【壱/僕と、月ヶ瀬柊という少女】
_01
梅雨は濡れそぼる。何もかもが。
目覚めはいつも憂鬱だ。
窓を叩く雨音に耳を澄まし、「ああ今日も雨だ」と僕は言った。
そう、言った。声に出して。それで少し脳が覚醒する。起きて、今日も普通の人間として行動しなければ。
僕の罪がバレないように――
気持ちが悪い。余計なことを考えたせいだ。
窓を開けて確認する。
やっぱり雨だった。
僕は
ふと視線を向けると、クローゼットの扉に組み込まれた姿見用の鏡に自分が映る。冴えない奴だ。ひょろひょろで、背は高くも低くもない。ぼさぼさの黒髪は少しだけ毛先に癖がある。伏し目がちで青白い顔は陰気に見える。
ああ、今日も僕は僕だ。間違いなく、僕。他の誰かになりたくても、なれない。
世界は無情だ。
「蒼依――」
祖母の声がリビングダイニングから響いてくる。
「さっさと起きて、朝食をお食べなさい」
はあい、と声を出して言う代わりに僕は数歩移動し自室のドアを開けた。
僕は祖母と二人暮らしだ。
東京北多摩にある某市、西武鉄道の某駅から徒歩十分のこぢんまりとした分譲マンションに住んでいる。近くに特筆すべきランドマークは無い。高層建築物はほとんど無く、緑もぽつぽつと目に出来るが、せいぜいが個人邸宅の庭か公共の植栽程度だ。都会というほどには煩雑でなく、田舎というほどには美しくない。
山梨の森に比べて東京の景色は味気ないと思う。
僕は生まれ故郷が好きだった。
目を閉じれば、いつも、息苦しいほどに濃密なあの
顔を洗って髪を整え制服に着替えてからリビングダイニングへ向かうと、食卓にはすでに朝食が用意されていた。
外国かぶれの祖母はベーコンエッグとトーストを食べているが、僕の分は白米に小松菜のお浸しとオクラの味噌汁と焼き鮭だ。ベーコンの調理臭が残っているのが気になって、ベランダへ続く掃出し窓を開けに行く。
「換気扇は回しましたよ」
チクリと厭味を言われてムッとする。
「まったく、お肉が食べられないなんて変わった子だね」
面倒臭そうに祖母は言い、なら食事の世話はしてくれなくていいのにと僕は思う。
僕は祖母と暮らし始めてから肉が食べられなくなった。
最初は生肉がダメになった。祖母に引き取られた最初の週末、地元の焼肉店に連れて行って貰ったのだが、その時、最初の異変に見舞われた。それまで好物だったはずのユッケが、突然、ひどく恐ろしいもののように思えたのだ。孫の好物だと思って注文した祖母は、しきりにそれを食べるよう勧めてきたが、僕はとうとうルビー色の生肉には手を付けられなかった。
次は血の滴るようなレアステーキがダメになった。あの赤く濡れた切り口とじわりと染み出すワイン色の肉汁を見た途端、激しい嘔吐感に襲われて僕はトイレに駆け込んだ。
それから段々と食べられる肉料理が減っていき、最初は普通に食べられたよく火を通した肉もダメになった。肉の形をとどめないハンバーグや肉団子、ミートローフも食べられなくなり、ハムやベーコン、ソーセージのような加工肉食品もダメになった。
今は、肉は一切食べられない。
「神経質というか、おまえには少し潔癖症気味のところがあるわね」
僕は、いただきます、の代わりに黙って手を合わせ、味噌汁に口を付けた。
祖母は大仰な溜息をつく。
痩せぎすで、灰色になった髪をおかっぱにし、細い銀縁の老眼鏡をかけた祖母がそんな風にすると、気難しい人を怒らせてしまったような重い気分になる。
祖母は実際気難しくて、無愛想で、口数も少ない。二人で暮らすようになって七年目になるのに、笑うところをほとんど見たことがない。僕の祖母には圧迫感、あるいは威圧感がある。何かをしろと人に強要する事は無いのだけれど、自分に厳しく、社会正義を大切にし、羽目を外す事もなく、地味だけどいつも礼に恥じない服装をしていて、何事も疎かにしない。約束は守るし、守らせる。それが周りの人間を委縮させる。
ところが、自分が対峙する人間にどんな印象を与えているのか無頓着なようで、祖母はいつもの硬く乾いた声で苛々と愚痴る。
「まったく、今時の若い子はそういうものなのかしらね」
悪気は無いのだろうけど、そんな声音で言われると気分は塞ぐ。
急速に食欲は失せていった。砂を噛むように、味のしない朝食を咀嚼する。
連日降り通しの雨が今朝はやけにうるさい。リビングダイニングのテレビを付けると、いつものお天気キャスターのお姉さんが白いスーツでにこやかに予報を告げた。
《梅雨前線が北上する影響で太平洋側を中心に強い雨が降っています。梅雨とはいえ、今日は一日、荒れたお天気になるでしょう。お出かけの方はお気を付け下さい》
荒れ模様になるなら出掛けたくないな、と思ったけれど、僕が学校をズル休みしたりすれば、祖母は必要以上に心配する。僕にはある事情で学校に通えなくなっていた時期があるからだ。原因はいじめなどではない。学校には関係ない。
小学三年生の八月の初め、突然、両親を失くしたからだ。
父は失踪し、母は自殺した。
それから五ヶ月間、真夏の八月から雪のクリスマスまで、僕は父母の知り合いの家に預けられていた。
その人は、とても綺麗な人だったと思う。あの家でのことは、すべてが夢の中での出来事のようでぼんやりとしている。でも、他のどの時期よりも幸福だったような気がしているのだ。不思議なことに……
祖母は、僕の両親が亡くなった当時、後進国でインフラ敷設を支援するNGOの職員をしていて、すぐには僕を迎えに来られなかった。遠いラオスで、井戸を掘るプロジェクトに携わっていたのだ。諸々の機微に通じている適切な後任者が見付かるまで、帰国は事実上不可能だった。現地の役人や地主との折衝役をしていた祖母が仕事を投げ出せば、困窮している人々の為に大勢の人が必死で立ち上げたプロジェクトが、頓挫してしまう恐れもあったからだ。
結局、後任者は見付からず、祖母は自分の任された仕事を終え、プロジェクトが一段落つくまで現地を離れられなかった。
そんなこと――つまり、自殺した嫁の葬儀にも立ち会えず、失踪した息子を捜索する事も叶わず、残された孫を半年も他人に預けっぱなしにせざるを得なかったという不随意の事件――があったせいか、祖母は、今はリタイアして貯蓄を切り崩して僕と二人きりで生活している。山梨の不動産をすべて売り払ったので、それなりに蓄えはあるらしい。
「財産は残してやれないけれど、大学を出るまで面倒を見る余裕はあります。だから精一杯勉強しなさい」
というのが祖母の口癖だ。
祖母が迎えに来た時、僕はどう感じたのか覚えていない。
ただ、あの人の家に帰りたくて何度も泣いた。誰よりも優しくしてくれたあの人に、理由も無く捨てられたような気がして、とても悲しかったのだ。
僕は生まれてからあの人に預けられるまで、ずっと山梨の祖母の持ち家に住んでいたのだけれど、仕事で家を空けることが多かった祖母とはあまり顔を合わせたことはなく、懐いていたとは言い難かった。祖母に引き取られた当初は、まるで冷たい他人と暮らしているようで馴染めなかった。
だからなのか、自分でもよく分からないけれど、生まれ育った山梨を出て、祖母が東京に新しく買ったマンションへ引っ越して来てからも、冬休み明けから学年末まで、僕は学校へ行けなかった。
学年が上がって、一度も通わなかった公立小学校からカトリック系の私立子羊学園に転校させられ、それでやっと学校へ行けるようになった。
転入手続きの日は、祖母に無理矢理に手を引かれて学園の事務局へ連れて行かれた。その時、初めて見た校門の鉄柵には大きな十字架が組み込まれていた。それがまるで強い魔除けのように見えて、僕の中で何かが落ち着いたのだと思う。
その時期の事を祖母はしつこく覚えていて、僕がまた不登校になりはしないかと、いまだに疑っているようなふしがある。心配しつつ恐れている、と言ったほうが正しいかもしれない。
とにかく、祖母に探るような目で見られるのは良い気持ちのすることではない。どちらがより面倒でないかと問われれば、ずぶ濡れで登下校することのほうだろう。
「ごちそうさま」
食べ終わった食器をシンクに置いて、祖母が作ってくれた弁当の包みを掴み、教科書などの詰まったカバンを肩に掛ける。
「いってきます」
小声で言ってリビングダイニングを出ようとすると、祖母の声が背中から追い掛けて来た。
「今日は梅酒を漬けるから、早く帰って来てちょうだい」
振り返って見るともなしに祖母を見る。朝刊に目を落として僕の方は見ていなかった。
「うん、分かった」
声に出して言うと、祖母は横顔に少しだけほっとしたような表情を浮かべた。
梅仕事は家族でやるものだ、というのが祖母の信条らしく、さして手が必要なわけでもないのに手伝わされる。面倒ではあるけれど、梅の実は好きだ。甘くてふくよかな芳香は心地好い。翡翠色の肌に淡く紅挿した姿も綺麗だし、手触りも良い。
祖母は梅酒を癖のないホワイトリキュールではなくブランデーで作る。氷砂糖は少なめにし、水に一晩沈めて黄色く熟させた梅の実を手頃な値段のブランデーに漬けるのだ。水に沈める前に、まだ翡翠色の梅を洗いヘタを取るのが僕の仕事だ。祖母は梅酒用の瓶を洗い熱湯消毒する。
そうして漬けた梅酒は、飲み頃になると、みんな、祖母が以前お世話になった人たちにお歳暮代わりに配ってしまう。祖母はお酒を一滴も飲まない。それなのに毎年わざわざ僕に手伝わせて梅仕事をするのは、たぶん祖母なりの孫とのコミュニケーションなのだ。
無愛想で口数の少ない祖母と、同じく無愛想で感情が乏しいと言われがちな僕。
二人きりでうまくやるには、何か作業が必要だ。
玄関の鍵をかけ、エレベータを使って一階へ降り、自動ドアをくぐり、エントランスの外へ出て透明なビニール傘を開く。
雨足は強い。
鉛色の梅雨空を見上げて溜息をついた。
†††
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