_02
猟銃を顎の下に当て、そのまま引き鉄を引いたらしい。
母の葬儀は寂しいものだった。自殺だったので近隣にはおおっぴらに出来ず、近しい者だけで送る密葬にしたのだが、祖母も朔良さんも海外にいてすぐには帰って来られなかったし、母の身内はとっくに亡くなっていたからだ。諸々の手配は、すべて蛍さんがしてくれた。
結局、父がどうなったのか分からない。十年遅れの新婚旅行に出掛ける直前、嬉しそうに手を振って車に乗り込んだのを最後に、きっぱりと姿を消してしまった。
行方不明になってしまったのだ。
祖母は、孫の僕よりも、ラオスの貧しい人々を選んだ。どんな話し合いがなされたのか分からないが、祖母が帰国するまで、僕は蛍さんの家で寝起きをする事になった。
それからクリスマスまでの半年間は、ふわふわとしていて、まるで夢の中での出来事のようだ。僕は学校へは行かず、ずっと蛍さんの家にいた。父が帰って来た時、一番に「おかえり」と言いたかったから。父は、祖母が所有していた古くて暗い家ではなく、蛍さんの優しい家に帰って来るような気がしていたのだ。最後に父の姿を見た場所に――
毎日ひたすら裏山に続く深い森を眺めて過ごした。
そう言えば、こんなこともあった。裏庭に時々顔を出す鹿がいたのだが、僕が窓から眺めていると、蛍さんが近付いて来て、あんまり見ちゃダメよ、と言ったのだ。
「あんまり見ちゃダメ。民家の庭に降りて来るような鹿は、冬になったら真っ先に駆除されて、食べられてしまうのよ。好きになったら悲しくなるわ」
駆除というのは、十月一日から三月三十一日までの狩猟期間に、増えすぎた鹿を間引きする為に行政の依頼で行われるハンティングの事だと後で知った。
それからもうひとつ、不可解で奇妙な事もあった。
蛍さんは週末にだけ手間をかけた肉料理を作ったのだが、それが何の肉なのか、何度訊いても教えてくれなかった。いつも優しく微笑んで誤魔化すのだ。
「知らない方がいいわ。聞けば悲しくなるから」
そして、祖母が迎えに来た時――
その日は、吹雪といってもいい程の激しい雪が降っていた。
視界を塞ぐ結界のような雪のカーテンの中で、蛍さんは優しく微笑み、僕にだけ聞こえる声でそっと囁いた。呪いの呪文を。リドルを。
「ごめんね。週末のご馳走、あれ、あなたが思っていた通りのモノよ」
あ、と恐ろしい謎が僕の中で弾けた。
パパはどこへ行ったの――?
本当は、僕はいつも心のどこかで思っていた。
もしかしたら悪い魔女が、パパを殺して、お肉にしちゃったんじゃないかって……
†††
「なるほど。そんなことがあった、と……」
いつの間にバッグから取り出していたのか、タブレットタイプの小型PCを綺麗な膝に乗せ、月ヶ瀬さんは神妙な面持ちで頷いた。
「うん。長々と聞かせてごめん。疲れただろ?」
「いや、まったく。興味深い話だったよ」
そう言って、月ヶ瀬さんはバッグから今度は紅茶のショート缶をひとつ取り出した。カシュ、とプルタブを開けて、たぶん半分ほど飲み、どうぞ、と残りを僕に差し出す。
「え……?」
「なんだ、思春期の少年のように間接キスでも意識しているのかね?」
「そ、そんなわけ……あるけど……頂きます」
僕は色々な感情を捻じ伏せてありがたく受け取った。とても喉が渇いていたのだ。
なにしろ、話し終えるまで小一時間はかかってしまっていた。その間、月ヶ瀬さんは退屈そうな顔や迷惑そうな素振りは一度もせず、辛抱強く、時に頷き、時に励ましながら僕の纏まりの悪い話を聞いてくれた。当時の事を思い出しながら喋ったので、話は行きつ戻りつし、出来事の時系列もバラバラで、中にはまったく無関係な話まで混じってしまっていたにも拘わらずだ。
しかも、話を聞きながら、僕の話をPCでメモに纏めてくれさえした。
「要点をまとめると、君は、父上が殺され、自分はその肉を食べてしまったのではないかと疑っているという事だね。それが君の肉恐怖症の原因だ」
普通は言えない言葉を、月ヶ瀬さんは躊躇なくズバッと口にした。
「うん、そういう事になる」
「しかし、ものすごくハードな境遇だな。君はよく耐えていて偉いよ」
え、と思わず驚いてしまった。そんな風に言われたのは始めてだ。もちろん、この話をしたこと自体が初めてなのだけれど、仮に話したとしても、なんとなく、誰も信じてくれないんじゃないかと思っていた。父親は失踪し、母親は猟銃自殺をしたなんて、非現実的過ぎて、イタイ子が嘘をついている、と決めつけられるような気がする。
