【弐/林檎の半分を】
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これは、僕が子供の頃に起きた恐ろしい事件の記憶だ。
現実とは思えない。もしかしたらただの夢だったのかもしれない。
だけど、実際に父はいなくなり、母は自殺した。
僕は九歳になるまで山梨県八ヶ岳山麓の清里高原で成長した。
僕の父は一言で説明すればろくでなしで、姿を消すまで一度も定職に就かず、実家に寄生してその日暮らしで通した。
母はおとなしい人だった。実年齢よりかなり若く見える人だったと思う。アルバムに貼られた写真を見てもそう思う。写真の中の母は少女趣味な服を着て人形のように微笑んでいる。観光客向けのカフェでアルバイトをし、家計を支えていたらしい。
僕ら家族は――つまり、父と、母と、僕は、祖母の所有する家で暮らしていた。
なぜそうなったのかを説明する為には、まず、父の家族の事を話さなければならない。
父は子供の頃、四人家族だった。
小日向
小日向祐樹が、僕の父だ。
看護師の資格を持っていた祖母は、父が中学生になった頃からのボランティア活動に熱中し始め、父が高校に入学すると同時に海外青年協力隊に志願しラオスへ渡航してしまった。貧困層の子供たちにワクチンを接種するボランティア医師団の手伝いをする為だ。高校一年生の父と、まだ六歳で小学校に上がる前だった朔良さんと、農協職員だった祖父が、山梨の家に残された。
祖父がどんな人だったのか僕は知らない。祖母が海外へ行ってしまってから、二年半後、脳卒中で亡くなってしまったからだ。まだ四十五歳だったらしい。祖父が急死した時、日本にいなかった祖母は葬儀に参列しなかった。十八歳だった父が喪主を務めたそうだ。これは、父が失踪する前、頻繁に口にしていた恨み言なので、僕もよく覚えている。祖母は仕事に区切りが付くまで帰れないと言ったらしい。あと半年だから待っていてくれ、と。
高校三年生の兄と小学二年生の弟が二人きりで広い家に残されたのだ。
「ばあちゃんは酷い人だ」というのが、父の口癖だった。
父は高校卒業後、都内の音楽専門学校に通う為に上京した。
祖母は、その時まだ九歳だった朔良さんの世話をする為に一旦日本へ戻って来たが、四年後、父が東京での暮らしを諦めて地元へ戻ると、十三歳になっていた朔良さんの世話を二十三歳の兄に託し、再び海外でのボランティア活動で家を出た。今度の渡航先もラオスだった。
父は、またも弟の世話をしながら兄弟二人だけで暮らすことになった。僕の叔父の朔良さんはかなりの期間――六歳から九歳までと十三歳から高校卒業まで、十歳上の兄に面倒を見られて過ごしたことになる。
祖母がそんな風に自由に行動できたのは、祖母の生家である八十部家が代々の地主だったからだ。観光地として開発が進む過程で、祖母は相続した山をひとつ売り、金銭的には困らない状態になっていた。
父と母が出会ったのは、父が地元に戻ってすぐの夏のことだった。
数少ない父の友人が主催したなにかのサークルの会合で、無愛想な父に、内気な母のほうが一目惚れしたらしい。写真で見る若い頃の父は、息子の僕から見てもモテるタイプだと思う。白皙の肌に整った目鼻立ち。俯きがちで、線が細く、雰囲気のある美青年といったところか。母は可愛らしいタイプの人だったので、写真に並んで写っている二人は美男美女でお似合いのカップルだ。
友人の仲介で交際をスタートさせ、翌年、二人は結婚し、翌々年、僕が生まれた。
朔良さんは兄夫婦としばらく同居する羽目になったが、同居を始めた四年後――僕が三歳の時、大学進学を機に上京した。そして大学卒業後は、誰にも相談せずにサイパンへ行ってしまった。祖母のようにボランティア活動をしに行ったのではない。海の見えるバーレストランの店員になったらしい。
