終章:海

第1話

 船そのものが大型の客船だからか、それとも、海そのものが穏やかな快晴にある影響か、船の揺れは非常に僅かだった。

 澄み渡る夏の色の空と――、まだ濃くて深い日本近海の海の色。

 まあ、それはそれで、南洋の華やいだ海の色とは違った味があって素晴らしいとは思うが……。

「手摺から落ちてはくれるなよ」

 身を乗り出して海を見る千鶴に、流石にここまでははしゃげないな、と、嘆息しながら俺は告げた。これじゃ、猫の方がまだ落ち着いている。

 初めての海……ってか、水がいまいち好きになれないのか、主人においていかれた錆猫の百は、俺の太股の上で丸まっていた。

「分かっている」

 こっちを振り向きもせずに、上気した声で返事した千鶴。

 やれやれ、と、笑い、日傘の下のデッキチェアーでくつろぎながら、左手で適当に猫を撫でながら、大佐からの手紙に目を落とす。

 背広の隠しに大佐が押し込んだ封筒には、独逸領南洋諸島にあるある飲食店の権利書と、二人分の偽造旅券、そして一枚の手紙が添えられていた。


 独逸極東艦隊の行動方針を探れ。


 たった、一文の命令書。

 足が付くのを嫌がったのか、何所にでも有る普通の便箋に、それだけが書かれている。

 俺達の逃避行中に、大日本帝国は英国の要請に基づき、独逸に宣戦布告している。亜細亜の独逸の拠点は、大きく二つ。青島と南洋諸島だ。

 艦隊決戦の可能性の有無や、もし艦隊決戦を行うとなった場合の予想海域についての情報が欲しいのだろうが……。

 しかし、海軍の管轄へ陸軍からの協力は、――尤も、俺はもう正式に帝国陸軍に籍は無いので、所属における詭弁は幾らでも使えるが――かなり珍しい。

 海軍へ恩を売ることを大佐が意図したのか、それとも、青島での作戦に海軍を使い、その借りを返すためかは判じかねるが、いずれにしても、仕事そのものの難易度以上に面子を保たせてやるのが面倒な仕事になりそうだ。

 ――が、まあ、面白そうではあるし、提供された物件は魅力的だ。正規の手順と同じ工程で発行された偽造旅券も、今後、相当に役に立つ。

 それに、確かに敵陣のただ中ではあるが、この程度の山なら、千鶴を完全に守るのも不可能では無い。戦時下の欧州を駆け回るのは難しいが、大西洋が荒れているおかげで、太平洋の航路は既に活況を呈しており、様々な人や物が行き交っている。


