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 ぴくぴくぴくっ、と面白いように祖母の頬は痙攣した。ものすごく怒っているように見える。けど、ここで高校生の少女相手に感情的になるのは大人げないので必死に耐えているといった風情だ。祖母のこんな姿は初めて見た。申し訳ないが、少し愉快だ。

 はあ、と大仰に嘆息し、祖母はせめてもの腹いせに月ヶ瀬さんをじろりと睨んだ。

「本当は私が付いて行きたいのだけど、この頃は足が悪くて……」

 ちらり、と僕に視線が向く。

「朔良(さくら)に電話します。どうせあの子は暇でしょう。こんな時くらい、おまえの面倒を見させないと……」

「え? 叔父さんに?」

 母が亡くなった後、朔良さんがすぐにサイパンから帰国しなかったことを、祖母が日頃からねちねちと責めているのを僕は知っている。僕から見れば祖母も朔良さんと同罪なのだけれど、祖母自身はそう思っていないフシがある。祖母がそんな風だから、朔良さんの反抗期がいつまでも長引いたのではないだろうか。

 朔良さんが日本に戻って来たのは、母が亡くなってから三年後、あの震災が起こった後のことだ。さすがに思うところがあったのだろう。

「でも、叔父さんは……」

 まだ定職に就いていないし、人間的にもアテにならない。

「ダメよ。叔父さんと一緒に行きなさい」

 有無を言わさず祖母はその話を打ち切った。最悪だ。これで、あの叔父と一緒に行かねばならないことが確定した。

「少し待っていなさい」

 そう言って祖母は自室へ向かい、クローゼットに仕舞ってあったであろう段ボール箱を引き摺るようにしてリビングダイニングまで運んできた。

「言ってくれれば僕が運んだのに」

「いいんですよ。それに、男の子に下着も仕舞ってあるクローゼットを見せるほど、私もまだ老いてはいません」

 相変わらずの西洋かぶれな凛としたプライドでぴしゃりと言い、祖母は段ボール箱の蓋を開く。中には様々な品がよく整理させて詰め込まれていた。

「祐樹の遺品です」

 それは不思議な感覚だった。箱の中に詰まっていた品物たちには、父の個性が残っている。古い音楽再生機器やヘッドフォン、ギターのピック、CDが何枚か、父が気に入って使っていた久谷焼きの高価なカップ、ベネチア製のシャンパングラス、輪島塗の椀、ネクタイとシルバーのタイピン、タグ・ホイヤーの腕時計、ハードカバーの小説が数冊に文庫本も数冊、それに、卒業アルバムと卒業証書の筒もあった。

 祖母は、それらの品の中から一冊の本を選び取り、僕に差し出した。

 文庫本より少し大きいサイズだが、薄い。五十ページあるかないかといったところか。カバーは無く、表紙には『水晶結社』というデザインロゴが爽やかな藍色一色で印刷されていた。

「この奥付に名前のある人が祐樹のたった二人の友達のうちの一人です。父親の過去が知りたければこの人を訪ねなさい。高校時代から気難しい祐樹を気にかけてくれた奇特な人ですし、世間話くらいは聞かせてくれるはずですよ」

 本を受け取り、奥付のページを開いてみると、僕たちが以前住んでいた家に近い清里の住所と共に、熊井明彦という名前が記載されていた。名前の横に編集責任者とある。

「この本、何?」

「あの子が昔、仲間と作った文芸誌ですよ。祐樹の書いた童話が載っています」

「童話? 父さん、童話なんて書いてたんだ?」

「祐樹は自分で歌を作るのが好きでしたからね。その延長で短い物語も一作だけ書いたようですよ。なんにも物にならない子だったけど、お婆ちゃん、そのお話は嫌いじゃありませんよ。おまえの父さんは酷いろくでなしだったけど、ほんの少しくらいなら文才があったのかもしれませんね」

 じわり、と何かが胸の奥から込み上げる。ずっと幻のようだった父が、不意に実感を伴って、生きていた人になっていく。

「それと、これが蛍さんの家の住所です」

 祖母は日常使いのカバンから手帳を取り出し、必要な情報をメモ用紙に書き写してくれた。名前、住所、電話番号。熊井さんの電話番号も同じ紙に書き添えてくれる。

 手渡されたメモに、あの家の住所が書かれていた。

 蛍さんの家――僕が五か月間暮らした場所。毎日が穏やかで、人生で最も幸せだった場所。父が帰って来るんじゃないかと待っていた場所。

 懐かしくて涙が出そうになった。

「いいですか。話を聞かせて頂いてもいいのは、蛍さんと熊井さんだけです。お二人に話を聞かせて貰ったら、後は観光でもして楽しんで来なさい。くれぐれも、近所の他の誰かに話を聞こうなんて思うんじゃありませんよ。言っておきますけど、そんな事をして嫌な思いをするのはおまえですからね」

