確かに、猟銃自殺というのはショックが大きい。みんなが忘れたがっているというのは理解できる。けど、僕は、自分が両親の事を忘れたいのかどうかよく分からない。PTSDだと月ヶ瀬さんには言われたけど、事件当時、僕はまだ九歳で、記憶も曖昧だし、そもそも遺体を見ていないので実感が薄い。本当にそんな悲惨な死に方だったのだろうか、とさえ思っている。記憶に靄がかかっているような状態だ。

 母の死――それを思う時、目を閉じて浮かぶ光景は清らかだ。傷ひとつない綺麗な顔の母が、白い棺に眠るように横たわり、その周りを母が好きだった淡い色の薔薇が埋め尽くしている。もちろん、現実の光景ではない。

 実際には棺の蓋は固く閉じられ、誰もその中を見る事は出来なかった。

 僕は遺体を見てはいないけれど母は確実に死んだ。遺骨もあるし、墓もある。

「でも、父さんは? 自分の息子が生きてるか死んでるか分からないのに、お婆ちゃんは平気なの?」

 祖母は苦い物を噛んでしまったように顔を顰めた。

「祐樹のことは諦めなさい。今年で七年経つ。家裁から失踪宣言を出して貰ったら、祐樹の戸籍は整理するつもりですよ」

「どういうこと?」

「法的に死亡が確定する」

 潜めた声で月ヶ瀬さんが僕に耳打ちした。

 ぴくっ、と祖母のこめかみが痙攣する。

「ところで、彼女は帰らなくていいの? もうじき八時になりますよ。そもそも他人の前でするような話ではないでしょう。お暇(いとま)して貰いなさい」

「月ヶ瀬さんには聞いて貰う」

 わけが分からない、と祖母は片手で額を覆った。

 あの後――つまり、ショッピングモールのベンチで長い話をした後、僕と月ヶ瀬さんはバスに乗って駅まで戻り、それから傘をさして祖母のマンションに一緒に帰った。

 最初、祖母は目を丸くした。よりにもよって、僕が、女の子を連れて帰ったからだ。しかも、ものすごい美少女を。いつもの無愛想な顔で、おや、まあ、と言ったきり黙り込んでしまったが、僕が友達を連れて帰った事を喜んでいるように見えた。

 夕食を一緒に、という事になり三人で祖母手製の温卵サラダうどんを食べた。梅酒造りの手伝いをさぼった事をチクリと言われたが、その時点では祖母の機嫌は悪くなかったし、月ヶ瀬さんの好感度も低くなかったはずだ。

「ごめんなさいね。孫が偏食で、こんなものしか出せなくて」

 気を遣って言う祖母に、月ヶ瀬さんは上機嫌でにっこりとお世辞を返した。

「いいや、すごく美味しいぞ。温泉卵とトマトのハーモニーが最高だ」

 良かった、二人は気が合いそうだ、などと僕は思ってしまったくらいだ。

 食事の後、祖母がかりんとうと珈琲を出してくれた時に、僕が「清里へ行って父母の知り合いに話を聞きたい」と切り出してから風向きが変わった。

 祖母は、月ヶ瀬さんが僕をけしかけたと思っているみたいだ。今まであまり我儘を言ったこともなかった孫が、突然、とんでもなく図々しい事を言い出したのは、きっとこの娘のせいだ、と思っているであろう事がありありと分かる表情を浮かべている。

 僕は祖母から清里行きの承諾を取り付ける為、畳み掛ける。

「お婆ちゃん、聞かせてよ。父さんのことはどうでもいいの? 探さないの?」

 卑怯な論法かも知れない。僕が本当に調べたいと思っているのは父の消息ではないからだ。本音を言えば僕だって、父は死んだと思っている。あの人は綺麗だけれど生命力の薄い儚い人だった。この世のどこかで逞しく生きているというイメージが湧かないのだ。どのみち、父は穏やかに長生きするタイプではなかった。

「どうせ、祐樹は生きていない」

 お婆ちゃんは硬い声で言い、テーブルの上でぎゅっと両手を握りしめた。そうやって遠い痛みに耐えているようにも見えた。

「お願い、清里へ行かせて。二人がいなくなる前、どんな感じだったのかだけでも知りたいんだよ。どうして父さんは失踪したのか、どうして母さんは自殺したのか、何も分からないと、僕は気が変になりそうだ」

 実際、変になりかけてる。肉を近付けられて失神するなんて異常だ。

 祖母は頑として首を縦に振らない。

「お世話になった人に迷惑をかけることになる」

 誰のせいでお世話になる羽目になったと思ってるんだよ、ともう少しで喉から出かかったが、必死で飲み込んだ。

「ごめん、お婆ちゃん。でも、僕はどうしても父さんと母さんの話を聞きたいんだ。知らなくちゃいけないんだよ。七年前、本当は何があったのか」

 どうしても僕は清里に行きたい。蛍さん会って確かめるんだ。あの人が本当はどんな人か。蛍さんが善い人だって確かめたい。

 僕は父さんの肉を食べていないと確信したい――

 それに、やっぱり話を聞きたい。

 父さんと母さんがどんな人だったのか僕はあまり覚えていないから。

 父さんがどんな人だったのか知りたい。

 母さんがどんな人だったのか知りたい。

 二人がどうしていなくなってしまったのか知りたい。

「祐樹は死んだ。それは確実なんだよ。お婆ちゃんはアリスさんが死ぬ直前にラオスで電話を受けたんだから。夜明け前に事務所にかかって来て、慌てて電話口に出た。よく覚えているよ。あの日は新しい井戸が完成した翌日だったから。前の晩は遅くまでみんなで浮かれていた。だから余計にアリスさんの声は痛々しく感じた。何があったの、と訊いても何も言わない。ただ、ごめんなさい、と泣くばかりで。問い詰めたら、祐樹さんは死にました、だから私も死ぬ、と……」

 祖母は眼鏡を外して目頭を押さえた。頭痛に苛まれているかのように。

「お婆ちゃんは、母さんが父さんを殺したと思ってるの?」

 僕は湧き起こった疑問を口にした。今までなら、これを言う勇気は無かっただろうと思う。月ヶ瀬さんが向き合う勇気をくれた。

 祖母は疾しい事実でも突き付けられたように、びくりと体を竦ませた。

「そんなバカな事、思っているわけがないでしょう」

 やっぱり……思ってるんだ……

 でも母は「パパは殺された」と言った。自分が殺しておいて「殺された」と言うのはおかしい。「殺した」と言うはずだ。だから、もしも父が殺されているなら、犯人は母ではない。別の誰かであるはず――いや、別の誰かであるべきだ。

 僕は信念を込めて祖母を見詰め、祖母は逃げるように目を逸らし口を開いた。

「お婆ちゃんはあの時、アリスさんの口からハッキリと『祐樹は死んだ』と聞かされたんだ。それじゃ納得出来ないのかい?」

「ごめん。でも、他に、自分で確かめたい事があるんだ」

 これは曲げられない。祖母は一瞬、僕の気に呑まれたように息を止めた。

「祐樹はどこかで事故で死んでしまった。アリスさんは自殺した。ただそれだけのことですよ。他に何もありゃしない」

 まだそんな事を言う。いつも通りの人の情を顧みない頑固で冷淡な祖母にうんざりしてきた。許可して貰えないなら勝手に行くしかない。貯金もあるし、別に、そのまま家出したって構わない。祖母には黙って家を出よう――そう決心しかけた時、祖母は眼鏡をかけ直し、僕の目を真っ直ぐに見据えた。

「本当に二人がいなくなる前の話を聞くだけですね? 何かとんでもない思い違いでもしていて、失礼な事をやらかしたりはしないでしょうね?」

 祖母の声から力が抜けていた。

「え……?」

「清里に行って、祐樹とアリスさんの知り合いに二人の生前の話を聞いて、それでおまえは気が済むと言うんだね?」

「うん、たぶん」

「分かった。行ってきなさい……」

 驚いた――

 あの死んでも意思を曲げないような頑固な祖母が、人の話に是と言った。

「いいの?」

「清里の知り合いにはお婆ちゃんが電話して頼んでおきます。そうは言っても、祐樹は気難しい子でしたからね。あの子の友達だった人なんて、たった二人しかいません。それにアリスさんは地元の人じゃなかったから、どんな友達がいたのかお婆ちゃんには分かりませんよ。ろくに話なんか聞けないと思いますけどね」

「お婆ちゃん」

「ただし学校を休むことは許しません。金曜日の夕方に出発して、日曜日の夜までには帰って来ること」

「ありがとう……」

 まさか、祖母が僕の気持ちを認めてくれるとは思わなかった。

「良かったな、蒼依くん。これで心置きなく出発できる」

 月ヶ瀬さんは弾んだ声で言い、祖母は再び、ぴくり、とこめかみを痙攣させた。

「お嬢さん、まさか、あなたも蒼依と一緒に行くつもり?」

「私が同行しなければ蒼依くんが困るではないか」

「ご両親の許可は?」

「もちろん許可して貰えるに決まっている。私は親からの信頼が厚いのだ」

「な……っ」

 祖母は分かり易く仰天し、それから、昼寝中に何者かに叩き起こされた老犬が、迷惑な闖入者を横目で確認する際のような恐ろしく軽蔑に満ちた目付きをした。そんなバカな、嘘をついているんでしょう、なんてふしだらな女の子かしら――と思っているであろうことがありありと分かる辛辣な表情だった。

 しかし、月ヶ瀬柊はその程度のことで怯む少女ではなかったし、また、他人にどう思われているかを気に掛けるような人間でもなかった。

 すちゃっ、と月ヶ瀬さんは祖母の目の前にスマートフォンを突き出した。

「たった今、電話をかけて確かめて頂いても構わないぞ。うちの母は私が良かれと判断して行動する事は全面的に支持してくれるのだ」

「嘘ならすぐにバレますからね」

 呆れ顔で祖母は月ヶ瀬さんのスマートフォンを受け取った。数回のコールで月ヶ瀬さんのお母さんは応答してくれたようで、通り一遍の挨拶の後、男の子ですよ、とか、女の子なのに、と尖った声で言った後、祖母は長々と常識やら良識を説き始めたが次第に口数が減っていき、最終的にはげっそりと疲れ切った様子で通話終了ボタンを押した。

「あなたのお母様は、あなたが決めたことを全面的に支持するそうです」

 祖母は敗北宣言のように、心底悔しそうにそう言った。

 ふふん、と誇らしげに月ヶ瀬さんは薄い胸を反らす。

「だから言ったではないか」

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