 ――と、そこまで考え、思いの外、千鶴の安全を気にしている自分に苦笑いしてしまった。

 成程、どうやら今度は、唆した俺自身が、過去のその選択の結果に新たな選択を迫られているのか。

 そうだな、今なら――。

「どうした?」

 いつの間にか近付いていた千鶴が、デッキチェアーに寝転がっている俺を見下ろしながら、不思議そうに尋ねて来た。


 俺は、さっきまでの思考もあって、すぐには答えずに、薄く笑ったまま千鶴の目を見詰め返す。

 視線が重なって、五秒ほどで、千鶴は頬を染めて視線を逸らした。

 その瞬間を狙って俺は返事をする。

「なんでも……ところで千鶴、降りる場所が変わりそうだがいいか?」

「構わぬ」

 一も二も無く千鶴は返事をした。

 まったく、俺は口を酸っぱくして考えろと言っているのに、千鶴のこの部分は何時までたっても直らない。

 呆れた顔をした俺に、少し不満そうな千鶴の顔が突きつけられた。

「お前と一緒なのだろう?」

 拗ねた目で俺の目を覗きこんで尋ねる千鶴。

「ああ」

 素直に返事をすると、何故威張ったのかは不明だが、千鶴は胸を張って傲然と言い切った。

「なら、ワタシに不満などあるものか」

「成程……。確かに、お前はそう言ってついて来たのだしな」

 俺は楽しそうに笑って、それから言葉を続けた。

「ただ、それなら、今後も俺と危険なヤマを幾つも超える必要が有るぞ?」

「危険なのか?」

 少し不安そうに聞き返してきた千鶴に、俺は隠さずに答える。

「ああ、今回より少しは」

 あっさりと言い切った俺に、千鶴は渋い顔をした。

 この顔は、そんな頼み事のおまけをした兄に不満を心の中で呟いている顔だ。

「大佐が苦手なのか?」

 ふと思い立って、からかうように尋ねれば、思いの外、弱気な返事が返ってきた。

「十二も歳が離れておるのだ。接点は元々少ない」

 言い訳のように言った千鶴だったが、それは充分に苦手という事だろうと俺は考え――、ん? と、今更の疑問に首を傾げた。

 お偉いさんの娘の結婚適齢期は、暗黙の了解のようなものがあって、千鶴もそれに従って、あの……ええと、あれだ、昨日の小物役人と結婚するのだと思っていたのだが……それなのに、大佐と、たった十二歳しか違わないのか?

「千鶴は、大佐とは十二歳差なのか?」

 踏ん反り返っていた椅子から上半身を起こし、千鶴に正面から尋ねる。猫が姿勢を崩して、デッキに――落ちずに綺麗に着地した。が、千鶴は錆猫の桃を抱え上げ――しかし、潮風の影響なのか桃は迷惑層な顔をしている――、怒ったような顔を俺の前に突き出してきた。

 ひとつの失敗とひとつの誤解を誤魔化すように、軽く頭を掻き――。

「いや、俺は、どこでも無駄な時間を使わずに、士官学校を出てここまで来たのだが……」

 てっきり、千鶴は同い年だと――いや、確かに確認したことはないのだが――思っていたので、計算の合わない大佐と千鶴の年齢差をやんわりと伝えてみる。

 千鶴が考えるのに要したのは、ほんの一拍分。

「いや、間違えた、兄とは十四歳差だ」

 焦りが透けて見える済ました顔で、千鶴は言い切った。

 そうか、と、追求せずに微笑ましい目を向ければ、弱気に主張する千鶴が居た。

「本当だぞ?」

「そういう事にしておきましょうか、年上のお姫様」

 無礼になるぐらい丁寧に畏まって答えれば、怒った千鶴に飛び掛られた。

「年上は嫌いか?」

「俺がそんな細かいことを気にするとでも?」

 千鶴に首に纏わりつれながら、甘えた質問にいつもの含み笑いで答える。

 千鶴は、しばし考えていたようだが――。

「お前は、分かりやすいようで分からない」

 と、そんな事を、拗ねた顔で言った。


 ま、確かにそうかもな。

 千鶴程、顔や行動に出る性質ではない。

「では、千鶴の都合の良い方に受け取ってはどうだ? 考えても分からないなら、まず、行動してみるのが良いかも知れんぞ?」

「言ったな! ワタシは、今、その言葉を、ワタシにとって都合よく解釈したからな!」

 照れ隠しに怒ったように話す千鶴を、適当にあやしながら考える。


 どこまで千鶴の傍らに俺が居るのか、今は分からない。千鶴の物語の終点が何所なのかが分からないのと同じだ。

 案外あっさり次のヤマで俺が死ぬかもしれないし、南洋諸島で別の面白いなにかを見つけるかもしれないし、お互いがより魅力的な異性と出会う可能性も否定出来ない。

 ずっと昔からこうしているような気がしているが、俺達の逃避行が始まってから、まだひと月も経っていない。あの許婚の件に限らず、掛けた時間や金でどうにかなるものではないんだしな、人の心は。

 そもそも、大佐からの命令にしたって、今は従う必然性は無い。

 俺達は、完全に自由なんだから。


 そう、自由だから――、側にいる。

 隣にいたいと思える限り、ずっと。

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夜の庭園 カクヨム改稿版 一条 灯夜 @touya-itijyou

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