第41話 私 その4

 師匠は死んだ。

 半月前の祭の日、男は亡くなった。私と会話を交わした後、自動車に轢かれたのだ。夏の暑さで、意識が朦朧としていた老人が撥ねられた事故。果たして事故だったのか、それとも自ら車道へ飛び込んだ自殺なのか。それは誰にも分からない。もしかしたら、警察はなにか思うところがあったのかもしれないが、それも想像の話だ。私たち一般人には、知らされることなどない。

ともかく、私の言う通り男は死んでくれた。だけど、私の心は晴れないままだった。

 『さけ太鼓』のお別れ会は、師匠のお別れ会にもなった。師匠が死んだせいで、バタバタと先送りになってしまったのだ。暑さもおおかた鳴りを潜め、すっかり秋が見えてきた。お月見も兼ねましょうか、と蟻早さんはススキを飾って、お団子まで作ってきてくれた。早めの夕食がてら、みんなは机に並んだ料理に手を伸ばしては談笑している。お通夜とまではいかないが、どこか辛気臭い空気が漂う。

 みんなが顔を揃えるのは、久々だった。この会食には、啄木鳥くんや、いっくんも来てくれた。みな、神妙な顔をして、目の前のオードブルを箸で摘まんでいる。蟻早さんだけが、いつもと変わらない顔で飄々としていた。私は表情を忘れたまま、お別れパーティーの様子を見つめていた。

 師匠も死に、私に残されたのは太鼓だけだった。忌々しいから、持って行って欲しい。奥さんにそう懇願されては、仕方ない。私は思わず太鼓を引き取ってしまった。会館の太鼓も、もうじき処分しなければならないという。もう、私たちがここにたむろする理由もないし、権利もなくなる。これまで当たり前だった『さけ太鼓』の日々は、本当に姿を消すことになった。

「蟻早さん、太鼓叩かないんですか?」

「全く叩かないわけじゃないわ。これからも、小学生向けに教える機会はあると思うから。でも、それだけね。今までみたいに叩こうとは思えないわ」

「おーちゃんは?」

「叩く。でも、今じゃない。叩くべき時がくれば」

 その目は、新たな未来に目を向けていた。おーちゃんは、現在、周りの大人たちを説得中だ。高校卒業後は、島に戻る決心をしたという。島でできる仕事は、細々と農家になるか、女の子には不向きな漁師になるかのどちらかしかない。島にいい男でもいるんかね? と囃し立てられているが、おーちゃんはきっぱりと首を振った。

「民宿してるところのお手伝いしようかと思ってて。こっこさんのようになりたいんだ」

 今日のしみったれた宴会には、こっこさんも来ている。白羽の矢が立った本人は、びっくりした顔をして、照れたようにうっすらと笑った。ほかにも、島での生活の動画にしたいらしい。太鼓の配信ライブで、味をしめたようだ。

「こっこさんは?」

「もうこりごりね。おーちゃんがやるってんなら手伝うけど」

 一連の騒動で、私たちが失ったものは多い。だけど、生まれたものもある。その一つが、おーちゃんとこっこさんの友情だろう。真反対なタイプの二人だが、根っこの部分は案外似ている。いつの間にか意気投合しているが、納得だ。

「おばさんは?」

 みんなに聞きまわっているのだから、同じ質問が返ってきて当然だ。

『叩けよ』

 亡き男の声がいつまで経っても耳を離れない。呪いのようにこびり付いている。二度と落とせない汚れのようだ。

 私はおーちゃんの質問に答えず、意味ありげに微笑んで見せた。

 その時、私の携帯が震えた。ナイスタイミングだ。私は素早く電話に出て、「お願いします」とだけ短く言った。「あいよ」と威勢のいい声が響く。

 会館の中から、微かにトラックの音が聞こえる。来た来た、と私は会館の扉を開けた。何事か、と周囲が怪訝に思う中、ゲストの二人が登場した。

「やあ! 久々だね。みんな元気だった?」

「久々じゃねえさね。さっさと運んでこい」

 頭を叩いたのが墨田さん。叩かれたのはお弟子さんだった。へいへいっと、お弟子さんはすぐさま会館の外へと飛び出した。

「あんたが呼んだんさね?」

 蟻早さんは呆れた目を向けた。そうだと私は頷いた。修理が終わった太鼓は、どこに行くのか。聞けば、蟻早さんが引き取ると言ったという。それも、どこかの学校に譲ることを考えていたという。『さけ太鼓』の名物大太鼓を、人様に渡すわけにはいかない。私は引き取りたいと申し出た。今ある貯金を切り崩してでも、手元に置いておきたいものだった。

「墨田さんにお願いして、今日この日に引き渡してもらうように言ったんです」

「なして」

 面倒なことを……。蟻早さんの目は、そう言っていた。隣のおーちゃんと、こっこさんは目を輝かせている。目を大きく見開く啄木鳥くん。口が半開きになっている。えっちゃんは、うーくんの耳元に口を寄せている。「よかったね」うーくんは、いつもの態度を忘れて、素直に頷いていた。普段からそんな感じで接すれば、えっちゃんともうまくいくのに。お節介ながら、そんなことを考えてしまう。

 お弟子さんが、えっちらおっちらと大きな台車に乗せて持ってきた。降ろすときは、墨田さんも手伝う。一緒に台座を乗せて、布を剥がす。

 ピカピカな太鼓が、姿を現した。みな、一斉に群がる。最後の舞台を一緒に立つことができなかった『さけ太鼓』の大太鼓は、以前にも増した貫禄を帯びて、そこに佇んでいた。

「すごいねえ」

えっちゃんの無邪気な声に、太鼓職人の二人は、顔を綻ばせた。えっちゃんの魅力は、どんな大人にも通用するらしい。本人に全くその気がないというのが恐ろしい。

 えっちゃんは更に言葉を続ける。

「ここに、新しい物語が太鼓の中にしまわれたんだね」

「おうよ」

 したり顔で、墨田さんが頷く。「太鼓が分かってきたじゃねえか。どうだ? 太鼓職人にならないか?」あとで止めなければ師匠の二の舞になりそうだ。蟻早さんと目が合う。私たちは、お互い苦い顔をしていた。周りのロリコンを止めるよりも、えっちゃんを大人にさせた方が早いのかもしれない。それはのちのち考えることだ。

 太鼓の中の物語とは何を指しているのか。それを知っているのは、墨田さんとえっちゃんだけみたいだ。うーくんも怪訝そうに二人の会話を聞いている。

私にも分からない。でも、これから、この太鼓と共に、人生の物語を紡ぐのは、私である。私が、紡ぐ。

 これから捧げるのは、『さけ太鼓』と亡き師匠への鎮魂歌だ。

 静かに眠れ。見守る人よ。

「邏」

 私は小さく声を上げ、バチを振り下ろした。

                 完

 

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