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私立子羊学園までは自宅マンションから徒歩二十分ほどの距離がある。
踏切に引っ掛かるのが嫌で、一旦駅の北口階段を昇り、改札前を素通りして反対側の南口階段を降りる。バスとタクシーが我が物顔で占拠しているロータリーを無視して細道に逸れると、そこからは学園に向かう生徒ばかりになる。
早足で歩いていたら女子の集団に追い付きそうになってしまった。追い越して彼女たちの目を引くのも嫌なので慌てて歩く速度を落とす。後ろから見ると、可愛らしい柄と明るい色の傘の群れは揺れる花束のようで、こういう光景を眺められるなら雨に濡れるのも悪くはないな、と少しだけ思った。
それにしても、今年の梅雨は肌寒い。しつこい雨が地面を冷やしているのだろうか。僕の記憶する限り、もう三日も連続で雨空だ。衣替えはとっくに済んでいたのだけど、冷え性の女子はサマーカーディガンを羽織って登校していた。
歩くうち、がっしりとしたゴシック風の校門が見えてくる。
子羊学園は相応に広い敷地を所有している。周辺には、緑の乏しい北多摩地区では例外的に古い雑木林が残っていて、
僕がこの学園を気に入ったのは、校門の鉄柵に大きな十字架が付いていたからというだけではない。瑞々しい樹々を授業中も眺めていられるから、でもある。
件の大きな十字架の付いた校門を抜けて、真っ直ぐ校舎へ向かう。正面玄関に続く煉瓦敷きの広い通路は黒く濡れそぼっていて、あちこちに水溜まりが出来ている。通路の両脇は花壇になっており、植えられている青い紫陽花は満開だ。
昇降口で上靴に履き替えている時、見知った顔に出くわしたが、特に挨拶を交わすでもなく、なんとなくお互いに目を逸らしてそそくさと歩き始める。
祖母に似て無愛想な僕は、校内ではほとんど口を利かない。それでも、いじめやからかいの対象にはされていない。祖母が僕の為に選んだ学園は、一学年二クラス、各三十人が定員の小人数制で、生徒は中流以上の家庭の子が大勢を占め、穏やかな校風が売りだ。少しくらい変な奴がいても、そっと無視しておいてくれる。
板張りの廊下をゆっくり歩き、校舎二階の一年A組の教室へ向かう。扉を開けると、ほとんどのクラスメイトがすでに登校してきていて、ホームルームが始まるまでの一時、仲良し同士が固まって、教室のあちこちで談笑していた。
僕には話す相手はいないし、気を使ってまでしたい話もない。いつも通り小説を読んで時間を潰そうと、昨日買っておいた単行本をカバンから取り出した。
ところが今日に限って、席に着いたと同時にクラスメイトの女子が、唐突に僕に話し掛けてきた。
「やあ、おはよう。小日向蒼依くん」
一瞬、何が起きているのか分からず、きょとんとしてしまった。
彼女の名前は知っている。
――
サラサラで真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばして、透けるような白い肌をしている。すらりと伸びた手足はガゼルのようで、まだ胸も薄い。大きな黒い瞳をキラキラさせた、凛々しい美少女だ。たぶん、男子に人気があるんじゃないかな。
彼女は小中からのエスカレーター組じゃない。わざわざ外部から受験して高等部に入学してきた奇特な生徒だ。だから僕の評判を知らないのかもしれない。
僕は、ひとりで静かに過ごしたいのに。
「何か用?」
「もちろん用があるから話し掛けているんだ。当たり前だろう?」
にやり、と月ヶ瀬さんは悪徳業者のように笑った。
脳内で警戒アラームが鳴る。
僕なんかに話しかけるなんて、彼女はいったいどういうつもりだ?
