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 月ヶ瀬さんは僕の考えが読める超能力者なんじゃなかろうか。

「それにしても、人間を殺して美味しい料理にするなんて、ヨーロッパの古い民話に出て来る魔女みたいだな」

「魔女……そうだね、魔女みたいだ」

「まあ、東洋にも人を食う鬼婆の民話は多い。洋の東西を問わず意外と好まれる題材なのかも知れないな。あるいは、何らかの風習が物語の成立した土台にあるというケースも考えられる。イラクにも、エジプトにも、ギリシャやトルコにも、殺害され、バラバラにされて食われ、そして大地に蒔かれて麦として復活する美少年や美青年の神話がある。豊穣を祈願する生贄の儀式が行われていたと考えている学者も多い」

 滔々と流れ出る説明に、僕の意識は消失しかけた。

 さて、と月ヶ瀬さんは両手を打ち合わせる。パン、と軽やかな音が鳴った。

「常識的に言わせて貰えば、君が食べたのは鹿か猪の肉だ」

「うん、普通に考えたらそうだよね」

「だが、その証拠も無い」

「うん、無いね」

「だから、どうすれば人間の肉を美味しく食べられるかを突き詰めてみないか?」

「うぷっ……」

 吐き気が込み上げて、僕は口元を手で覆った。

「あっ、すまない、つい、うっかり……少し待っていてくれ」

 月ヶ瀬さんは、すぐ目と鼻の先に設置された自動販売機まで駆けて行き、ペットボトルの水を買って来てくれた。蓋を開けて差しだされる。

「ありがとう、お金、今……」

「いいよ。別の機会に何か奢ってくれ」

「でも……」

「バカだな、君は。これは、またデートしようというお誘いだよ?」

 じゃあ、と流して改めて話を再開する。

「僕は、料理をしただけじゃなく、蛍さんが父を殺したような気がしてるんだけど……」

 ほう、と言いながら月ヶ瀬さんは顔を上げた。意外だ、という言葉が両の目の奥で明滅している。

「水森蛍が? 君の母上ではなくて?」

「蛍さんのお父さんは地元の猟友会の会長で、蛍さんも狩猟免許を持っていたんだ。だから、蛍さんは鹿や猪の解体が出来るんだよ」

「鹿や猪が解体出来るなら、人間も出来ると?」

「うん……」

「その考えは自然だな」

 月ヶ瀬さんは形の良い指を繊細な顎に当てた。

「だが、状況から推察すると……あ、これから話すのは、もし殺人が実際に起きていたと仮定するならば、という仮の話だぞ。あくまでも仮の前提の上に立てた推論だ」

「分かってるよ。心配しないで」

 ふわり、と月ヶ瀬さんは笑う。良い子だ、と言われたような気分になった。

「では、遠慮なく話を進めさせて貰おう。状況から推察すると、君の父上の殺害が可能だったのは君の母上だけだ。深夜十二時頃、波の音がする場所から電話をかけて来た時、母上は『パパとはもう会えない』と言ったのだろう? もう会えない、と断定するに足る出来事が起きていたという事だ。これが殺人事件なら、深夜十二時の時点で、君の父上は亡くなっていたと考えるのが妥当だ」

「うん、確かに、その通りだ。でも、母は自殺する前に『パパは殺された』って言ったんだよ。それって『他の誰かに殺された』って意味だと思わない? 自分が殺したなら『パパを殺した』って言うんじゃないかな? それに、『肉にするしかないじゃない』って言葉は蛍さん以外には言えないと思うんだ。しかも、祖母が迎えに来た時には『週末のご馳走、あれ、あなたが思っていた通りのモノよ』と言われた。どうして蛍さんは、あんな事をわざわざ言ったんだろう。あの言葉が耳に残って消えないんだ……」

 ううむ、と月ヶ瀬さんは呻いた。忙しなく考えを巡らせているのだろう。顎に当てていた指をさわさわと動かし、桜貝のような爪を潤んだ唇に押し当てた。少しだけ艶めかしくてドキッとする。

