_04
気が付くと、僕は月ヶ瀬さんに膝枕をされていた。
横倒しの景色に、あれ、と思い、次いで、右側の頬がやけに温かく良い香りがする事に気が付き、弾力がある枕をまさぐって、それが形の良い膝頭だと気が付いた。
「うわっ、ごめん」
がばっと勢いよく起き上がり周囲を見回す。
「急に起き上がったら危ないではないか」
月ヶ瀬さんは長い黒髪を揺らして仰け反り、ぷうと頬をふくらませた。それから白い肌をほんのり赤く染めながら、
「おでこをぶつけるところだったぞ」
と文句を言ったが、それどころじゃない。
辺りに誰も見知った顔はいないだろうな。こんなところを誰かに見られていたら、僕はおしまいだ。
と言うか、月ヶ瀬さんがおしまいだ。
ただでさえも今日の事で――それに関しては彼女の自業自得だが――僕と交際しているんじゃないかと噂されるようになってしまったのに、その上、こんな場所で僕なんかに膝枕をしている姿を見られでもしたら、噂は事実と誤認されてしまい、勝手に公認カップルにされてしまう。
そんな事になったら、本当に月ヶ瀬さんに申し訳ない。償っても償いきれないよ――と、大仰に思いはしたものの、彼女にどう謝罪していいのか分からず、僕は結局つまらないことを言った。
「ケバブは?」
「もう冷めてしまったよ」
忌まわしい臭いを漂わせる紙袋は、月ヶ瀬さんの隣の席に、僕から距離を取るように置いてあった。気を遣ってくれたのだろうか。だとしたら、ありがたい。
少しの間、二人そろって押し黙っていた。
心なしか月ヶ瀬さんは、怒っている、というか、悲しんでいるように見えた。いや、悲しんでいるというよりも、もっと……ああ、拗ねているという表現が近い……と、そこまで考えた時、月ヶ瀬さんは唐突に僕に向き直った。
「失敬だな、君は。私の奢りの肉が食べられないと言うのか」
いきなり詰られて面食らう。
「そうじゃないよ」
「だが、気絶するほど嫌だったという事だろう?」
「そうじゃないってば」
「確かに強引だったが……私は、私は君に、そこまで嫌われていたとはな……」
ちぇっ、というように月ヶ瀬さんは唇をとがらせた。
「え……私は――って何? 嫌い? 月ヶ瀬さんを? 僕が?」
どうしてそんな極端な解釈になったんだ?
僕はそんなこと一度も言ってないし、思ってない。
確かに強引だし、話し方も変だし、彼女のせいで注目の的にされておかしな騒動に巻き込まれて迷惑だけど……月ヶ瀬さん個人を嫌いかと言われたら……
どうだろう? ハッキリ、嫌い、というほどの感情はない。
うん。たぶん違う。嫌いじゃない。嫌いになるほど君を知らないよ、なんて酷い事を言うわけではなくて……別に嫌う理由は無いと言うか……僕は人と関わるのは面倒だと思っているけど、実は、それほど人間が嫌いというわけではない。
本当に面倒なだけなんだ。
悶々と考え込んでいる間に、月ヶ瀬さんはしょんぼりと俯いてしまった。僕に嫌われたと勘違いして傷付いているように見える。さすがに胸が痛む。
「ごめん。だから、そうじゃないんだ」
「じゃあ、どういうことだって言うんだい?」
顔を上げた月ヶ瀬さんは、秀麗な眉根を寄せて縋るような上目遣いで僕を見る。
はあ、と溜息をひとつ。分かったよ。降参だ。
「月ヶ瀬さんが嫌だったんじゃない。肉がダメなんだ」
きらん、と月ヶ瀬さんの両目の奥が光ったように見えた。
「やはり、そうか」
「え……?」
唐突に態度が変わる。ふふん、と片手を腰に当て、月ヶ瀬さんはベンチに腰掛けたまま器用にふんぞり返る。
「えっ、えっ、ああ――っ!」
直感的に、僕の脳裏で理解が弾けた。
「鎌をかけたのか? もしかして、僕が肉を苦手だって事……」
「承知の上だった。その程度は入学してからのこの二ヶ月間、クラスメイト全員を観察しながらでも分かった。ただ、君の肉嫌いは少し常軌を逸している。食べ物として嫌いだというレベルを越えている。偏食というより恐怖症だ。そう、あたかも肉を恐怖しているかのように見えたのだ。なぜ君はそうなのか?――それが、どうしても気になって、我慢できずにこうして手出しをしてしまった。しかし、すまない。まさか気絶するほど症状が深刻だとは思わなかった。私の不徳の致すところだ」