「確か、君と話をするのは今日が初めてだと思うけど?」
言外に、放っておいてくれ、というニュアンスを滲ませたつもりだったのだが、月ヶ瀬柊は鈍感だった。あるいは、察した拒絶を無視できる程度に図々しかった。
僕の前の席にどかっと座り、両肘を僕の机に乗せて身を乗り出して来た。秀麗に整った顔を間近に据えられ、僕は少し動揺してしまう。近い。女子とこんな距離で話したことなんかない。
そんな僕には頓着せず、月ヶ瀬さんは一方的に話し続ける。
「小日向蒼依くん。なあ、君はどうしていつもそんな暗い顔をしているんだ。俄然、興味が湧くね。私に君を観察させてくれないか」
「はあ!?」
あまりの言い草に呆れて、僕は数秒、言葉を失った。
「君は……少し人格に問題があるみたいだね」と僕は言った。
「うん、まあね」と月ヶ瀬さんは悪びれずに頷く。
「私は入学式から今日まで、つまりこの二ヶ月間、クラスメイトを観察し、君以外の全員のキャラクターをある程度は把握した」
「キャラクターって……」
いちいち言い回しがイタイ子だな。
「性格の傾向と言い換えようか」
びしっ、と月ヶ瀬さんはポーズを決めた。
うん、やっぱりイタイ。
「最初に言っておくが、これはあくまでも私が個人の感覚で言っていることであって、学術的な意見ではない。そもそも専門的な教育もまだ受けてはいない。まあ、とにかく、恣意的な与太話として聞いてくれ」
「ごめん。君が何を言ってるのか分からない」
「ああ、いい。気にしなくて構わない。大抵の人が私の話は分からないと言う」
こほん、とここで咳払い。
「人間は、エーリヒ・フロムが世界に対する関係のありかたとして挙げた五つのタイプのいずれかに、直感的に分類可能なのだ。あっ、あくまでも、私の場合は――だぞ」
はあ、としか、もはや言いようがない。
「ちなみにタイプは、受容的、搾取的、貯蔵的、市場的、生産的の五つだ」
ここで僕はやっと気が付いた。月ヶ瀬さんが何を言っているか――にではない。それはまったくもって、皆目、微塵も分からない。高邁な話題の神髄についてではなく、もっと卑俗的な、さらに言えば、下世話な、つまらなくてくだらないことに気が付いたのだ。
クラスメイト達の好奇の目が、僕たちに向けられていた。
ざわざわと教室中に動揺が広がっていく。
「え、どういうこと? あの二人、仲良かったっけ?」
「まさか付き合ってるの?」
そんな囁きがあちこちで起こっているのに月ヶ瀬さんは気付かない。周囲のざわめきなど、どこ吹く風で自分の言いたい事を淡々と、しかし情熱的に言い募る。
「私は分からないということが嫌いなんだ。他の者は簡単に理解出来た。だが、君だけが分からない。最も近いのは受動的なタイプなのだが、そう判断してしまうには君は許容性に欠ける。冷淡さは搾取的なタイプの特徴にも見えるのだが、攻撃性も欲も薄過ぎる。貯蔵的、市場的、生産的のいずれでもない。君はその年齢にしては淡泊過ぎるのだよ」
「君もこの年齢にしては素っ頓狂だと思うけど?」
僕は、この、という部分に力を込めて言った。僕と彼女は同じ歳だという事を、まるで年上のような態度の彼女に思い出させようとして。そのついでに黙らせようとして。
その目論見は見事に失敗した。
月ヶ瀬さんは、周囲の目を完璧に無視してのけているのと同様に、僕の厭味も完璧に無視した。いや、と言うか、そもそも少しも聞いてはいなかった。
「見えない。分析出来ない。分類できない。理解できない。だから、気になる」
ぐい、と僕の額に指を突き立て、月ヶ瀬さんはよく通るメゾソプラノで言った。
「という訳で、今日の放課後デートしよう。それで、なにくれとなく質問させてくれ」
「はあ!?」
月ヶ瀬さんのその言葉はまるで落雷だった。
どーん、と凄まじい衝撃が教室中に広がり、それから辺りは水を打ったように静まり返った。感電死でもしたように倒れ込んでいる男子もいる。
「デート?」
「ああ、デートだ」
「それ、僕に何かメリットある?」
「あるじゃないか。私のような超の付く美少女とデートできる」
ふふふ、と月ヶ瀬さんは喉の奥からくぐもった忍び笑いを洩らした。
「信じられない。君、頭がおかしいよ」
「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなんだ」
これが――彼女、月ヶ瀬柊の決め台詞だった。
†††
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