祖母は相変わらずNGO活動に熱中し、年に数回しか家には帰らず、あの事件が起こるまでのほとんどの期間をラオスで過ごした。
祖母の薄情さは、父と叔父の性格に少なからず影響を与えたのではないだろうか。
誰も、家を愛していなかった。
あの古い家は、誰にも愛されず、ただ黙然と佇んでいた。
そう、古い家だった。
僕が育った家はまさに田舎の旧家といった風情で、観光地であることを意識して建てられた西洋風の可愛らしい建物とは一線を画していた。
懐かしい。だけど、恐ろしい。あの深い森に囲まれた古い家。静かで、暗く、何かを押し隠しているような重苦しさがいつも揺蕩っていた。
そんな家で、僕たちは三人になった。
僕の父は夢追い人だった。
「俺には才能がある。このままでは終わらない。いつかデカイ事をする。有名になって俺を見下した奴らを見返してやるんだ」
父はいつも僕に優しくしてくれたが、仕事の出来る人ではなかった。近場の飲食店で手伝いをしてみても、すぐに店長と喧嘩をして辞めてしまったらしい。
そんな時、決まって父は強い酒を飲んで喚き散らした。暴力を振るうところは見たことがないと思うが、確信は無い。母はいつも八つ当たりをされていて、父に暴言で責め立てられてはしくしくと泣いた。父は、母が泣き出すとハッとしたように態度を変えて、今度は猫撫で声で慰め始める。ごめんな、俺が悪かったよ、と。
「なあ、俺を愛してるだろう?」
抱き締めてくれ、と囁かれれば、母はいつも黙って父の要求に応えた。父に膝枕をしてやりながら、駄々っ子をなだめるように髪を撫でる。そういう時、決まって母は哀しげな微笑を浮かべていた。
十年遅れの新婚旅行をプレゼントしたのは、逼塞していく二人を見兼ねた友人たちだった。父と母を引き合わせた人と、新婚旅行の間、僕を預かってくれた人。
二人はただの友人の為に、割り勘で現金十数万円をぽんと出してくれたのだ。
父は行先を決めずに気儘な旅を楽しむと言っていた。
母は、海が見たい、と言った。
「山ばかりに囲まれていると閉じ込められているような気分になるのよ。広い空と海が見たい。水平線が見たい。どこか遠くの世界に繋がっている果てしない景色を、いつまでも眺めていたいの。そうしたら自由になれる気がする」
二人は小さな車に荷物を積んで意気揚々と出掛けて行った。
そして、事件が起こった――
僕を預かってくれた人は、水森蛍という女性だった。父の高校時代の同級生だということだった。蛍さんの親戚が観光客相手のカフェを経営していて、母はその店で働かせて貰っていた。なにくれと僕たち一家の世話をしてくれていた人だったのだ。
だけど、僕は蛍さんに対して複雑な思いを抱いていた。近所の人が、父と蛍さんは高校生の頃に恋人同士だった、と噂しているのを聞いてしまっていたからだ。父はもう三十四歳になっていたが美貌は衰えず、子供の目から見ても綺麗な男だった。蛍さんはまだ父を好きなんじゃないか――と僕は疑っていた。悪い人だと思っていたのだ。
しかし、実際に接してみると、蛍さんは穏やかで優しい人だった。蛍さんの家は居心地が良く、出される料理も美味しかった。僕は簡単に蛍さんを好きになった。
三日目の夜――
母から「今から帰る」と電話があった。
連絡用に一時預けられていた父の携帯電話をベッドの枕元に置いて寝ていたのだが、その着信音に叩き起こされ、眠い目を擦りながら電話に出た。時計を見ると深夜十二時を回っていて、こんな時間におかしいな、と思ったのを覚えている。
「どうしてこんな時間に帰らなきゃいけないの?」
夜は普通どこかに泊まるものだと思っていたので、僕はそう訊ねた。
「どうして? どうしてかしら? でも帰らなきゃ……」
母の返事は要領を得ず、様子もおかしかった。