きっと誰も分かってくれないだろうから話さない、話したくないから誰とも関わりたくない――それが、僕の世界への処し方だった。
「それにしても、君は母上が猟銃自殺したという相当にショッキングな出来事を、実に淡々と話すね。もちろん君にとって、とても辛い出来事だったとは思うが……」
普通は泣きながら話すのだろうな、と思うけれど、僕はそうする事が出来ない。
母は、僕たち一家が住んでいた古い家の庭で自殺した。蛍さんにずっと手を掴まれていたし、自殺現場はすぐにやって来た警察がブルーシートで隠してしまって、母の遺体は見ていない。誰に言われたのか覚えてすらいないが、お母さんは死んだ、と言われた瞬間から、心の底がストンと抜けようになってしまっていて、恐いと思う事も、悲しいと思うことも、寂しいと思うことも出来なかった。
だから僕は、まだ母を悼んで泣いた事が無いのだ。
「僕は冷たい人間なのかな?」
「バカ。自分を冷たい人間だなんて簡単に決めつけるな」
「え……?」
またも月ヶ瀬さんは意外な事を言った。
「むしろ、逆だ。君はとても優しい慈悲深くて共感性の高い人間なんだよ。だって、君のその状態はPTSDの症状そのままじゃないか。あまりにも悲しみが大き過ぎて、心の容量をオーバーしてしまってそうなっているんだよ。強い無力感のせいで虚脱状態に陥っている。外部からの刺激を極力避けている状態だ」
「何言って……?」
「泣かないんじゃなくて、泣けないんだよ」
ぺちん、と頬を叩かれた。
「月ヶ瀬さん、ごめん。君が何を言ってるのか分からない」
「まあ、いいさ。私が君という人物の謎を解く間に、君も少しは私を理解するだろう」
ぽかんとしてしまう。変わった子だ。
「しかし、不思議だな。君の父上はどこへ行ってしまったのだろう?」
月ヶ瀬さんは、なにげなく失踪した父に言及した。
本当に不思議だ。あれから七年経つのに一切の消息が無い。警察に捜索願は出してあるのだが、どこかで見掛けたという情報は皆無だし、キャッシュカードなどが使用された形跡も無い。祖母は父は死んだと思っているようだ。時々、「死んだ人間のことは諦めなさい」と言う。まるで自分に言い聞かせているみたいに。
今では僕も父は死んだと諦めている。最初の頃はいつか父が帰って来ると期待して待っていたけれど、七年も消息が無ければ、さすがにもう生きてはいないだろうと思う。
だけど父の遺体は発見されていない。
本当に、父はどこへ行ってしまったのだろう?
「しかしだよ、蒼依くん。最も不思議なのは、君の印象に強く残っているのが、事件当夜、君の母上が取った一連の奇妙な行動のほうではなく、君の世話をしてくれた水森蛍という女性が作った肉料理のほうだ、という事だ。そこから連想した『父親は殺された。この肉は父親の肉だ』という考えが君に定着し、肉恐怖症を発症するほどになってしまったのはなぜなんだろう? かなりズレていると思うのだが……」
複雑な言い回しに少し混乱してきた。
「どういう事?」
「この話を聞いて、大抵の人が抱くのは――失礼な事を言うが怒らないでくれよ」
「うん」
「君の母上が父上を殺して自殺したのではないか、という疑惑だ。十人中十人がそう推理すると思う。なのに、君は明後日の方向を向いて煩悶している。君から話を聞いた限りでは、水森蛍は、君の父上の失踪および母上の自殺とは無関係の、それどころか他人の子供を五ヶ月も預かってくれた、ただの善人だぞ」
そう言われれば、そうだ。あの家にいた時、僕は蛍さんを大好きだったし、祖母が迎えに来て、蛍さんと別れなきゃならなくなった後はしばらく泣いて過ごした。
「気になるのは、やはり、父上はどうなったのだろう、という事だ。生きているのか、死んでいるのか。死んでいるならば、事故死か、殺人か」
殺人――という言葉にぎくりとする。
『悪い魔女が、パパを殺して、お肉にしちゃった』
そんなバカな事を長年ぼんやりと思い続けて来てしまったのは自分なのに、改めて、殺人という言い方をされると、急に事態が生々しく迫って来て冷や汗が出た。
「君が気にしている件に関してだけ言えば、父上が殺害されたのかどうかは、この際、問題ではない。君を責め苛んでいる疑惑は、ただひとつ――『父上を食べてしまったのではないか』という疑惑のみだからだ」
「え……?」
指摘されて初めて気付いた。食べてさえいなければ、死んでいても構わない?