「なんでそんなに念を押すの? そんなに僕が人様に迷惑を掛けないか心配?」

「違いますよ。おまえの為です」

 祖母からは厭味な気配は感じられなかった。本当に僕の為を思って言ってくれているような気もする。意味が分からなくて首を捻ったら、ぽん、と祖母に肩を叩かれた。

「さあ、彼女を家まで送って行ってあげなさい。こんな時間に女の子一人で帰らせるなんて、お婆ちゃんは絶対に許しませんからね」

 なぜか祖母は月ヶ瀬さんを睨み付けながら言った。その目には、問答無用という気迫が漲っている。たぶん月ヶ瀬さんが、一人で帰れるぞ、と言い出しそうな女の子だったからだ。余計な意見を言わせない為に機先を制したつもりだろう。

 月ヶ瀬さんはお見通しの顔で頷いた。

 その秀麗な顔は、仕方ないな、と微笑んでいるようにも見えた。


   †††


 月ヶ瀬さんの家は、うちと同じく駅の北側にあり、しかも、うちからほんの五分ほどの距離にあるという事だった。教えられた住所は一戸建てが立ち並ぶ閑静な区域で、どうやら月ヶ瀬さんはお金持ちのようだ。

「月ヶ瀬さん、今日はものすごく付き合わせちゃってごめん」

 小さな公園の前に差し掛かった時、僕は月ヶ瀬さんに頭を下げた。僕の自宅マンションを出る頃には時計の針は九時を回っていて、高校一年生の女の子が男子と二人で出歩いていて良い時間じゃなかったし、本当にものすごく色々な事に付き合って貰ったから。

「なんだ、今さらそんな事を言い出すのか?」

「だって……」

 月ヶ瀬さんとは今日初めて喋ったと言うのに、たった一日で、ここまで色々な事が変化するとは思いもしなかった。彼女がいなかったら、僕は行動を起こすことなんて出来なかったと思う。何もせず、目を閉じ、耳を塞いで、一生、死んだように生きていったかもしれない。

「バカだな。これは私の楽しみでもあるのだから気にしなくていい」

 月ヶ瀬さんはくるんと傘の柄を回した。公園の煉瓦敷きの水飲み場の廻りを、黄色い街燈が照らしていて、そこだけがぽっかりと夜の暗さから浮かび上がって見える。

「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなのだが、それよりも、友達が笑ってくれる事のほうがもっと好きなのだよ」

 月ヶ瀬さんは、にぱっと屈託なく笑った。

「え……?」

 意外にもマトモな言葉に、僕は虚を突かれ、思わず黙り込んでしまう。

「あ、意味が伝わらなかったか?」

 きょとんとする僕の眼前に、月ヶ瀬さんは指で作ったピストルを突き付ける。

「君に笑って欲しいんだ」

 BANG!

 放たれた弾丸は、真っ直ぐ僕の心臓(ハート)を打ち抜いた。

 耳たぶが熱い。

 なんて女の子なんだ。

 上から目線の芝居がかった口調で喋り、尊大で、傲慢で、気障で、強引で、勝手で、変人だけど、友達思いの優しいお節介屋。

 それが、月ヶ瀬柊という少女の本質だったのだ。

 まだ雨は降っていたけれど、圧し塞がれるような憂鬱な気分は消えていた。


   †††


 翌、金曜日――

 空はまだ雨模様ではあったけれど、ほのかに明るい気配もあった。

 子羊学園は高等部のみに留まらず中等部や職員室まで噂の暴風圏と化していた。月ヶ瀬さんはやっぱり学園一の美少女だったわけで、そんな彼女が、僕みたいな奴と付き合い始めたという事は――事実ではなくても、らしいというだけで――大事件だったのだ。片や学園一の美少女、片や友達も作らずみんなと距離を置いている孤高と言えば聞こえはいいが、ただの暗くて地味な男子。それは、まあ、誰もが納得いかなかっただろう。突き刺さる視線は昨日の非ではなかったが、僕は気にならなくなっていた。

 月ヶ瀬さんと一緒にいられる幸運は、野次馬にじろじろ見られる不快に耐える価値がある。月ヶ瀬さんも同じように思ってくれていると良いのだけれど……

 休み時間ごとに、僕と月ヶ瀬さんは一緒に過ごし、お昼も一緒に食べた。

 放課後――

 月ヶ瀬さんと一旦別れて、祖母の待つマンションに帰宅すると、玄関に銀色の派手なスニーカーが脱ぎ捨てられていた。

 嫌な予感を覚えながら、奥のリビングダイニングへ向かう。

 テレビの音がうるさい。

 画面には夕方の情報番組が映っていて、案の定、叔父の朔良さんがリビングダイニングでドーナツを食べていた。僕のマグカップを勝手に使って珈琲も飲んでいる。

「よっ、久しぶり」

 朔良さんは僕を見るなり、スチャッと片手を上げた。

 確か先月、三十一歳になったはずなのに異様に若く見える。

 淡いミルクティー色に染めたバサバサの髪はうなじを隠す長さで、邪魔なのか、耳の横を赤いヘアピンで留めていた。整った女顔だから似合ってはいるけど、スゴイ髪……と言うか、服もスゴイ。ピンクの地に白い小花が散ったガーリーなシャツを着て、手首にはゴツい蛍光グリーンの時計をはめているし、腰で履いたユーズドのデニムパンツは足首が見えるように裾をロールアップし、ウエストには赤いキャンバスベルト、靴下は可愛いバンビ柄だ。オジサンが女子力高くてどうすんの、と心の中で突っ込んだ。

 そのオシャレ、誰が喜ぶんだよ。

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