不安になり、「パパは?」と問い掛けると、母は息を飲み、しばらく黙り込んだ。それから不意に落ち着きを取り戻した声で、僕に言い聞かせるような口調で言った。
「ごめんね、パパとはもう会えないの」
子供心に何か恐ろしい事が起きたのだと察しが付いて必死で取り縋った。
「なんで? どうして? パパ、死んじゃったの?」
そんなことない、と否定して欲しかったのに、母はそうしてはくれなかった。
「ごめんなさい」
電話越しに波の音が聞こえていた。不気味な魔物の呻き声のような、低く、暗く、重い、嫌な音。目を閉じると巨大なうねりに飲み込まれそうな恐怖に囚われた。
「蒼依くん、おばさんに電話替わってくれるかな?」
いつの間に部屋に入って来たのか、僕のすぐ隣に蛍さんが立っていて、異様な事態に身を竦ませていた僕の手から、そっと携帯電話を取り上げた。
「蒼依くんはもう寝なさい」
そう優しく言って、蛍さんは携帯電話を持ったまま廊下に出て行った。
ベッドに入っても眠れず、身動ぎもせずに悶々としていると、もう一度、父の携帯電話の着信音が鳴った。父の気に入っていた曲なので、間違いない。
僕はベッドを抜け出し、蛍さんの居る一階のリビングへ降りて行った。蛍さんはちょうど電話を切るところだった。
「ママから?」
「だめよ、寝てなさい」
「でも……」
何度も寝るように言われたが、僕は頑固に起きて待っていた。蛍さんも最初のうちは、子供は眠らなければいけない、と穏やかに言っていたのだけれど、深夜四時を回る頃には、もう何も言わなくなっていた。
そうして待つうちに、母だけが帰って来た。
まだ夜は明けていなかった。
「パパは?」
駆け寄って抱き付き、顔を見上げると、母は悲しそうに眉根を寄せた。
「ごめんね、パパとはもう会えないの」
「なんで? どうして? パパはどこ? どこにいるの?」
矢継ぎ早の僕の質問に、母は泣き始めた。
「どうしたの、ママ? なんで泣いてるの?」
蒼依くん、と肩を叩かれた。
「こっちにおいで。ココアを作ってあげる。体が温まったらすぐに眠れるわ」
「でも、ママが……」
「ママは恐い事があって泣いてるの。少しそっとしておいてあげよう」
納得したわけではなかったけれど、他にどうしていいのか分からず、僕は蛍さんとキッチンへ行った。
蛍さんが作ってくれたココアを飲んで五分ほど経つと急に眠くなり始め、くらくらと眩暈がして、僕はその場に突っ伏して寝てしまった。
その時、怖い夢を見た気がする。
最初は、テーブルの上に顎を乗せたパパと目が合った。いないはずなのに、どうしてここにいるんだろう、と不思議に思った。パパの顔に表情は無く、目は虚ろな闇がぽっかりと開いているようで恐ろしかった。
その後、誰かの声を聞いた気がする。
「肉にするしかないじゃない」
意味が分からなかった。でも、とても恐かった。
ずっと体が揺れていて、波の上に浮かんでいるみたいだった。
目が覚めた時、僕はベッドにいて、時計は午後一時を回っていた。
母はまだリビングにいた。服は着替えていたが、一睡もしていないだろうことは察しが付いた。疲れ切って憔悴し、ひどくやつれて見えた。一晩で幾つも歳を取ってしまったようだった。もう泣いてはいなかったが、目は真っ赤に腫れていた。
昨夜のように勢いに任せて問い詰めてはいけないと思い、努めて優しい態度で母に接した。静かに近付き、震えていた母の手を握る。
どうしたの、と訊ねると、パパは殺された、と母は言った。
「どういうこと?」
「ごめんなさい。ごめんなさい、蒼依……」
もう何も言わず、またも涙を零し始めると、後は狂ったように母は泣き続けた。
そして翌日、夜が明けてすぐに――
母は自殺してしまったのだ。
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