「君とずっと一緒にいた水森蛍が、どうにかして遠方の海辺にいた父上を殺し、その後、母上は殺人犯の元から君を助け出しに来た。それなのに、なぜか母上は肝心の君を置き去りにして自殺してしまい、お婆様が仕事を片付けて迎えに来るまでの半年間、君は週末ごとに父上の肉を食わされていた――と言うのかね。それは理屈が通らない」

「理屈が通らないのは分かってるよ。でも、やっぱり蛍さんが父を殺したとしか思えないんだ。何かの勘違いで直感的にそう思い込んでしまって、そのまま感覚を訂正できなくなっているだけかも知れないけど、でも、どうしても、この疑いを拭い去れない。ものすごく苦しいんだ……」

 取り乱してしまったのに、ぎゅっと力付けるように手を握られた。

「理屈が通らないからと言って、必ずしも間違っているとは限らない」

 それって、どういう――

「ちょっと待っててくれ」

 月ヶ瀬さんは膝に乗せたPCを使い、凄まじいスピードで検索をし始めた。検索ワードを複数打ち込み、表示されたリンクを次から次へとクリックし、画面をスクロールし、必要と判断したらしいURLを手際よくブックマークしていく。

 早過ぎて僕は追い付けない。

「それ、読んでるの?」

「読んでいるとも。読まなくてどうする?」

 ビックリした。月ヶ瀬さんに速読の特技があったなんて。

 超高速の調べ物は少しの間黙々と遂行され、十分ほど経った時、納得した面持ちで月ヶ瀬さんは顔を上げた。

「おめでとう、矛盾だらけだ」

 月ヶ瀬さんは、良かったな、というように親指を立てた。

「やはり、君が食べた肉を父上の肉だったとするには無理がある」

 月ヶ瀬さんは、にぱっと笑い、タブレットの画面をこちらへ向ける。そこには解体される直前の猪が大写しになっていた。

 うっ、やめてください。また吐き気が……

 考察に夢中になっていた月ヶ瀬さんは、蒼褪める僕に気付かなかった。

「食用にする獣の血抜きは、トドメをさしてから――つまり心臓が拍動を停止してから最低でも一時間以内に行うらしいぞ。最善なのはトドメを刺すと同時に血抜きも行う処理方だ。一時間以内というのは死後硬直が始まるまでのおおよその猶予時間程度の基準で、肉の味を考慮すると、やはり、トドメと血抜きは同時に行うのが望ましい。一時間以上経過すると死後硬直が始まって血抜きが困難になるし、血や内臓の匂いが肉に残って致命的に味が悪くなり、その肉は価値が無くなる、と猟友会のホームページに書いてある」

「な、なるほど……」

「でも、君が食べた水森蛍の肉料理は美味しかったのだろう? 血抜きのされていない人間の死体が美味しいだろうか?」

 デリカシーのない言い草だったけど、たぶん、月ヶ瀬さんなりに慰めてくれていたのだと思う。

「美味しくはなさそうだね……」

「君の故郷から一番近い新潟の海へのルートでも三時間はかかる。地図で見る限り、君が聞いた波の音は糸魚川河口から直江津にかけてのどこかの海岸のものだと思うんだが、ご両親は旅先を決めずに出掛けたわけだから特定は難しい。新潟ではなく、他県の海岸かも知れない。だが、そんな事はこの際、問題ではない。どのみち、どうしたって海から君の生まれ故郷までは三時間以上かかる。これが重要だ」

「うん……」

「母上から最初の電話があった時、君は電話越しに波の音を聞いている。その時の母上が悪ふざけの出来る精神状態だったとも思えない。息子に電話を掛ける時にわざわざBGMに波音を流すなんて酔狂な真似はしないだろう。その日の深夜十二時頃、つまり、君の父上がすでに死亡していただろうと推定される時刻には、君の両親はほぼ確実にどこかの海辺にいたのだ」

 海辺――母が行きたいと言っていた場所。どこか遠くの世界に繋がっている果てしない景色、それを眺めれば自由になれる気がすると言っていた。広大な海と空。水平線。母はどんな気持ちで眺めたのだろうか。