僕の戸惑いを余所に、月ヶ瀬さんはどんどん先へ進んで行く。
「……で、あれば、『父上の肉は食べていない』と確証を得られれば、君の、その重度の肉恐怖症は解消あるいは軽減されるのではないか?」
うっ、と言葉に詰まる。
言われてしまえばその通りなんだけど、そう言い切ってしまったら、さっき「自分を冷たい人間だなんて簡単に決めつけるな」と月ヶ瀬さんは言ってくれたのに、やっぱり「僕は自分勝手で冷たい人間だ」ということになりはしないだろうか。
だって――
「それは、例え父さんが殺されていたとしても……だよね?」
「そうだ」
月ヶ瀬さんは怖いくらいキッパリと言い放った。
流れがイマイチ見えないけれど、たぶん、月ヶ瀬さんは謎を解こうとしてくれているのだろう。謎を解く為には不快な思いや痛い思いもしなければならない、と言う事かな。
はあ、と溜息が零れた。始めてしまった以上、覚悟を決めるべきだろう。
「分かった。続けて」
月ヶ瀬さんはこくんと頷き、言葉を継いだ。
「これから少し推理をさせて貰おうと思うのだが、君の肉恐怖症を克服する為には何をどう捉えれば良いのか、という立場で論を展開させて貰う。多少、倫理を逸脱する部分もあるかも知れないが、大目に見てくれ」
「あ、はあ、分かりました」
「まず最初に考えるべきなのは、果たして父上は本当に殺害されたのだろうか、という事だ。父上は行方不明ではあるが、どこかで生きている可能性もある。生きているならば、君は父上の肉は食べていない。万事解決だ」
うん、と僕も頷く。
「だが、それで君が納得できるとは思わない。生きているなら生きている証拠を、死んでいるなら死んでいる証拠を、きちんと見つけ出して提示しなければならないと思う」
「証拠――? そんなもの……」
無理だよ、と言いかけたが、月ヶ瀬さんに遮られた。
「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなのだが、でも、自分の納得を自分以外に押し付けようとは思わない。納得は、あくまでも、個人の神聖な思考領域の底から自然に発生したものであるべきだからだ。外部からの干渉は思考材料の供給か、あるいは思考活動への刺激に留まるべきだと考えている」
「君が何を言ってるのか分からない」
「うん。そうか。気にしなくても良いぞ」
にぱっ、と月ヶ瀬さんは笑った。
相変わらず言っている事の意味は分からなかったけど、月ヶ瀬さんが真剣に考えてくれている事は分かった。
それにしても、月ヶ瀬さんは変わってる。
父が殺されたとか、その肉を食べさせられたとか、そんな話、どこかの誰かが主張していたら、僕だって、その人の妄想だとしか思わない。月ヶ瀬さんも指摘した通り、普通に考えれば、父は失踪し母は自殺しただけということになる。確かにそうだ。夢追い人だった父は何らかの新しい夢を見付けて家族を捨てて失踪し、母は父に捨てられたショックで自殺してしまったのかもしれない。
そう、普通に考えれば――
父は殺されてなどおらず、僕も父の肉を食べさせられてはいない。
そう考えるのが、普通で、正常だ。
だから僕はこの考えを今まで誰にも話さなかった。
だけど月ヶ瀬さんは、反論はしつつも真面目に聞いてくれる。僕の頭がおかしくなっているんじゃないか、なんて疑っている様子は微塵もない。
「ありがとう」
脈絡もなく言ったのに、どういたしまして、と返された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます