週末のラジオ

中田満帆

週末のラジオ


   *


 散水機が回転しながら水を撒き、青い芝のうえに曲線を描きつづけている。真昼のこの町もすっかり秋になった。母さん、聞えますか?――いままさにむかいの犬が吠え、やがて交尾の喘ぎが聞えて来ます。あなたがぼくの犬を棄てにいった夜、あなたの眼ン玉めがけて唾を嘔き、罵ったときをきのうのように懐いだす。ひとはなんと愚かなのか。だれかが一方的に正しいとされる時代はもう終わりました。安全と安寧を祈って、この土地では秋祭りがひらかれます。来週の、10月7日だ。ぼくは是非ともあなたに来てもらいたいとおもっています。娘の葉月は6つになったというのに、じぶんの祖母の顔さえ知らないというありさまです。どうか、来てください。

 あたらしいキーボードを買ったから、験しにこんなことを打ち込んでみた。わたしは母の現住所を知らないし、もちろん娘なんかいやしない。結婚もない。3年もまえだ、母が癌であるとひとから教えられたが、おれはそいつを含めて、過古を締めだした。なんだか、論説めいた文章になってしまいそうだ。わたしは不安に駈られてる。よくわからないけれど、不安が高波を打ってる。

 散水機はとまった。たったひとりの作業員が庭をまわって、やがてビルのなかに消える。わたしは3階からそれをぢっと眺めてた。終わったんだ。確かめてから、わたしは無線に耳を澄ませた。父親がハムをやってたかかわりで、わたしも機械をいじりだしたのは15歳の夏だった。高校受験の気晴らしに他人の会話や、ひとりごとを傍受しては、おもしろかったことや、その周波数をノートに記録して遊んでた。ひと殺しのセクト宗教の演説や、誇大妄想狂のばかどもが、わたしにとって隣人になった。いまは警察無線の盗聴もはじめ、車を走らせては事件や事故の現場にいき、カメラを構えてる。週末には旅行にでかけ、走りながらいろんな現場――世界でほんの少しだけ有名なれた土地を流れる。でも、きょうはまだ金曜日。旅はあしたからの予定だった。朝から二宮をでて、大阪へ入って、そっから区外を廻ろうとおもってる。まあ、なんてことはない旅だ。

 無線からはいつものように隣人の室から実況中継が聞えて来る。だれかが仕掛けた盗聴器がものをいう。若い女のたわいもない会話がする。わたしはヘッドホンに切り替えて、そいつを大音量で聴く。かの女はこれから風呂に入るらしい。だんだん、かの女の声に興奮を憶えるわたしがいる。片手で陰茎を上下運動させながら、脳内でかの女の声を賛美した。いつも交わされる何気ない挨拶の記憶さえも、こういったときには性欲を駆りたてる道具にしかならない。おれの手のなかで亀頭がうえを向いた。精液が迸り、タオルのうえに発射された。わたしはヘッドホンを外して、手を洗いにいった。それから水を呑み、ほかの周波数へと、ちがうムードへと移行してった。

 朝になってわたしは車をだして、町をでた。高速には乗らない。あくまで一般道で情報を探った。不審者、痴漢、万引き、やくざ――そんな話ばかりで退屈してしまった。絵になりそうな放火や、強盗、殺人や自殺の現場には、きょうはありつけないのか。わたしは休憩のため、スーパー・マーケットに車をつけ、飯を喰うことにした。パンとコーヒーで済ました。やがて日が暮れて、宿をとった。無線を聴きつづけたものの、大した収穫はなかった。くだらないラグチューばかりだ。そしてその翌る日もなかった。わたしはバカらしくなって、帰りの道では、なにも聴かなかった。


   *


 あたらしい仕事が、作業所の仕事が始まった。住宅地のなかにある小さな作業所で、老人や精神障碍者たちが雑貨の梱包材を組んだり、貝殻を磨いて装飾品をつくったりしてる。わたしの仕事は、大半がかれらを見守ることで、あと質問に答えたり、見本の品を見せたり、体調を気づかうふりをすることにある。つくり笑顔で顔が痛い。17時には終わって湊川公園から地下鉄で帰る。最近は無線いじりもやめてしまってた。他人への関心が薄れて来たのかも知れない。始終、ひとびとと狭い空間のなかをともにして、そして帰宅してさらにだれかに興味を持つというのはむずかしい。フルタイムの仕事のあとに、残業をやってるみたいなものだ。

 そうおもえば早いもので無線は棄ててしまった。わたしにはなにも残されてないように感じた。それまでわたしを規定していたなにかが幻だったと教えられたような気がする。だが、たとえそうであってもわたしには生きる以外になにもなかったし、どうすることもできなかった。しかたなく、ふつうのラジオのまえに坐って、話や音楽を聴いた。だれの秘密でも、隠しごとでもない情報に歩調を合わせるべく、苦心する、心を砕いて、膝を守る、姿勢を正す。毎晩、そいつを繰り返した。やがて心惹かれる声の番組に出逢った。

 かの女の声は素晴らしかった。高音域を抑えた、やわらかな声で、ゆっくりと慈しむようにリスナーのメールや葉書を読んだ。毎週末、かの女のラジオを聴いた。できればおれも、そうわたしはおもった。メールを送って、かの女に読んでもらいたくなった。それからわたしは1ヶ月、かの女の番組にメールを送りつづけた。たった1度だけ、かの女の声が、わたしの筆名を読み、そして本文を読みあげ、そしてありがとうございますと礼をいってくれた。わたしはひじょうに満足したものの、どこかで冷めてしまってた。ラジオの電源を切って、「もはやなにもすることがない」とだけ、呟いてみた。夜の虚空の遙かむこうで、散水機が暴れだすのを期待した。なにもなかった。


 《――神戸市の**さん、いつもお便りありがとうございます。すべてはご紹介できませんでしたが、大変うれしくおもってます。あなたの生活が充たされて、じぶんのやりたかった、ほんとうのことを見つけらるといいですね。わたしはずっとこの仕事をつづけたいし、来年にはなにかイベントでもやれたらなんておもってます。では次の頼り・・・ ・・・》。


 すべてに敗れて、すべてを失った男のようにわたしの生活は荒んだ。ほとんど理由らしい理由もなく、なにもかもがまったくのつくりごとで、でたらめでしかなかったとおもいながら過ごした。作業所の仕事は辞め、倉庫マンにもどった。無線といい、ラジオといい、どれもがわたしの人生を喰い逃げしてゆくのはどうしてだろうか。


   *


 土曜の夜のコンビニエンス・ストア。ふたりの男が捕まえたアキアカネをわたしに見せびらかす。わたしはそのまま無視して、店内に入った。上半身裸の白人が笑顔いっぱいに物色してる。店員はなにもいわない。わたしもなにもいわない。おまえは裸だといっても、だからなに? といわれたら、もう返しようがない。ウィルキンソンを買ってでた。アキアカネの若者たちはまだいた。ふたたびわたしに搦んで来る。このなにもない男に。かれらはなにをキメしてるのか。大きな眼がわたしを捉えて放さない。勝手にするがいい、そうおもって歩きだした。かれらは着いてくる。どこまでも、どこまでも。アパートのまえまで来て、わたしはふりかえった。

 「なにか用か?」

 「いやいやいや、あんたのラジオを聴いたんですよ」

 「ラジオ?」

 「あなたの葉書が毎週読まれてる・・・ ・・・」

 「そんなはずはない、おれはもう投稿もしてないんだ、それに」

 「それに?」

 「住所も氏名も公開しなかった」

 「でも、かの女はいまもあんたについて放送してる・・・ ・・・」

 「――放送してる?」

 わけがわからなくなって、わたしは階段をあがった。あの女が、おれを売ったのか、それもどうして?――疑問は尽きなかった。だが、やれることはひとつ、ふたりを閉めだすことだった。でも、一瞬だけ遅かった。ひとりが扉をこじ開け、もうひとりが室のなかに這入る。血の気の引くようなおもいがして、わたしはナイフを握った。木製の柄に鯨の姿が掘ってあった。相手の若造はまったく動じない。

 「刺して見ろよ!」

 「ああ、そうするさ。おまえを刺しておれも死ぬ」

 でも、とわたしはおもった。ほんとうにかの女はおれを売ったのか?

 「いったい、かの女はなにをいったんだ?」

 「そいつは教えられない。あんたには死んでもらう」

 「どうしてだ?」

 「これがかの女の指令なんだ」

 もうひとりの男も室に這入って来た。どうすることもできない。窓から飛び降りることもできない。わたしは高いところが苦手なんだ。もうひとりの男がラジオをつけた。あの番組が、かの女の番組がやってる。最近はキャラクター作画をはじめたという、かの女はひとりの人物が、ふたりの人物によって追いつめられてるさまを書いてると話す。


 《それでですね、ひとつの空間のなかに透視図法を使って、人物の配置を決めるんです。時間はかかるけどなかなかおもしろいんですよね、これは。今晩、お手紙頂いた**さんも、絵なんか始められたら、もっと充実するとおもいますよ。――では、次の曲です。リクエスト頂きました、The smithsで"Still ill"です》。


 "Still ill"は、わたしの好きな曲だった。モリッシーが歌う。《イングランドはぼくのもの/ぼくを養う義務がある》。でも、最期に聴いたのは15年もまえのことだった。夏の日の午後、無線の勉強をしながら、ラジカセから聞き流してたなかの1曲に過ぎない。だのにいまではなにかが極まった情況のなかで、ぴったりの歌かも知れなかった。男たちはわたしのからだにぴったりとからだをくっつけて、わたしを窓際に追いつめた。かれらの眼のなかのわたしが少しづつだが、消えていく。ふいに歌が終わって、やさしかったはずのかの女の声が、無機質な機械音声のようになっておれに語りかける。


 《その恐怖があなたにとっての啓示なのです。たとえばあなたの台所で深夜、鱈が捌かれるとき、あなたのなかにある、もっとも血腥い欲望が目覚めることでしょう。それがあなたの自然であり、あなたの生き方なのです。あなたは最良のリスナーでした。でもそれも昔のこと。頼りを寄越さないあなたをわたしは見限った。さて、わたしの古い友だちよ、これは別の世界からの放送でした。わたしたちが行こうとしているところまで、もしひとつのためらいもなく到着できるとしたら、それほど喜ばしいことはありません。着いたら、もう一度放送をするでしょう。いままでありがとうございました。そしてさようなら、さようなら》。


 気がつくと、男たちは消えてた。おもてから凄まじい音がする。窓をあけてみると、散水機が暴走して、作業員が潴のなかで溺れようとしてるさまが見えた。わたしはなにもおもわなかった。窓を閉め切って、できるだけ、じぶんの安全を確保しようとした。そしてラジオをぶっ壊した。不燃物の袋に入れた。睡眠薬を呑んで、ウィルキンソンを飲み干した。たったいままでのことは忘れよう。わたしはいった、さようなら、さようならと。どうしたものか、しばらく嗚咽しながら。


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週末のラジオ 中田満帆 @mitzho84

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