紫草の君に捧ぐ恋の歌

みなもと十華@『姉喰い勇者』発売中

第1話 紫草の君

 例えば、僕が君を思うように――――

 求めるのではなく、ただ相手の幸せを願うだけの恋も存在するのだと。



 僕が、この武蔵野に越して来たのは中学生の時だった。今思えば、とても幼く淡く痛みさえ伴う恋だったのかもしれない。


 転校初日

 初めて会った君は、メガネの似合う地味な印象の人だった。クラス委員だからと校舎の案内を任され、当たり障りのない会話をしながら一緒に歩くだけの退屈で何の変哲もない、転校初日に初めて話しただけの同級生。

 そんな印象がぐるりと変わったのは、それから一か月ほどしてからだった。


 学校に早く着き過ぎてしまったあの日、君は花瓶の水を替え教卓を拭いていた。

 その時、僕の心に鮮烈な衝撃が走った。思春期特有の高潔さを求める思考なのか、それともただの中二病的な妄想なのか、誰も見ていないのに善行をする彼女を美しいと思ったのだ。


 紫草ムラサキという草がある――――

 白く小さく控えめな花をつけるが、その根は古来より染料として使われ、冠位十二階の最上位の色とされている。見た目は儚く控えめだが、されど中身は高貴で尊い。

 まるで彼女のようだと思った。


 その頃の僕といえば、自分は何者なのかなどという、よくある若き日の悩みを抱えその気になっていたのだが、彼女の鮮烈な衝撃により自分が何者なのかより、彼女が何者なのかの方が重要になってしまったくらいだ。



 それから僕らは、図書室でよく話す事になる。お互いに本が好きという事もあり、図書室で話すのが日課のようになった。色々な事を語り合った。好きな本や作者、昨日見たテレビ番組、将来の夢――――

 意外な事に、彼女の好きな音楽はロックだった。


 少しだけ自慢気に思えた。地味な印象の彼女の好きな音楽を知っているのは自分だけなんだと。



 それは、人生に於いて本当に輝いている軌跡だったのかもしれない。毎日が色とりどりで鮮やかに見え、彼女との時間は何ものにも代え難い宝物だった。


 しかし、輝く季節は終わりを告げ、やがて夜の闇がやって来るのだ。中学卒業と同時に再び引っ越しが決まり、遠く離れた高校に入学する事になる。彼女との物語は終幕を迎え、その人生は交差する事は無いのかと、微かな予感が脳裏に過ぎった。



 あの日――――

 君は言った。『卒業おめでとう』そして『私の事を忘れないでね』と……




 紫の ひともとゆえに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る



 古今和歌集にある詠み人知らずのその和歌は、たった一本の紫草がある為に、広い武蔵野中に生えている草が全ていとおしく思えるという意味らしい。

 僕は、遥か昔の、そこに存在した人に想いを重ねる。あの時の、あの輝いた季節が在ったからこそ、この街も、関わった人も、全てが美しく懐かしい思い出なのだと。それは確かにそこに存在した。

 ただ過ぎゆく季節を駆け抜けた、鮮烈な青春の1ページが。




 あれから、どれだけの月日が経ったのだろう。僕は再び、この武蔵野を訪れている。全てのものが足早に通り抜け、過去という牢獄に囚われてしまう中で、この地での思い出だけが今も燦然と輝いていた。


 懐かしい通りを歩いていると、柔らかな陽射しの中に佇む君を見つけた。それはまるでキラキラとした光に紫草が揺れるように。そして僕は納得する。


 君は幸せを手に入れたんだ――――


 君は隣に立つ男性と共に店に中に消えて行く。

 不思議と悲しくはなかった。

 彼女が幸せならそれで良い。

 それが例え、その相手が僕じゃないとしても。

 彼女が選んだひとなら間違いはないはずだから。



 誰もが欲に塗れ、人より得をする事ばかりに躍起になる昨今。ただ、相手の幸せを願うだけの恋があっても良いじゃないか。思い出は美しいまま、この街と共に人の想いも歌になって、誰かの心に残り続けているのだから。










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