「一時間以内に血抜きをして食肉処理をしなければ、肉は食べられモノではないし、そもそも水森蛍は、君のご両親の新婚旅行先に行くことは出来なかった。君が証人だ。水森蛍とずっと一緒に居たのだからな。彼女が犯人ということは有り得ない。あるいは、遺体損壊と遺棄については共犯というケースも有り得るが、それでも、水森蛍が君の父上の遺体に触れる事が可能になる時間まで、つまり、遺体がどこかの海辺から清里に運ばれるまでに、死亡推定時刻から三時間以上経ってしまう。血抜きが間に合わない。やはり、君の父上の肉は食える品質にはならない。だから食えない」

「食えない……」

 斬新だ。そんな考え方は今まで一度もしたことはなかった。血抜き処理が適切に行われていない肉は不味い、食えない――という観点から攻めれば、確かに、美味しかった蛍さんの肉料理は、潔白だ。

「君は考えたくないかも知れないが、母上が父上を殺した犯人だとして、母上が血抜きをしたという可能性は?」

「それは無いよ。母には無理だと思う。そんな事の出来る人じゃなかった」

「では、結論は同じだ。君は父上の肉は食べていない。あってはならない事だが、もしも、万が一、とても残念なことに君の父上が誰かに殺害されていたとしても、父上の肉は血抜きが間に合わず、不味くて食えたものではなかった。美味しい料理には成り得ない」

 月ヶ瀬さんは断言し、凛とした眼差しで僕を射抜いた。

「そっか……そうだよね。その通りだ」

 なぜだろう。拍子抜けしたというか、全身の力が抜けた。血抜きの間に合わなかった肉は不味くて食えない。だから、もし殺されていたとしても、父さんの肉は不味くて食えなかったハズ――そう考えれば僕は救われる。

 実の父親の肉を食ったのではないか、というおぞましい疑念から解放されるのだ。なのに、なぜかスッキリしなかった。理性では理解しているのに、感覚が納得してくれない。

 僕は父さんの肉を食べていないと確信したい。

「ありがとう。もう充分だよ」

 気持ちとは裏腹のお礼を言ったら、ぴしゃりと却下された。

「いや、まだだ」

「え……?」

「あの言葉が耳にこびり付いて消えてくれないんだ――と君は言った」

『肉にするしかないじゃない』

『週末のご馳走、あれ、あなたが思っていた通りのモノよ』

『パパは殺された』

「本当にあったことなのかどうか分からないよ……僕の記憶違いかも……」

「だが、その記憶のせいで君は随分な不自由を強いられている。問題は解消すべきだ」

 おためごかしで言った僕の言葉を月ヶ瀬さんは非難している。でも……

「問題かな?」

 よく分からない、と僕は首を傾げた。

「問題大有りじゃないか。肉が食べられないのは、まあ、ベジタリアンとして生きていけば良いことだから置いておくとしても、だ。そう頻繁に眩暈と吐き気の発作を起こしていては、健全な社会生活に差し障りがあるではないか? センター試験や大学受験の最中、あるいは就職活動の面接中などに、その発作が起きたら、君は人生に甚大な損害を被ると思うのだが?」

 いや、肉がなければ発作は起きないよ――と思ったが、言えなかった。

「分かったよ。月ヶ瀬さんの言う通りだ。逃げていても解決しない。でも、どうすればいい? 七年前のことなんて、今さら向き合って努力したからって、正確に思い出せるものじゃないよ」

「会いに行けばいいじゃないか。真相は、その魔女が知っている」

 魔女――月ヶ瀬さんは、蛍さんを魔女と呼んだ。

 確かに、水森蛍は魔女かも知れない。

 視界を覆う魔法の結界のような雪の中で、彼女は囁きで僕に呪いをかけた。

 八月に出会い、十二月に別れた、リドルで僕を縛った魔女。

 彼女に会わなければ――

 そうしなければ、僕はこの病的な肉嫌いを克服出来ない。


   ††† 


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