ぺこりと頭を下げる。月ヶ瀬さんは元の不遜な月ヶ瀬さんに戻っていた。
なんだか怒るのもバカらしくなってしまった。
迷惑だと思ったり、謝罪しなきゃと思ったり、怒るべきかと思ったり、今日は感情が忙しくて目が回りそうだ。いや、もう回したけど……
それに、肉が恐い――ということはただの事実だ。恐怖症と言えば言えなくもない。それを指摘されたからといって、いちいち怒るような事でもない。
「もう、いいよ。気にしないで。今回は不意打ちを食らったからこんなみっともない状態になってしまったけど、気構えさえしておけばもう少しは我慢できるから」
「だが、本当に君を気絶させるつもりはなかったんだ。やり過ぎてしまって申し訳ない。君の気が済むまで、どんな償いでもしよう。許してくれ」
「いや、そんな、償いなんて大袈裟な……っていうか、女の子がそんな軽々しく、何でもするなんて言っちゃダメだよ」
「え? 何でもするとは言っていないが? 私がすると言っているのは『償いに該当する妥当な行為』だけだ。いったい何をして貰えると思ったのだね? よもや、あんなことや、こんなことではあるまいな? ふふふっ、君は意外と妄想が逞しいのだな?」
月ヶ瀬さんは揶揄うように片目を瞑った。
顔がカアッと熱くなる。
うわ、僕としたことがなんという失態を――
「わ、忘れてください……」
身の置き場がなく、顔を両手で覆って小声でなんとか謝罪を絞り出した。
僕が恥ずかしさに身を縮めていると、それはともかく、と月ヶ瀬さんは空気を変える。
「話してくれないか? 気絶するほど肉が苦手な理由を」
僕が肉を苦手な理由……
「話しても意味ないよ。ものすごくバカバカしい話なんだ。僕の妄想かもしれなくて、自分でも信じられなくて夢だと思ってるくらいなんだから」
「いいよ。それでも聞きたい」
「どうして……?」
月ヶ瀬さんは片目を瞑る。
「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなんだ」
また同じ言葉だ――今日はこの台詞を三度聞いた。
「それは君の決め台詞なのかい?」
「そのつもりだが?」
「ちょっと長過ぎるよ」
僕が突っ込むと、月ヶ瀬さんは満足げに微笑んだ。
「なあ、君、自覚しているか? 同じクラスになって以来、初めて、君の無表情のペルソナが剥がれているぞ」
そう嬉しそうに言ってから、白くて細い秀麗な指先で僕の頬を軽くつつく。
「な、何するの……っ!?」
月ヶ瀬さんに触れられた部分の感覚が妙に鋭敏になったように感じた。
「小日向蒼依くん」
改めて、こほん、とひとつ咳払い。月ヶ瀬さんは僕に真っ直ぐ向き直った。
「なんでいちいちフルネームで呼ぶかな。蒼依でいいよ」
「では、蒼依――」
って、呼び捨てはおかしいでしょ。僕が下僕かペットみたいだ。変な気分になる。
「月ヶ瀬さん、あの、やっぱり『蒼依くん』でお願いします」
「そうか? では、蒼依くん。私のことは『柊さん』でいいぞ」
さん付け指定かよ。あくまでも自分が上なんですね。
「もう『月ヶ瀬さん』で馴染んじゃったから……」
言外に辞退する。月ヶ瀬さんは特に気にするそぶりはなかった。それよりも、もっと別の話が彼女の最優先懸案事項なのだろう。
月ヶ瀬さんは力強く、まるで歩を踏み出すように、僕に向かって手を差し出した。
「さあ、話してくれないか。私の興味を満たす為だけにではなく、君の為にも。話すことで解決の糸口が見つかる場合も無きにしも非ずだ」
「言っても信じないよ」
「言ってみなければ分からないだろ」
「じゃあ、言うけど、絶対信じないよ……」
「言ってくれ。私は信じる」
月ヶ瀬さんは胸に手を当て凛々しく請け負った。その頼もしく清々しい姿は、まるで王子様のようだった。女の子なのに不思議だ。
でも、だから、彼女なら信頼しても良いような気がする。
僕は初めて『自分の秘密』を語ることにした―
†††
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